継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~   作:yami_craft

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これは私が記録した、六十五本目の違和感である。

今回も、語り部は、いない。

記録するのは、私自身の、記憶のことだ


第六十五話:記憶の所有者

夜、机の前に、座っていた。

 

六十三本目の夜から、ノートを開くたびに、あの二つの筆跡のことを、考えていた。

 

かけた記憶と、受けた記憶。どちらも、私の記憶として、まだ、残っている。

 

最近、自分が誰なのか、確かめたくなることがある。

 

その夜も、そうだった。

 

確かめる方法として、記憶の棚卸しを、することにした。

 

思い出せる場面を、古い順に、ノートへ書き出していく。それだけの、作業だ。

 

部屋には、ペンの音だけが、あった。

 

一つ書くたびに、その場面を、映像として、思い出していった。

 

十いくつ目で、手が、止まった。

 

 

────────────────

 

 

どの記憶も、途中から、始まっていた。

 

ドアを開ける記憶は、開けた後から、始まる。誰かと話す記憶は、二言目から、始まる。歩いている記憶は、すでに、歩いている。

 

入る前が、ない。

 

最初の一秒が、どの記憶にも、なかった。

 

古い記憶だから、擦り切れたのだと、思った。

 

昨日の記憶で、試した。昨日の夕食。箸を持つところからではなく、すでに、噛んでいるところから、始まった。

 

今朝の記憶も、同じだった。目が覚める瞬間はなく、天井を見ているところから、始まっていた。

 

巻き戻そうとすると、同じ位置で、また、始まった。

 

手前には、進めなかった。

 

壁がある感じでは、なかった。そこより手前が、最初から、ない感じだった。

 

欠けているのは、終わりでは、なかった。どの記憶も、終わりまでは、ある。

 

どこへ続く記憶かは、分かる。どこから来た記憶かだけが、分からない。

 

書き出した記憶は、そのとき、三十を、超えていた。

 

全部、同じ欠け方だった。

 

 

────────────────

 

 

出処を、確かめることにした。

 

いつ、どこで、手に入れた記憶なのか。最初の一秒の、その手前まで遡れば、分かるはずだった。

 

一つ目の記憶を、選んだ。

 

夜の病棟の廊下を、歩いている。消毒液の匂いがして、靴の底が、床に、小さく鳴っている。廊下の先の、非常灯の緑まで、見えている。

 

私は、病院で、働いたことがない。

 

これは、由香の話として、記録した場面のはずだった。

 

ノートを、確かめた。記録は、あった。由香の語りとして、由香の言葉で、書いてあった。

 

三人称の、記録だった。

 

だが、思い出せる映像は、聞いた話の形を、していなかった。

 

廊下は、私の目の高さから、見えていた。靴の音は、私の足から、鳴っていた。消毒液の匂いは、由香の言葉としてではなく、鼻の奥に、残っていた。

 

記録と、記憶の、形が、合っていなかった。

 

 

────────────────

 

 

別の記憶を、選んだ。

 

放課後の教室。低い西陽。古い、木の匂い。机の木目の、ひんやりとした感触が、手のひらに、残っている。

 

私は、その教室に、入ったことがない。

 

凛が、語った場所だった。

 

もう一つ、選んだ。

 

雨の山道。祠の前。湿った土の匂いと、雨具の肩の重さ。石の表面の、彫られた文字の凹凸が、指先に、残っている。

 

桐生が、二十五年、通い続けた場所だった。

 

三つの記録を、読み比べた。

 

由香は、非常灯の色を、語っていない。凛は、机の木目の感触を、語っていない。桐生は、雨具の重さを、語っていない。

 

語られていない細部を、私は、覚えていた。

 

聞いて、覚えた記憶では、なかった。

 

どれも、途中から、始まっていた。

 

どれも、私の目の高さから、見えていた。

 

 

────────────────

 

 

自分の記憶と、預かった記憶を、分ける方法を、探した。

 

匂いで、分けようとした。分からなかった。どの匂いも、同じ濃さで、残っていた。

 

日付で、分けようとした。分からなかった。最初の一秒がない記憶には、始まった日が、なかった。

 

体の感触で、分けようとした。歩幅も、手の大きさも、思い出の中では、全て、私のものだった。

 

五十一本目の夜に作った、年表を、棚から、出した。

 

照合するまでも、なかった。

 

どの記憶も、あの一本の線の上に、隙間なく、載った。

 

年表の上では、分ける必要そのものが、なかった。

 

四つ試して、やめた。

 

分ける方法が、ないのでは、なかった。

 

分ける、という言葉のほうが、先に、意味を失っていた。

 

 

────────────────

 

 

欠けている一秒の場所を、何度も、見た。

 

映像は、なかった。

 

ただ、色の印象だけが、あった。

 

薄い、黄色だった。

 

夕方の色でも、朝方の色でもない、薄い黄色が、欠けの手前に、あった。

 

蝋燭の炎の色とは、違った。もっと、平たい色だった。

 

どの記憶でも、同じ色だった。

 

それが何の色なのか、分からなかった。

 

見覚えだけは、あった。

 

どこで見た色なのかを、遡ろうとすると——その記憶も、途中から、始まった。

 

分からないまま、ノートに、色の名前だけを、書いた。

 

 

────────────────

 

 

「所有者」という欄を、作ろうとした。

 

書き出した記憶の一つ一つに、誰のものかを、書き添えるつもりだった。

 

一行目で、ペンが、止まった。

 

書ける名前が、なかった。

 

欄の名前だけが、空欄の上に、残った。

 

由香の記憶、と書けば、噛み合わない。私の記憶、と書いても、噛み合わない。

 

記憶に、名前を、つけられない。

 

そのことに、今は、気づけている。

 

気づけているのは、今のうちだけかもしれない、という考えが、来た。

 

その考えを、そのまま、今日の欄の最後に、書き写した。

 

書けるうちに、書いておくべきだと、思った。

 

書き終えて、読み返した。今の、自分の字だった。

 

明日も、そうであるかは、分からなかった。

 

 

────────────────

 

 

六十五本目の蝋燭に、火を、灯した。

 

炎が、右に、揺れた。

 

二十八話、連続だった。

 

 

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その夜、桐生から、電話が、あった。

 

「俺の記憶も、同じことが起きている」

 

前置きは、なかった。

 

「思い出そうとすると、途中から、始まる。全部だ」

 

私が今夜、何を調べていたか、桐生には、話していない。

 

ノートも、まだ、閉じたままだった。

 

「会って話したい。できれば、早急に」

 

電話の向こうで、紙をめくる音が、していた。桐生も、何かを、書き出していたのかもしれなかった。

 

早急に、という言い方を、桐生がしたのは、初めてだった。

 

二日後に、会う約束をして、電話を、切った。

 

受話器を置いた手が、しばらく、そのままだった。

 

 

────────────────

 

 

残り、三十五本。

 




自分の記憶を、一つ、思い出してみてほしい。

その場面の、いちばん最初の瞬間まで——本当に、遡れるだろうか。

気づけば、もう、始まっている。

その手前に、何があったかは、誰も、覚えていない。

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【次回予告】

百物語 第六十六話:桐生の墓

もう一度、確認のために、墓の前に、立った。

「五年前に、事故死」だったはずの文字が——

「二十五年前に、失踪」に、変わっていた。
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