継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~ 作:yami_craft
今回も、語り部は、いない。
記録するのは、「観測者」という、名前のことだ。
陸が帰った夜から、三日が、過ぎた。
取材の予定は、入れなかった。
電話も、鳴らなかった。
三日目の夜、六十本目の蝋燭の、燃え残りを、片付けた。
芯の先が、右に、傾いたまま、固まっていた。
陸が置いていった紙の束は、机の端に、あった。
三日間、同じ角度の、ままだった。
開かなかった。
代わりに、ノートを、開いた。
最初のページに、戻った。
紙は、他のページより、厚く感じられた。指が、何度も触れた分だけ、縁が、柔らかくなっていた。
「これは私が記録した、一本目の違和感である」
何百回も、読んだ、一行だった。
その日は、一つの字で、目が、止まった。
「私」。
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手元の紙に、「私」と、書いてみた。
ノートの横に、並べた。
デスクライトを、近づけた。
はねの、角度が、違った。
二画目の、傾きも、違った。
線の終わりの、力の抜き方が、違った。私の線は、途中で細くなる。最初のページの線は、最後まで、同じ太さだった。
書いた覚えは、ある。この部屋で、この机で、書いた。ペンも、同じもののはずだった。
だが、今日の手では、この「私」は、書けなかった。
五回、書いた。十回、書いた。
利き手を、変えても、書いた。
速く書いても、ゆっくり書いても、駄目だった。
一度も、最初のページの形には、ならなかった。
ページを、めくった。
七人分あったはずの筆跡は、先日、同じ字に、揃っていた。
揃った字は、どのページも、今日の私の字と、同じだった。
最初のページの、「私」だけが、違っていた。
このノートの中で、一番古い字だけが、私の字では、なかった。
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いつから、私は、「観測者」だったのか。
記録を、遡った。
取材の依頼文。承諾の返信。電話の記録。六十本、全て、見返した。
夜が、明けかけていた。
名乗った記録を、探した。
なかった。
私は、一度も、「観測者」と、名乗っていなかった。
それなのに、全員が、私を、そう呼んでいた。
語り部たちからの、メッセージを、確かめた。
全員が、最初のやり取りから、宛名に、「観測者様」と、書いていた。
教えた覚えは、ない。
誰も、由来を、聞かなかった。
私も、訂正しなかった。
名乗っていない名前を、訂正する理由が、なかった。
最初に、その名を口にした記録は、十本目だった。
美咲だった。
初めて会った日、部屋に入ってくるなり、言った。
「この人が、観測者さんですか」
記録には、そう、残っている。
部屋には、私しか、いなかった。
誰に、聞いたのか。
当時は、気に、留めなかった。
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美咲に、電話を、かけた。
三回の呼び出しで、出た。声は、いつも通りだった。
電話の向こうで、キーボードの音がしていた。記事のまとめを、していると、言った。
十本目の日のことを、聞いた。
覚えていた。
「言われたんですよ、あなたに。最初に連絡をもらったとき、観測者と呼んでください、って」
最初の連絡は、文字で、残っている。
通話を、繋いだまま、読み返した。
依頼の文面。日時の調整。場所の指定。
名乗りは、どこにも、なかった。
「そのメッセージ、残っていますか」
少しの、間があった。
キーボードの音が、止まった。画面を、操作する音に、変わった。
「……あれ。ない。消した覚えも、ないのに。でも、言われた記憶は、あるんです。確かに。声まで、覚えてます」
どんな声だったかと、聞いた。
「あなたの声ですよ」
笑いを、含んだ声だった。冗談だと、思ったようだった。
私は、笑わなかった。
短い沈黙のあと、美咲は、話題を、変えた。
礼を言って、通話を、切ろうとした。
画面の上で、指が、止まった。
動かそうとした。
一拍、遅れて、動いた。
自分の指を、しばらく、見ていた。
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名付けたのは、美咲だった。
美咲は、私に言われたと、言う。
私には、名乗った記録が、ない。
美咲には、言われた記録が、ない。
残ったのは、記憶だけだった。
それも、互いに、相手を指している、記憶だけ。
二人の間の、どこかに、名付けの瞬間が、あったはずだった。
記録の上には、その瞬間が、存在しなかった。
最初から、なかったのと、区別が、つかなかった。
指の先を、たどっても、どこにも、着かない。
この名前には、始まりが、ない。
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「観測者」と、紙に、書いてみた。
自分の字だった。今日の字だった。
その横に、もう一度、「私」と、書いた。
最初のページの「私」とは、違う字が、並んだ。
どちらが、私の字なのか。
書けば書くほど、分からなくなった。
紙の上に、「私」が、増えていった。
同じ形は、一つも、なかった。
ペンを持つ手に、力が、入っていた。
紙の裏まで、跡が、残っていた。
書くのを、やめた。
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私は、箱から、六十一本目の蝋燭を、出した。
数えなくても、残りの本数が、分かるようになっていた。
いつからか、思い出せなかった。
六十一本目の蝋燭に、火を灯した。
マッチを擦る音が、部屋に、大きく、響いた。
炎が、右に、揺れた。
二十四話、連続だった。
しばらく、炎を、見ていた。
炎は、何も、変わらなかった。
変わらないことを、確かめてから、机に、戻った。
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残り、三十九本。
いつも通り、数字を、書いた。
数字の横に、記録者の名前を書く欄が、あればいいと、思った。
書ける名前が、なかった。
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灯りを消す前に、陸に、電話を、かけた。
確かめる先は、もう、そこしか、なかった。
深夜だったが、二回目の呼び出しで、出た。
眠っていない声だった。
前置きは、しなかった。
「あなたのデータの中に、私の名前は、ありますか」
聞き返されなかった。
キーボードの音が、しばらく、続いた。
止まった。
「……『観測者』っていう、記号だけです。名前、ないです」
繰り返して、確かめる声が、続いた。
「取材依頼も、通話記録も、全部の、データを見ました。どこにも……名前、ないです」
陸は、何かを、言いかけて、やめた。
私は、礼を言って、通話を、切った。
ノートの最初のページは、開いたままだった。
デスクライトの下で、ペンを、取った。
書かない、という選択は、思いつかなかった。
六十一本目の記録を、書き始めた。
一行目で、手が、止まった。
これは私が記録した——
その先を書く前に、もう一度、最初のページを、見た。
知らない字で書かれた「私」が、こちらを、向いていた。
自分の名前の、字の書き方を、じっと、見つめたことは、あるだろうか。
何万回も、書いてきたはずの、その字を。
見れば見るほど、これで、合っていたのか、分からなくなる瞬間が——ないだろうか。
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【次回予告】
百物語 第六十二話:美咲の消失
気づくと、自分の取材記事が、全て、消えている。
SNSのアカウントには、「このユーザーは存在しません」の表示。
私は、本当に、存在しているのか。