継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~ 作:yami_craft
語ったのは、芦川美咲。フリーランス・ルポライター。
電話が鳴ったのは、日付が変わる少し前だった。
美咲だった。
取材の連絡には、遅すぎる時間だった。
出ると、しばらく、呼吸の音だけが、続いた。画面の明かりだけが、部屋にあるようだった。床に座り込んでいるのか、声の高さが、いつもと違った。
「聞いてほしいことが、あります」
声は、いつもより、掠れていた。
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――以下は、美咲が語ったことの記録である。
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三日前、ポートフォリオサイトを、更新しようとしました。
新しい依頼が来ていて、実績のページを、整理し直す必要がありました。七年分の記事を、リンクでまとめる作業です。何百回も、やってきました。
一つ目のリンクを、クリックしました。
「お探しのページは見つかりませんでした」
古い記事だから、サーバーの移転かと、思いました。
二つ目、三つ目——最後まで、同じでした。四十七本、全部です。
魚拓サイトでも、確認しました。
「このページは、存在したことがありません」
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SNSのアカウントを、確認しました。
七年間、更新し続けてきたアカウントです。フォロワーの数も、覚えていました。
ログインしようとすると、こう出ました。
「このアカウントのユーザーは存在しません」
パスワードを、三回、打ち直しました。表示は、変わりませんでした。
指の腹が、画面の熱で、じんわり、湿っていました。画面を、何度も、拭きました。表示は、変わりませんでした。
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本棚から、去年の特集号を、取り出しました。
自分の名前が載っているはずの、ページを、開きました。
記事は、ありました。文章は、覚えている通りでした。取材で撮った写真も、そのままでした。
署名の欄だけが、空白でした。
インクが薄れた跡も、削り取った跡も、ありませんでした。最初から、そこに名前は、なかったかのようでした。
指の腹で、その部分を、なぞりました。紙の目が、そこだけ、感じられませんでした。
隣のページも、確かめました。他のライターの名前は、ちゃんと、印刷されていました。自分の欄だけが、白いままでした。
本を閉じて、また開きました。何度も、開きました。変わりませんでした。
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一番古くから付き合いのある編集者に、電話しました。
呼び出し音は、いつも通りでした。オフィスの、蛍光灯の音が、後ろに聞こえました。
「芦川美咲さん、ですか」
名乗ったのに、確認されました。
「……申し訳ありません。うちには、そのお名前のライターと取引した記録が、見当たりません」
丁寧な声でした。事務的な、丁寧さでした。
七年間、毎月のように、原稿を送ってきた相手です。名前も、担当編集の顔も、はっきり、覚えています。
「去年の特集です。三月に、お渡ししたはずです。タイトルも、覚えています」
少しの間がありました。キーボードを叩く音が、聞こえました。
「三月号は、別の方の記事で、埋まっています。最初から」
「契約書は、残っていませんか。振込の記録は」
もう一度、キーボードの音がしました。長く、続きました。
「……何も、出てきません。人事にも、確認しましたが、契約実績自体が、ないそうです」
「七年間ですよ。毎月、送っていました」
自分の声が、少し、大きくなっているのが、分かりました。
「すみません、以前どこかで、お会いしましたか。お声に、聞き覚えが、ないんです」
その一言が、一番、応えました。原稿の内容ではなく、記録の有無でもなく——声にさえ、覚えがないという事実でした。
電話を、切りました。
指が、震えていました。止めようとして、止まりませんでした。
「もしもし」と、試しに、自分の声で、言ってみました。声が、耳に届くまで、一拍、遅れました。
窓に映った自分の輪郭を、しばらく、見ていました。
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思い出したことが、あります。
数日前、電話で、あなたに聞かれました。「最初のメッセージ、残っていますか」
確認しようとしたら、もう、消えていました。
あのときは、笑って、流しました。「言われた記憶は、あるんです」と、答えました。
今なら、分かります。
あれも、同じことでした。最初の、一つ目でした。私は、気づいていませんでした。気づかないまま、二つ目、三つ目が、続いていたんだと思います。
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七年間、書いてきた記事は、どこにも、残っていません。
インタビューした人たちの記憶にも、たぶん、もう、残っていません。
私の記憶の中にしか、ありません。
覚えている限り、それは、あったことになります。
覚えていなければ——最初から、なかったことと、区別が、つきません。
叫びたいのを、我慢しています。「私はここにいる」と。
声に出しても、誰に、届くのか、分かりません。届いた相手の記録にも、残らない気がします。
叫んだところで、証明には、ならない気がします。それでも、黙っている方が、もっと、消えていく気がします。
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記録してください。
私が、確かに存在したことを。
あなたのノートだけが——私が消えないための、最後の場所かもしれません。
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――ここまでが、美咲の記録である。
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通話を、切った。
しばらく、机の前に、座っていた。エアコンの音だけが、部屋に、残った。
ノートを、開いた。
美咲の言葉を、そのまま、書き写した。
彼女の名前を、書いた。芦川美咲、と。
消えないように、力を込めて書いた気が、した。ペン先が、紙に、少し、めり込んだ。
私には、名乗った記録さえ、ない。彼女には、七年分の記録が、あった。それが、今、消えていく。
始めから何もなかった私と、あったものを失っていく美咲。順番が違うだけで、行き着く先は、同じ場所かもしれなかった。
その記録が、何かの証明になるのかどうか、私には、分からなかった。
それでも、書くこと以外に、できることが、なかった。
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書き終えてから、六十二本目の蝋燭に、火を灯した。
マッチの先が、震えて、二度、擦り直した。
炎が、右に、揺れた。
二十五話、連続だった。窓の外は、まだ、暗かった。美咲が、この夜のどこかで眠れているかどうか、確かめる手段は、私には、なかった。
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残り、三十八本。
数字を、いつもより、丁寧に、書いた。誰かの名前を書く欄が、このノートにあれば、そこに何を書くべきか——考えたが、答えは、出なかった。
百物語 第六十二話 あとがき
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自分が、確かにここにいる証拠を、今すぐ、一つ、挙げられるだろうか。
写真でも、記録でも、誰かの記憶でも、いい。
挙げようとして——それが、本当に「自分」だという保証まで、遡れるだろうか。
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【次回予告】
百物語 第六十三話:語り部は誰だ
美咲との電話を切った、直後だった。
美咲に、電話をかけた記憶がある。
美咲から、電話を受けた記憶も、ある。
同じ時刻に、両方とも