継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~ 作:yami_craft
ある男が私の前に現れ、「同じ火曜日を繰り返している」と訴えた。最初は週に一度やってくる退屈な繰り返し——のはずだった。だが、彼の部屋には、繰り返しのたびに増えていく日記があった。
私は彼の話を、そのまま記録する。
火曜日の朝は、いつも同じだった。
6時45分にアラームが鳴る。二度スヌーズを押して、6時54分に起き上がる。カーテンを開ける。曇り空。天気予報は降水確率40%。折りたたみ傘を鞄に入れる。
トーストを焼き、コーヒーを淹れる。マグカップの取っ手が少し欠けている。食パンの袋には残り三枚。冷蔵庫のマーガリンは半分ほど減っている。
駅まで徒歩十二分。改札を通り、いつもの車両に乗る。三つ目のドアから入って、左側の吊り革を掴む。
会社に着くと、デスクの上にペンが一本転がっている。昨日置き忘れたものだ。
何も問題のない、火曜日の朝だった。
────────────────
最初の異変は、昼休みに起きた。
同僚の佐々木が、弁当を食べながら話しかけてきた。
「田村さん、それ昨日も全く同じ言葉で言ってたよ」
「何が?」
「いや、さっき課長に報告したやつ。言い回しまで完全に同じだった。練習してきたの?」
田村は笑って流した。たまたまだろう。同じ案件の報告なら、似た言い回しになることもある。
だが、午後になって、別の同僚からも言われた。
「田村くん、朝の挨拶、昨日と同じだったね。タイミングも、声のトーンも。ちょっとびっくりした」
昨日と同じ?
彼は昨日の朝、何と言ったか思い出そうとした。
思い出せなかった。
「おはようございます」以外に、何を言うというのか。
そう返すと、同僚は少し首を傾げて、それ以上何も言わなかった。
────────────────
帰宅すると、違和感に気づいた。
デスクの上に置いたはずのペンが、床に落ちていた。
いや——ペンは朝、デスクの上にあった。それは覚えている。鞄から出した記憶はない。昨日置き忘れたものをそのまま使って、帰るときにデスクに置いた。
だが、目の前のペンは、椅子の横の床に転がっている。
角度が違う。位置が違う。
「落としたのか」
拾い上げて、デスクに戻した。
その夜、田村は日記を書いた。何年も続けている習慣だった。一日の出来事を、簡潔に記録する。
ペンを握り、今日の日付を書いた。
ページをめくって、昨日の記録を見た。
同じ内容だった。
一言一句——今日書こうとしていたことと、寸分違わず同じ文章が、昨日の欄に記されていた。
────────────────
翌朝、6時45分にアラームが鳴った。
二度スヌーズを押して、6時54分に起き上がる。カーテンを開ける。
曇り空。降水確率40%。
折りたたみ傘を鞄に入れた。
トーストを焼き、コーヒーを淹れる。
マグカップの取っ手が欠けている。食パンの残りは三枚。マーガリンは半分。
「……昨日と同じだ」
声に出して言ってから、自分が何を言ったのか理解した。
食パンは昨日一枚食べた。残りは二枚のはずだ。マーガリンだって、昨日使った分だけ減っているはずだ。
袋の中を確認する。三枚。
昨日と同じ、三枚。
彼は冷蔵庫を開けた。マーガリンの減り具合を見る。昨日と同じ位置に、同じ量が残っている。
駅に向かう。改札を通る。いつもの車両、三つ目のドア、左側の吊り革。
会社に着くと、デスクの上にペンが一本転がっていた。
昨日、拾って戻したはずのペンが。
昨日と同じ角度で。同じ位置に。
────────────────
昼休み、佐々木が話しかけてきた。
「田村さん、それ昨日も全く同じ言葉で言ってたよ」
彼は箸を止めた。
「……今、なんて言った?」
「だから、課長への報告。言い回しまで完全に同じだったよ。練習してきたの?」
同じだ。
佐々木の言葉が、昨日と同じだ。
午後、別の同僚が近づいてくる。彼が何を言うか、田村にはわかっていた。
「田村くん、朝の挨拶、昨日と同じだったね」
そうだ。同じだ。全部同じだ。
「佐々木さん」
田村は立ち上がった。
「今日、何曜日ですか」
「火曜だけど」
「昨日は?」
「……月曜だろ?」
佐々木は不思議そうな顔をした。
田村はスマートフォンを取り出した。画面の日付を確認する。
火曜日。
昨日も火曜日だった。
一昨日も。
────────────────
帰宅して、日記を開いた。
三日分を遡った。
同じ文章が並んでいた。
日付だけが違う。月曜、火曜、水曜——カレンダー上の日付は進んでいるのに、内容が一字一句同じだった。
いや、違う。
よく見ると、筆跡が微妙に変化している。三日前の文字はしっかりとした筆致だった。昨日の文字は、ほんの少しだけ——力が抜けている。同じ文章を書いているのに、書いている人間の手が、わずかに変わっている。
そして、部屋の中にも変化があった。
デスクの上のペンの角度が、昨日より三度ほどずれていた。本棚の文庫本が、一冊だけ奥に押し込まれていた。洗面所のタオルの端が、左右逆に掛かっていた。
どれも、気のせいと言えば気のせいで済む程度の差異だった。
だが、田村にはわかった。
この部屋は、毎日ほんの少しだけ、変わっている。
同じ火曜日を繰り返しながら——部屋だけが、静かにずれ続けている。
────────────────
それから田村は、日記のつけ方を変えた。
同じ内容を書くのではなく、「前回との差異」だけを記録するようにした。
三回目の火曜日。ペンの角度が五度ずれた。マグカップの位置が一センチ右に。
七回目。本棚の文庫本が二冊、順番を入れ替えていた。冷蔵庫のマーガリンの蓋の向きが逆。
十五回目。デスクの引き出しの中身の配置が変わっていた。靴の左右が入れ替わっていた。
三十回目。壁掛け時計が三分進んでいた。玄関の靴箱の上に、見覚えのない小銭が三枚。
差異は、回を追うごとに大きくなっていった。
五十回目の火曜日に、彼は会社を休んだ。一日中、部屋の中を観察し続けた。
何も起きなかった。
部屋は動かなかった。物は移動しなかった。
だが、翌朝——五十一回目の火曜日が始まったとき、昨日観察していた全ての物の位置が、やはり微妙にずれていた。
変化は、彼が眠っている間に起きているのではなかった。
火曜日が「巻き戻る」ときに起きていた。
────────────────
百回目の火曜日を超えた頃から、同僚たちの態度も変わり始めた。
佐々木はもう「昨日と同じ」とは言わなくなった。
代わりに、何も言わなくなった。
田村が課長に報告する。佐々木はそれを聞いている。だが、その目は田村を見ていなかった。田村の少し左、何もない空間を見ていた。
百二十回目。同僚の一人が、田村のデスクの前を通るとき、目を逸らすようになった。
百五十回目。課長が田村に話しかけるとき、一瞬だけ——本当に一瞬だけ——口ごもるようになった。まるで、そこに人がいることに驚いているかのように。
百八十回目。佐々木が昼休みに声をかけてきた。
「田村さん——って、あれ。誰だっけ」
田村という名前を自分で口にしたのに、佐々木は首を傾げた。
「ごめん、今なんか変な感じがした。気にしないで」
田村は気にした。
────────────────
二百回目の火曜日。
部屋の変化は、もう「微妙」と呼べる範囲を超えていた。
本棚の本が、半分ほど入れ替わっていた。見覚えのない背表紙が並んでいる。タイトルは読めるのに、内容が思い出せない。
冷蔵庫の中に、自分が買った覚えのない調味料が二つ増えていた。使いかけだった。
浴室のシャンプーが、普段使わない銘柄に変わっていた。ボトルは半分空だった。誰かが使い続けている。
洗面台の歯ブラシ立てに、歯ブラシが二本あった。
一本は自分のもの。
もう一本は——知らない。
田村は二本目の歯ブラシを手に取った。毛先が広がっている。使い込まれた歯ブラシだった。
誰のものだ。
この部屋に住んでいるのは、自分一人のはずだ。
歯ブラシを元に戻し、日記を開いた。差異を記録する。手が震えていた。
────────────────
三百回を超えた頃、日記を最初から読み返した。
一回目から三百回目まで。差異の記録を、順番に。
最初はペンの角度や小物の位置。それが家具の配置、持ち物の種類へと広がり、二百回を過ぎた頃から——部屋そのものが変質し始めていた。
日記の文字も変わっていた。
一回目の筆跡と、三百回目の筆跡を並べると、同一人物のものとは思えなかった。
一回目は几帳面で角張った文字。百回目はやや丸みを帯び、筆圧が弱くなっている。二百回目になると文字の大きさが不揃いになり、三百回目には——別人の字だった。
田村は自分の右手を見た。
この手は、一回目の火曜日と同じ手だろうか。
鏡は見なかった。確認する勇気がなかった。
────────────────
三百六十五回目の火曜日。
部屋は、もう彼の部屋ではなかった。
家具の配置が違う。壁紙の色が違う。窓から見える景色の角度が、ほんの数度だけずれている。
同じ部屋だ。同じ住所だ。だが、全てが——少しずつ、少しずつ、別の誰かの部屋になっていた。
会社では、もう誰も田村に話しかけなかった。
佐々木は田村の隣の席に座っているのに、視線が田村を通過していた。課長は田村のデスクの前を通っても、足を止めなかった。
田村は存在していた。席にいた。仕事をしていた。
だが、周囲にとって、彼はもう「そこにいる人」ではなくなりつつあった。
帰宅して日記を開く。今日の差異を記録しようとして、ペンが止まった。
差異ではない。
自分の方が、差異になっている。
────────────────
三百六十六回目の火曜日。
6時45分にアラームが鳴った。
田村は起き上がり、カーテンを開けた。
曇り空。
折りたたみ傘を——鞄に入れようとして、やめた。
トーストは焼かなかった。コーヒーも淹れなかった。
代わりに、日記を最初のページから開いた。
全てのページに、同じ文章が書かれていた。
差異の記録ではない。一回目に書いた、あの火曜日の記録——「6時45分にアラームが鳴る。二度スヌーズを押して」から始まる、最初の文章が、全ページに繰り返されていた。
差異の記録は、消えていた。
いつの間にか、全て上書きされていた。
田村はページをめくり続けた。同じ文章、同じ文章、同じ文章。何十ページも、何百ページも。
最後のページに辿り着いた。
そこだけ、文章が違った。
筆跡も違った。田村の字ではない。もっと細く、もっと鋭い文字で——一行だけ書かれていた。
「今日こそ終わらせる」
田村はその文字を見つめた。
自分が書いたのではない。
では、誰が。
ペンの角度がずれていく。本が入れ替わっていく。歯ブラシが増えていく。筆跡が変わっていく。
この部屋に——もう一人、誰かがいた。
三百六十六回の火曜日を、田村と一緒に繰り返しながら、少しずつ、少しずつ、田村の場所に入り込んできた誰かが。
「終わらせる」のは——誰が、何を。
田村はペンを置いた。
立ち上がり、玄関に向かった。
靴を履いた。
ドアを開けた。
────────────────
記録を終えると、私は六本目の蝋燭を消した。
田村のその後を、私は知らない。
三百六十六回目の火曜日の翌日——水曜日が来たのかどうかすら、確認のしようがなかった。
彼を見た者は、誰もいなかった。
佐々木に聞いた。「田村さんという方を覚えていますか」
佐々木は首を傾げ、「その名前、聞いたことはあるような気がするんですけど」と答えた。
管理会社に問い合わせると、あの部屋には「最初から誰も住んでいなかった」と言われた。
室内は綺麗だった。家具もない。生活の痕跡もない。壁紙は真新しく、窓ガラスには埃一つなかった。
ただ——部屋の隅に、一冊のノートが落ちていた。
開くと、全ページに同じ文章が書かれていた。
最初のページから最後のページまで、同じ火曜日の記録が、繰り返されていた。
最後のページだけが、違っていた。
あの一行。あの筆跡。
「今日こそ終わらせる」
そしてその下に、もう一行——私が見つけたときには、なかった文字が、薄く浮かんでいた。
「終わった」
残りは九十四本。
私は次の違和感を、待つことにした。
読了ありがとうございました。
この話を読んで、
何か感じたこと、気づいたことがあれば、
評価・ブックマーク・コメントで教えてください。
あなたの反応が、次の怪談を生み出す糧になります。