継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~   作:yami_craft

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これは私が記録した、六十一本目の違和感である。

今回も、語り部は、いない。

記録するのは、「観測者」という、名前のことだ。


第六十一話:私は観測者ではない

陸が帰った夜から、三日が、過ぎた。

 

取材の予定は、入れなかった。

 

電話も、鳴らなかった。

 

三日目の夜、六十本目の蝋燭の、燃え残りを、片付けた。

 

芯の先が、右に、傾いたまま、固まっていた。

 

陸が置いていった紙の束は、机の端に、あった。

 

三日間、同じ角度の、ままだった。

 

開かなかった。

 

代わりに、ノートを、開いた。

 

最初のページに、戻った。

 

紙は、他のページより、厚く感じられた。指が、何度も触れた分だけ、縁が、柔らかくなっていた。

 

「これは私が記録した、一本目の違和感である」

 

何百回も、読んだ、一行だった。

 

その日は、一つの字で、目が、止まった。

 

「私」。

 

 

────────────────

 

 

手元の紙に、「私」と、書いてみた。

 

ノートの横に、並べた。

 

デスクライトを、近づけた。

 

はねの、角度が、違った。

 

二画目の、傾きも、違った。

 

線の終わりの、力の抜き方が、違った。私の線は、途中で細くなる。最初のページの線は、最後まで、同じ太さだった。

 

書いた覚えは、ある。この部屋で、この机で、書いた。ペンも、同じもののはずだった。

 

だが、今日の手では、この「私」は、書けなかった。

 

五回、書いた。十回、書いた。

 

利き手を、変えても、書いた。

 

速く書いても、ゆっくり書いても、駄目だった。

 

一度も、最初のページの形には、ならなかった。

 

ページを、めくった。

 

七人分あったはずの筆跡は、先日、同じ字に、揃っていた。

 

揃った字は、どのページも、今日の私の字と、同じだった。

 

最初のページの、「私」だけが、違っていた。

 

このノートの中で、一番古い字だけが、私の字では、なかった。

 

 

────────────────

 

 

いつから、私は、「観測者」だったのか。

 

記録を、遡った。

 

取材の依頼文。承諾の返信。電話の記録。六十本、全て、見返した。

 

夜が、明けかけていた。

 

名乗った記録を、探した。

 

なかった。

 

私は、一度も、「観測者」と、名乗っていなかった。

 

それなのに、全員が、私を、そう呼んでいた。

 

語り部たちからの、メッセージを、確かめた。

 

全員が、最初のやり取りから、宛名に、「観測者様」と、書いていた。

 

教えた覚えは、ない。

 

誰も、由来を、聞かなかった。

 

私も、訂正しなかった。

 

名乗っていない名前を、訂正する理由が、なかった。

 

最初に、その名を口にした記録は、十本目だった。

 

美咲だった。

 

初めて会った日、部屋に入ってくるなり、言った。

 

「この人が、観測者さんですか」

 

記録には、そう、残っている。

 

部屋には、私しか、いなかった。

 

誰に、聞いたのか。

 

当時は、気に、留めなかった。

 

 

────────────────

 

 

美咲に、電話を、かけた。

 

三回の呼び出しで、出た。声は、いつも通りだった。

 

電話の向こうで、キーボードの音がしていた。記事のまとめを、していると、言った。

 

十本目の日のことを、聞いた。

 

覚えていた。

 

「言われたんですよ、あなたに。最初に連絡をもらったとき、観測者と呼んでください、って」

 

最初の連絡は、文字で、残っている。

 

通話を、繋いだまま、読み返した。

 

依頼の文面。日時の調整。場所の指定。

 

名乗りは、どこにも、なかった。

 

「そのメッセージ、残っていますか」

 

少しの、間があった。

 

キーボードの音が、止まった。画面を、操作する音に、変わった。

 

「……あれ。ない。消した覚えも、ないのに。でも、言われた記憶は、あるんです。確かに。声まで、覚えてます」

 

どんな声だったかと、聞いた。

 

「あなたの声ですよ」

 

笑いを、含んだ声だった。冗談だと、思ったようだった。

 

私は、笑わなかった。

 

短い沈黙のあと、美咲は、話題を、変えた。

 

礼を言って、通話を、切ろうとした。

 

画面の上で、指が、止まった。

 

動かそうとした。

 

一拍、遅れて、動いた。

 

自分の指を、しばらく、見ていた。

 

 

────────────────

 

 

名付けたのは、美咲だった。

 

美咲は、私に言われたと、言う。

 

私には、名乗った記録が、ない。

 

美咲には、言われた記録が、ない。

 

残ったのは、記憶だけだった。

 

それも、互いに、相手を指している、記憶だけ。

 

二人の間の、どこかに、名付けの瞬間が、あったはずだった。

 

記録の上には、その瞬間が、存在しなかった。

 

最初から、なかったのと、区別が、つかなかった。

 

指の先を、たどっても、どこにも、着かない。

 

この名前には、始まりが、ない。

 

 

────────────────

 

 

「観測者」と、紙に、書いてみた。

 

自分の字だった。今日の字だった。

 

その横に、もう一度、「私」と、書いた。

 

最初のページの「私」とは、違う字が、並んだ。

 

どちらが、私の字なのか。

 

書けば書くほど、分からなくなった。

 

紙の上に、「私」が、増えていった。

 

同じ形は、一つも、なかった。

 

ペンを持つ手に、力が、入っていた。

 

紙の裏まで、跡が、残っていた。

 

書くのを、やめた。

 

 

────────────────

 

 

私は、箱から、六十一本目の蝋燭を、出した。

 

数えなくても、残りの本数が、分かるようになっていた。

 

いつからか、思い出せなかった。

 

六十一本目の蝋燭に、火を灯した。

 

マッチを擦る音が、部屋に、大きく、響いた。

 

炎が、右に、揺れた。

 

二十四話、連続だった。

 

しばらく、炎を、見ていた。

 

炎は、何も、変わらなかった。

 

変わらないことを、確かめてから、机に、戻った。

 

 

────────────────

 

 

残り、三十九本。

 

いつも通り、数字を、書いた。

 

数字の横に、記録者の名前を書く欄が、あればいいと、思った。

 

書ける名前が、なかった。

 

 

────────────────

 

 

灯りを消す前に、陸に、電話を、かけた。

 

確かめる先は、もう、そこしか、なかった。

 

深夜だったが、二回目の呼び出しで、出た。

 

眠っていない声だった。

 

前置きは、しなかった。

 

「あなたのデータの中に、私の名前は、ありますか」

 

聞き返されなかった。

 

キーボードの音が、しばらく、続いた。

 

止まった。

 

「……『観測者』っていう、記号だけです。名前、ないです」

 

繰り返して、確かめる声が、続いた。

 

「取材依頼も、通話記録も、全部の、データを見ました。どこにも……名前、ないです」

 

陸は、何かを、言いかけて、やめた。

 

私は、礼を言って、通話を、切った。

 

ノートの最初のページは、開いたままだった。

 

デスクライトの下で、ペンを、取った。

 

書かない、という選択は、思いつかなかった。

 

六十一本目の記録を、書き始めた。

 

一行目で、手が、止まった。

 

これは私が記録した——

 

その先を書く前に、もう一度、最初のページを、見た。

 

知らない字で書かれた「私」が、こちらを、向いていた。




自分の名前の、字の書き方を、じっと、見つめたことは、あるだろうか。

何万回も、書いてきたはずの、その字を。

見れば見るほど、これで、合っていたのか、分からなくなる瞬間が——ないだろうか。

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【次回予告】

百物語 第六十二話:美咲の消失

気づくと、自分の取材記事が、全て、消えている。

SNSのアカウントには、「このユーザーは存在しません」の表示。

私は、本当に、存在しているのか。
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