継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~ 作:yami_craft
ある男が私の前に現れ、「自分のスマホに、知らない指紋がある」と言った。最初、彼はそれをストーカーだと思っていた。そして、ある日を境に、考えを改めた。
私は彼の話を、そのまま記録する。
その日は、何もない土曜日だった。
午前中に洗濯を回し、昼に冷凍うどんを食べ、午後はソファでスマホを見ていた。SNSをスクロールして、特に読みたいものもなく閉じて、また開く。そういう土曜日だった。
傾けたとき、気づいた。
画面を窓の光に向けて角度を変えたとき、指紋の痕が浮き上がって見えた。普通なら気にしない。スマホの画面は常に指紋だらけだ。
ただ、一つだけ位置がおかしかった。
画面の右端の、ほぼ角。縦に持ったとき、親指が届かない場所。正確に言うと、右手でも左手でも、通常の持ち方では物理的に触れることのできない位置に、鮮明な指紋が一つあった。
両手の親指を順番に当ててみた。
届かなかった。
人差し指でも、中指でも試した。いずれも指先が届くには、スマホを別の持ち方にしなければならない——それも、使用中には絶対にしない持ち方で。
彼は指紋の形を見た。
楕円。親指の腹ほどの大きさ。油脂の跡がくっきりと残っている。拭いていないので、かなり最近ついたものだろう。
いつからあったのか、分からなかった。
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その夜、スマホを徹底的に調べた。
写真アプリを開く。自分が撮った覚えのない写真はなかった。LINEの送受信履歴を確認する。見覚えのないメッセージはない。電話の発着信ログを見る。知らない番号への発信もなかった。
異常は、一つも見当たらなかった。
彼はスマホを置いて、部屋の中を見回した。窓の鍵を確認した。玄関の鍵を確認した。どちらも施錠されていた。
翌朝になっても、指紋のことが頭から離れなかった。
職場まで電車で三十分かかる。その間、スマホを持ったまま、何度か試してみた。あの位置に指が届く持ち方があるとすれば——電車の吊り革を掴みながら、スマホの端を指でつまんで持つような、不自然な把持だった。
そんな持ち方をする理由がない。自分では絶対にしない。
それなのに、指紋はそこにあった。
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一週間が経って、指紋の記憶が薄れかけた頃だった。
夜、充電ケーブルを挿したとき、ふと画面が光って「最近使ったアプリ」一覧が表示された。
見慣れないアイコンがあった。
見た覚えがない。インストールした記憶もない。
灰色の、正方形だけのアイコン。名前は表示されていなかった。
タップした。
アプリが起動した。真っ白な画面に、テキストだけが表示された。
あなたのそばにいます。
それだけだった。
他には何もなかった。テキスト入力欄も、メニューも、設定画面も。ただ白い背景に、その一文だけが中央に配置されていた。
彼はアプリを閉じて、設定画面からアプリ一覧を開いた。
存在していなかった。
インストール済みのアプリ一覧を何度スクロールしても、あのアイコンも、あの名前のないアプリも、どこにもなかった。
「最近使ったアプリ」に戻ってみた。
履歴ごと、消えていた。
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彼は翌週、スマホを買い替えた。
機種変更という形ではなく、まったく別のメーカーの端末を、新品で購入した。旧端末はSIMカードを抜いて引き出しにしまった。データの引き継ぎはしなかった。ゼロから始めることにした。
新しいスマホを開封した。
フィルムを剥がした。
画面を窓に向けて傾けた。
あった。
画面の右端、角のすぐ手前。同じ位置に、同じ大きさの指紋が一つ。
開封したばかりの、フィルムを今剥がしたばかりの、工場から出荷されて箱に入っていた端末の画面に。
彼の両手は、まだフィルムを持ったままだった。
スマホにはまだ触れていなかった。
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記録を終えると、私は七本目の蝋燭を消した。
彼はその後、二台目のスマホを引き出しにしまった。
今は一台目の端末を使い続けている。指紋は拭かずにある。自分以外の誰かが触れたという証拠として、そのままにしている。
ただ、気になることが一つある。
彼が「最近使ったアプリ」を確認した時刻を後から調べると、その時刻帯に自分はソファで眠っていた——という。就寝前にスマホを触った記憶はなく、翌朝気づいたら画面に指紋が増えていた日も、同じパターンだったと言っていた。
自分が眠っている間に、誰かが触っている。
あるいは——自分が眠っている間に、自分が触っている。
どちらの可能性が、より不気味か。
私にはまだ、答えが出ていない。
残りは九十三本。
私は次の違和感を、待つことにした。
読了ありがとうございました。
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