継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~ 作:yami_craft
五十六本目は、立花由香から、来た。
夜中に、電話が鳴った。
由香からの電話は、いつも、日勤明けの、昼間だった。
夜中に、かかってきたのは、初めてだった。
「404号室で、新しいことが、起きています」
「来てもらえますか」
由香の声は、いつもより、静かだった。
言葉の切れ目に、息継ぎの音が、混じっていた。
上着を、羽織った。
ノートを、鞄に、入れた。
夜道を、病院へ、向かった。
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病院に、着いた。
正面玄関は、もう、閉まっていた。
夜間受付の、狭い明かりだけが、点いていた。
夜勤の看護師控室で、由香は、待っていた。
白衣の襟元を、両手で、押さえていた。
いつもの、疲れた優しい目じゃ、なかった。
「聞いてください」
由香は、そう言って、話し始めた。
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(由香の語り)
今夜も、いつもの、巡回でした。
十時、十二時、二時、四時。
内科病棟の廊下を、歩きます。
靴の底が、床に、擦れる音。
消毒液の、匂い。
ナースコールの、待機灯。
奥の病室から、点滴台の、車輪の音。
十年、変わらない、夜です。
404号室は、今、空き部屋です。
木曜日に、患者さんが、退院されて。
まだ、次の方は、入っていません。
いつも通り、前を、通り過ぎようと、しました。
でも、ドアが、少しだけ、開いていました。
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三年前、由香が初めて話してくれたときから、もう何十回も、確認しに来たと言っていました。
多い月は、週に、二回。
少ない月は、一度も、ないこともある。
今夜は、久しぶりでした。
手を、ドアに、かけました。
一瞬、動きが、止まりました。
理由は、分かりません。
でも、開けました。
いつもの、手順です。
決まった動きです。
体が、勝手に、覚えているくらい、何度も、してきました。
消灯された、部屋の中。
カーテンの隙間から、月明かりが、細く、差し込んでいました。
洗面台の横に、縦長の、鏡が、あります。
十年間、あの人を、見てきた、鏡です。
その鏡の、前に。
人が、立っていました。
後ろ向きでした。
背の高い、男の人でした。
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鏡の前に、立っている。
鏡の中じゃ、ないんです。
床の上に、立ってました。
十年間、あの人を、鏡の中でしか、見たことが、ありませんでした。
鏡を、別の部屋に、動かしたことも、あります。
鏡がなければ、あの人は、来ませんでした。
今夜も、鏡は、いつもの場所に、あります。
でも、あの人は、鏡の前に、立っていました。
まるで、鏡から、出て、きたみたいに。
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声が、出ませんでした。
足も、動きませんでした。
その人が、ゆっくり、振り返りました。
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夫でした。
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十年前の、あの日と、同じ顔でした。
年を、取っていませんでした。
髪の分け方も、頬のこけ方も、あのころのままでした。
亡くなる前の、少し痩せた、体つきも。
夫が、笑いました。
「由香」
「もうすぐ、会えるよ」
「俺、ずっと、待ってたから」
十年間、あの人は、いつも、「此方に来い」としか、言いませんでした。
泣きながら、それだけを、繰り返してきました。
今夜は、違いました。
泣いていませんでした。
穏やかな、顔でした。
鏡の外に、立っている夫を、見るのは、初めてでした。
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怖かったのは、夫の顔じゃ、なかったんです。
「もうすぐ会えるよ」って、言われて——
嬉しいと、思ってしまった。
その、自分でした。
会いたかった人が、目の前に、いる。
それだけで、胸の奥が、緩んでいくのが、分かりました。
十年間、我慢してきたものが、ほどけていく感じでした。
最期の日、夫が、何か言いかけて、言えなかったことを、今、聞けるかもしれない。
そう、思ってしまいました。
十年間、ずっと、待っていたのは、私のほうだったのかもしれません。
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一歩、下がりました。
下がったとき、足元を、見ました。
廊下の光が、床まで、届いていました。
私の影が、なかったんです。
いつもは、ちゃんと、あります。
さっきまでは、あったはずです。
夜勤の照明は、変わっていません。
夫が、そこに、立っている間だけ。
私の影だけが、消えていました。
私は、廊下に、出ました。
後ろを、振り返れませんでした。
(由香の語り、終わり)
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由香は、そこまで話すと、両手を、膝の上に、置いた。
指先が、少し、震えていた。
「私、消えかけてるんでしょうか」
由香は、言った。
「それとも」
「あの人がいる場所には、影が、いらないんでしょうか」
私は、答えを、持っていなかった。
ノートに、そのまま、書いた。
由香は、それ以上、何も、訊かなかった。
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由香を、送り出す前に、ナースステーションに、寄った。
由香が、今日の記録簿を、開いた。
夜勤担当の欄を、見た。
自分の名前が、なかった。
昨日までの、日付には、あった。
今夜の欄だけ、空白だった。
隣の同僚の名前は、あった。
由香は、それを、指で、なぞった。
何度も、なぞった。
何も、言わなかった。
私も、何も、言えなかった。
病院を、出た。
夜道を、歩きながら、考えた。
十年前、夫の最期の言葉は、「全部見える」だった。
今夜の夫は、そこまで、言わなかった。
「もうすぐ」としか、言わなかった。
まだ、全部は、見えていないのかもしれない。
鏡が、もう、要らなくなっただけ、なのかもしれない。
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家に、帰った。
由香の話を、ノートに、書き写した。
五十六本目の蝋燭に、火を、灯した。
炎が、右に、揺れた。
十九話、連続だった。
書き終えたノートを、閉じる前に、四十本目の蝋燭を、見た。
由香が、最初に、来た夜の、蝋燭だ。
芯の長さも、蝋の減り方も、ほかの蝋燭と、変わらなかった。
ただ、壁を、見たとき。
ほかの蝋燭の影は、いつも通り、壁に、並んでいた。
四十本目の炎だけ、影を、持っていなかった。
蝋燭を、少し、動かしてみた。
炎の位置が、変わっても、影は、現れなかった。
いつからなのかは、分からなかった。
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残り、四十四本。
会いたくて、会いたくて、たまらない人が、今、目の前に、現れたとしよう。
名前を、呼ばれたとする。
迷わず、駆け寄れるだろうか。
それとも一瞬、その人の顔より先に——自分の足元を、見てしまわないだろうか。
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【次回予告】
百物語 第五十七話:記録の意味
記録を、一日、止めてみることにした——観測者が、初めて。
二十四時間後、六人全員から、同じ文面のメッセージが、同じ秒数まで揃って、届いた。
「あなたが、止まると、私たちも、止まる」
ノートを開くと、止めていたはずの欄に、すでに、自分の字で、記述があった。