継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~   作:yami_craft

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これは私が記録した、六本目の違和感である。

ある男が私の前に現れ、「同じ火曜日を繰り返している」と訴えた。最初は週に一度やってくる退屈な繰り返し——のはずだった。だが、彼の部屋には、繰り返しのたびに増えていく日記があった。

私は彼の話を、そのまま記録する。


第六話:繰り返す火曜日

火曜日の朝は、いつも同じだった。

 

6時45分にアラームが鳴る。二度スヌーズを押して、6時54分に起き上がる。カーテンを開ける。曇り空。天気予報は降水確率40%。折りたたみ傘を鞄に入れる。

 

トーストを焼き、コーヒーを淹れる。マグカップの取っ手が少し欠けている。食パンの袋には残り三枚。冷蔵庫のマーガリンは半分ほど減っている。

 

駅まで徒歩十二分。改札を通り、いつもの車両に乗る。三つ目のドアから入って、左側の吊り革を掴む。

 

会社に着くと、デスクの上にペンが一本転がっている。昨日置き忘れたものだ。

 

何も問題のない、火曜日の朝だった。

 

 

────────────────

 

 

最初の異変は、昼休みに起きた。

 

同僚の佐々木が、弁当を食べながら話しかけてきた。

 

「田村さん、それ昨日も全く同じ言葉で言ってたよ」

 

「何が?」

 

「いや、さっき課長に報告したやつ。言い回しまで完全に同じだった。練習してきたの?」

 

田村は笑って流した。たまたまだろう。同じ案件の報告なら、似た言い回しになることもある。

 

だが、午後になって、別の同僚からも言われた。

 

「田村くん、朝の挨拶、昨日と同じだったね。タイミングも、声のトーンも。ちょっとびっくりした」

 

昨日と同じ?

 

彼は昨日の朝、何と言ったか思い出そうとした。

 

思い出せなかった。

 

「おはようございます」以外に、何を言うというのか。

 

そう返すと、同僚は少し首を傾げて、それ以上何も言わなかった。

 

 

────────────────

 

 

帰宅すると、違和感に気づいた。

 

デスクの上に置いたはずのペンが、床に落ちていた。

 

いや——ペンは朝、デスクの上にあった。それは覚えている。鞄から出した記憶はない。昨日置き忘れたものをそのまま使って、帰るときにデスクに置いた。

 

だが、目の前のペンは、椅子の横の床に転がっている。

 

角度が違う。位置が違う。

 

「落としたのか」

 

拾い上げて、デスクに戻した。

 

その夜、田村は日記を書いた。何年も続けている習慣だった。一日の出来事を、簡潔に記録する。

 

ペンを握り、今日の日付を書いた。

 

ページをめくって、昨日の記録を見た。

 

同じ内容だった。

 

一言一句——今日書こうとしていたことと、寸分違わず同じ文章が、昨日の欄に記されていた。

 

 

────────────────

 

 

翌朝、6時45分にアラームが鳴った。

 

二度スヌーズを押して、6時54分に起き上がる。カーテンを開ける。

 

曇り空。降水確率40%。

 

折りたたみ傘を鞄に入れた。

 

トーストを焼き、コーヒーを淹れる。

 

マグカップの取っ手が欠けている。食パンの残りは三枚。マーガリンは半分。

 

「……昨日と同じだ」

 

声に出して言ってから、自分が何を言ったのか理解した。

 

食パンは昨日一枚食べた。残りは二枚のはずだ。マーガリンだって、昨日使った分だけ減っているはずだ。

 

袋の中を確認する。三枚。

 

昨日と同じ、三枚。

 

彼は冷蔵庫を開けた。マーガリンの減り具合を見る。昨日と同じ位置に、同じ量が残っている。

 

駅に向かう。改札を通る。いつもの車両、三つ目のドア、左側の吊り革。

 

会社に着くと、デスクの上にペンが一本転がっていた。

 

昨日、拾って戻したはずのペンが。

 

昨日と同じ角度で。同じ位置に。

 

 

────────────────

 

 

昼休み、佐々木が話しかけてきた。

 

「田村さん、それ昨日も全く同じ言葉で言ってたよ」

 

彼は箸を止めた。

 

「……今、なんて言った?」

 

「だから、課長への報告。言い回しまで完全に同じだったよ。練習してきたの?」

 

同じだ。

 

佐々木の言葉が、昨日と同じだ。

 

午後、別の同僚が近づいてくる。彼が何を言うか、田村にはわかっていた。

 

「田村くん、朝の挨拶、昨日と同じだったね」

 

そうだ。同じだ。全部同じだ。

 

「佐々木さん」

 

田村は立ち上がった。

 

「今日、何曜日ですか」

 

「火曜だけど」

 

「昨日は?」

 

「……月曜だろ?」

 

佐々木は不思議そうな顔をした。

 

田村はスマートフォンを取り出した。画面の日付を確認する。

 

火曜日。

 

昨日も火曜日だった。

 

一昨日も。

 

 

────────────────

 

 

帰宅して、日記を開いた。

 

三日分を遡った。

 

同じ文章が並んでいた。

 

日付だけが違う。月曜、火曜、水曜——カレンダー上の日付は進んでいるのに、内容が一字一句同じだった。

 

いや、違う。

 

よく見ると、筆跡が微妙に変化している。三日前の文字はしっかりとした筆致だった。昨日の文字は、ほんの少しだけ——力が抜けている。同じ文章を書いているのに、書いている人間の手が、わずかに変わっている。

 

そして、部屋の中にも変化があった。

 

デスクの上のペンの角度が、昨日より三度ほどずれていた。本棚の文庫本が、一冊だけ奥に押し込まれていた。洗面所のタオルの端が、左右逆に掛かっていた。

 

どれも、気のせいと言えば気のせいで済む程度の差異だった。

 

だが、田村にはわかった。

 

この部屋は、毎日ほんの少しだけ、変わっている。

 

同じ火曜日を繰り返しながら——部屋だけが、静かにずれ続けている。

 

 

────────────────

 

 

それから田村は、日記のつけ方を変えた。

 

同じ内容を書くのではなく、「前回との差異」だけを記録するようにした。

 

三回目の火曜日。ペンの角度が五度ずれた。マグカップの位置が一センチ右に。

 

七回目。本棚の文庫本が二冊、順番を入れ替えていた。冷蔵庫のマーガリンの蓋の向きが逆。

 

十五回目。デスクの引き出しの中身の配置が変わっていた。靴の左右が入れ替わっていた。

 

三十回目。壁掛け時計が三分進んでいた。玄関の靴箱の上に、見覚えのない小銭が三枚。

 

差異は、回を追うごとに大きくなっていった。

 

五十回目の火曜日に、彼は会社を休んだ。一日中、部屋の中を観察し続けた。

 

何も起きなかった。

 

部屋は動かなかった。物は移動しなかった。

 

だが、翌朝——五十一回目の火曜日が始まったとき、昨日観察していた全ての物の位置が、やはり微妙にずれていた。

 

変化は、彼が眠っている間に起きているのではなかった。

 

火曜日が「巻き戻る」ときに起きていた。

 

 

────────────────

 

 

百回目の火曜日を超えた頃から、同僚たちの態度も変わり始めた。

 

佐々木はもう「昨日と同じ」とは言わなくなった。

 

代わりに、何も言わなくなった。

 

田村が課長に報告する。佐々木はそれを聞いている。だが、その目は田村を見ていなかった。田村の少し左、何もない空間を見ていた。

 

百二十回目。同僚の一人が、田村のデスクの前を通るとき、目を逸らすようになった。

 

百五十回目。課長が田村に話しかけるとき、一瞬だけ——本当に一瞬だけ——口ごもるようになった。まるで、そこに人がいることに驚いているかのように。

 

百八十回目。佐々木が昼休みに声をかけてきた。

 

「田村さん——って、あれ。誰だっけ」

 

田村という名前を自分で口にしたのに、佐々木は首を傾げた。

 

「ごめん、今なんか変な感じがした。気にしないで」

 

田村は気にした。

 

 

────────────────

 

 

二百回目の火曜日。

 

部屋の変化は、もう「微妙」と呼べる範囲を超えていた。

 

本棚の本が、半分ほど入れ替わっていた。見覚えのない背表紙が並んでいる。タイトルは読めるのに、内容が思い出せない。

 

冷蔵庫の中に、自分が買った覚えのない調味料が二つ増えていた。使いかけだった。

 

浴室のシャンプーが、普段使わない銘柄に変わっていた。ボトルは半分空だった。誰かが使い続けている。

 

洗面台の歯ブラシ立てに、歯ブラシが二本あった。

 

一本は自分のもの。

 

もう一本は——知らない。

 

田村は二本目の歯ブラシを手に取った。毛先が広がっている。使い込まれた歯ブラシだった。

 

誰のものだ。

 

この部屋に住んでいるのは、自分一人のはずだ。

 

歯ブラシを元に戻し、日記を開いた。差異を記録する。手が震えていた。

 

 

────────────────

 

 

三百回を超えた頃、日記を最初から読み返した。

 

一回目から三百回目まで。差異の記録を、順番に。

 

最初はペンの角度や小物の位置。それが家具の配置、持ち物の種類へと広がり、二百回を過ぎた頃から——部屋そのものが変質し始めていた。

 

日記の文字も変わっていた。

 

一回目の筆跡と、三百回目の筆跡を並べると、同一人物のものとは思えなかった。

 

一回目は几帳面で角張った文字。百回目はやや丸みを帯び、筆圧が弱くなっている。二百回目になると文字の大きさが不揃いになり、三百回目には——別人の字だった。

 

田村は自分の右手を見た。

 

この手は、一回目の火曜日と同じ手だろうか。

 

鏡は見なかった。確認する勇気がなかった。

 

 

────────────────

 

 

三百六十五回目の火曜日。

 

部屋は、もう彼の部屋ではなかった。

 

家具の配置が違う。壁紙の色が違う。窓から見える景色の角度が、ほんの数度だけずれている。

 

同じ部屋だ。同じ住所だ。だが、全てが——少しずつ、少しずつ、別の誰かの部屋になっていた。

 

会社では、もう誰も田村に話しかけなかった。

 

佐々木は田村の隣の席に座っているのに、視線が田村を通過していた。課長は田村のデスクの前を通っても、足を止めなかった。

 

田村は存在していた。席にいた。仕事をしていた。

 

だが、周囲にとって、彼はもう「そこにいる人」ではなくなりつつあった。

 

帰宅して日記を開く。今日の差異を記録しようとして、ペンが止まった。

 

差異ではない。

 

自分の方が、差異になっている。

 

 

────────────────

 

 

三百六十六回目の火曜日。

 

6時45分にアラームが鳴った。

 

田村は起き上がり、カーテンを開けた。

 

曇り空。

 

折りたたみ傘を——鞄に入れようとして、やめた。

 

トーストは焼かなかった。コーヒーも淹れなかった。

 

代わりに、日記を最初のページから開いた。

 

全てのページに、同じ文章が書かれていた。

 

差異の記録ではない。一回目に書いた、あの火曜日の記録——「6時45分にアラームが鳴る。二度スヌーズを押して」から始まる、最初の文章が、全ページに繰り返されていた。

 

差異の記録は、消えていた。

 

いつの間にか、全て上書きされていた。

 

田村はページをめくり続けた。同じ文章、同じ文章、同じ文章。何十ページも、何百ページも。

 

最後のページに辿り着いた。

 

そこだけ、文章が違った。

 

筆跡も違った。田村の字ではない。もっと細く、もっと鋭い文字で——一行だけ書かれていた。

 

「今日こそ終わらせる」

 

田村はその文字を見つめた。

 

自分が書いたのではない。

 

では、誰が。

 

ペンの角度がずれていく。本が入れ替わっていく。歯ブラシが増えていく。筆跡が変わっていく。

 

この部屋に——もう一人、誰かがいた。

 

三百六十六回の火曜日を、田村と一緒に繰り返しながら、少しずつ、少しずつ、田村の場所に入り込んできた誰かが。

 

「終わらせる」のは——誰が、何を。

 

田村はペンを置いた。

 

立ち上がり、玄関に向かった。

 

靴を履いた。

 

ドアを開けた。

 

 

────────────────

 

 

記録を終えると、私は六本目の蝋燭を消した。

 

田村のその後を、私は知らない。

 

三百六十六回目の火曜日の翌日——水曜日が来たのかどうかすら、確認のしようがなかった。

 

彼を見た者は、誰もいなかった。

 

佐々木に聞いた。「田村さんという方を覚えていますか」

 

佐々木は首を傾げ、「その名前、聞いたことはあるような気がするんですけど」と答えた。

 

管理会社に問い合わせると、あの部屋には「最初から誰も住んでいなかった」と言われた。

 

室内は綺麗だった。家具もない。生活の痕跡もない。壁紙は真新しく、窓ガラスには埃一つなかった。

 

ただ——部屋の隅に、一冊のノートが落ちていた。

 

開くと、全ページに同じ文章が書かれていた。

 

最初のページから最後のページまで、同じ火曜日の記録が、繰り返されていた。

 

最後のページだけが、違っていた。

 

あの一行。あの筆跡。

 

「今日こそ終わらせる」

 

そしてその下に、もう一行——私が見つけたときには、なかった文字が、薄く浮かんでいた。

 

「終わった」

 

残りは九十四本。

 

私は次の違和感を、待つことにした。

 




読了ありがとうございました。

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