継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~ 作:yami_craft
今回も、語り部は、いない。
記録するのは、私自身の、記憶のことだ
夜、机の前に、座っていた。
六十三本目の夜から、ノートを開くたびに、あの二つの筆跡のことを、考えていた。
かけた記憶と、受けた記憶。どちらも、私の記憶として、まだ、残っている。
最近、自分が誰なのか、確かめたくなることがある。
その夜も、そうだった。
確かめる方法として、記憶の棚卸しを、することにした。
思い出せる場面を、古い順に、ノートへ書き出していく。それだけの、作業だ。
部屋には、ペンの音だけが、あった。
一つ書くたびに、その場面を、映像として、思い出していった。
十いくつ目で、手が、止まった。
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どの記憶も、途中から、始まっていた。
ドアを開ける記憶は、開けた後から、始まる。誰かと話す記憶は、二言目から、始まる。歩いている記憶は、すでに、歩いている。
入る前が、ない。
最初の一秒が、どの記憶にも、なかった。
古い記憶だから、擦り切れたのだと、思った。
昨日の記憶で、試した。昨日の夕食。箸を持つところからではなく、すでに、噛んでいるところから、始まった。
今朝の記憶も、同じだった。目が覚める瞬間はなく、天井を見ているところから、始まっていた。
巻き戻そうとすると、同じ位置で、また、始まった。
手前には、進めなかった。
壁がある感じでは、なかった。そこより手前が、最初から、ない感じだった。
欠けているのは、終わりでは、なかった。どの記憶も、終わりまでは、ある。
どこへ続く記憶かは、分かる。どこから来た記憶かだけが、分からない。
書き出した記憶は、そのとき、三十を、超えていた。
全部、同じ欠け方だった。
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出処を、確かめることにした。
いつ、どこで、手に入れた記憶なのか。最初の一秒の、その手前まで遡れば、分かるはずだった。
一つ目の記憶を、選んだ。
夜の病棟の廊下を、歩いている。消毒液の匂いがして、靴の底が、床に、小さく鳴っている。廊下の先の、非常灯の緑まで、見えている。
私は、病院で、働いたことがない。
これは、由香の話として、記録した場面のはずだった。
ノートを、確かめた。記録は、あった。由香の語りとして、由香の言葉で、書いてあった。
三人称の、記録だった。
だが、思い出せる映像は、聞いた話の形を、していなかった。
廊下は、私の目の高さから、見えていた。靴の音は、私の足から、鳴っていた。消毒液の匂いは、由香の言葉としてではなく、鼻の奥に、残っていた。
記録と、記憶の、形が、合っていなかった。
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別の記憶を、選んだ。
放課後の教室。低い西陽。古い、木の匂い。机の木目の、ひんやりとした感触が、手のひらに、残っている。
私は、その教室に、入ったことがない。
凛が、語った場所だった。
もう一つ、選んだ。
雨の山道。祠の前。湿った土の匂いと、雨具の肩の重さ。石の表面の、彫られた文字の凹凸が、指先に、残っている。
桐生が、二十五年、通い続けた場所だった。
三つの記録を、読み比べた。
由香は、非常灯の色を、語っていない。凛は、机の木目の感触を、語っていない。桐生は、雨具の重さを、語っていない。
語られていない細部を、私は、覚えていた。
聞いて、覚えた記憶では、なかった。
どれも、途中から、始まっていた。
どれも、私の目の高さから、見えていた。
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自分の記憶と、預かった記憶を、分ける方法を、探した。
匂いで、分けようとした。分からなかった。どの匂いも、同じ濃さで、残っていた。
日付で、分けようとした。分からなかった。最初の一秒がない記憶には、始まった日が、なかった。
体の感触で、分けようとした。歩幅も、手の大きさも、思い出の中では、全て、私のものだった。
五十一本目の夜に作った、年表を、棚から、出した。
照合するまでも、なかった。
どの記憶も、あの一本の線の上に、隙間なく、載った。
年表の上では、分ける必要そのものが、なかった。
四つ試して、やめた。
分ける方法が、ないのでは、なかった。
分ける、という言葉のほうが、先に、意味を失っていた。
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欠けている一秒の場所を、何度も、見た。
映像は、なかった。
ただ、色の印象だけが、あった。
薄い、黄色だった。
夕方の色でも、朝方の色でもない、薄い黄色が、欠けの手前に、あった。
蝋燭の炎の色とは、違った。もっと、平たい色だった。
どの記憶でも、同じ色だった。
それが何の色なのか、分からなかった。
見覚えだけは、あった。
どこで見た色なのかを、遡ろうとすると——その記憶も、途中から、始まった。
分からないまま、ノートに、色の名前だけを、書いた。
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「所有者」という欄を、作ろうとした。
書き出した記憶の一つ一つに、誰のものかを、書き添えるつもりだった。
一行目で、ペンが、止まった。
書ける名前が、なかった。
欄の名前だけが、空欄の上に、残った。
由香の記憶、と書けば、噛み合わない。私の記憶、と書いても、噛み合わない。
記憶に、名前を、つけられない。
そのことに、今は、気づけている。
気づけているのは、今のうちだけかもしれない、という考えが、来た。
その考えを、そのまま、今日の欄の最後に、書き写した。
書けるうちに、書いておくべきだと、思った。
書き終えて、読み返した。今の、自分の字だった。
明日も、そうであるかは、分からなかった。
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六十五本目の蝋燭に、火を、灯した。
炎が、右に、揺れた。
二十八話、連続だった。
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その夜、桐生から、電話が、あった。
「俺の記憶も、同じことが起きている」
前置きは、なかった。
「思い出そうとすると、途中から、始まる。全部だ」
私が今夜、何を調べていたか、桐生には、話していない。
ノートも、まだ、閉じたままだった。
「会って話したい。できれば、早急に」
電話の向こうで、紙をめくる音が、していた。桐生も、何かを、書き出していたのかもしれなかった。
早急に、という言い方を、桐生がしたのは、初めてだった。
二日後に、会う約束をして、電話を、切った。
受話器を置いた手が、しばらく、そのままだった。
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残り、三十五本。
自分の記憶を、一つ、思い出してみてほしい。
その場面の、いちばん最初の瞬間まで——本当に、遡れるだろうか。
気づけば、もう、始まっている。
その手前に、何があったかは、誰も、覚えていない。
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【次回予告】
百物語 第六十六話:桐生の墓
もう一度、確認のために、墓の前に、立った。
「五年前に、事故死」だったはずの文字が——
「二十五年前に、失踪」に、変わっていた。