継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~ 作:yami_craft
七十本目も、立花由香から、来た。
「七人分です。ここに、七人分、いるんです」
由香の声を、思い出しながら、私は、夜道を、走った。
さっきの電話から、まだ、一時間も、経っていなかった。
病院に、着いた。
正面玄関は、もう、閉まっていた。
夜間受付の、狭い明かりだけが、点いていた。
守衛に、由香の名前を、告げた。
エレベーターは、使わなかった。
階段を、上がった。
一段、飛ばしで。
内科病棟、四階。
消灯された、廊下は、いつもより、長く、感じられた。
奥の、病室から、点滴台の、車輪の音が、一度だけ、した。
その、奥。
由香が、404号室の、ドアの前に、立っていた。
白衣の、袖口を、片手で、握っていた。
「もう、いません」
由香は、そう言った。
「今は、もう。でも——」
言葉が、続かなかった。
私は、404号室の、中を、覗いた。
消灯された、部屋。
洗面台の、横の、鏡。
何も、映っていなかった。
部屋そのものが、映っていなかった。
洗面台も、ベッドの、輪郭も、廊下の光さえも。
鏡は、ただ、暗いだけだった。
部屋の空気だけが、重かった。
ついさっきまで、大勢の誰かが、ここに、ひしめいていたような、密度が、まだ、残っていた。
由香は、看護師控室に、私を、促した。
階段を、駆け上がってきた息が、まだ、整っていなかった。
椅子に、座ると、由香は、話し始めた。
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(由香の語り)
いつもの巡回でした。
十時、十二時、二時。
靴の底が、床に、擦れる音。
消毒液の、匂い。
ナースコールの、待機灯。
十年、変わらない、夜のはずでした。
今夜は、そこで、いつもと違いました。
404号室の前を通ったとき、ドアが開いていました。
いつもより、大きく。
手をかける前から、分かっていた気がします。
今夜は、いつもと違う、と。
一度、廊下を、戻ろうとしました。
でも、戻れませんでした。
開けました。
鏡の前じゃ、なかったんです。
部屋の真ん中に、背の高い人が、立っていました。
後ろ向きでした。
鏡を見ました。
何も、映っていませんでした。
夫の姿も、部屋そのものも。
十年間、あの鏡を見てきました。
何も映らない鏡は、初めてでした。
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振り返りました。
夫でした。
十年前と、同じ顔でした。
年を、取っていませんでした。
髪の分け方も、頬のこけ方も、あのころのままでした。
でも、目が違いました。
十年間、あの人の目は、いつも、何かを探していました。
こっちに来い、来い、と、急かしていました。
今夜は、違いました。
穏やかでした。
まるで、もう急ぐ必要がないみたいに。
「由香」
夫が言いました。
「お前も、もうすぐ、こっちに来る」
「全部、見える場所に」
「俺が、十年前に、来た場所に」
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怖かったのは——「会いたい」と思ってしまった、自分でした。
十年前のあの日、聞けなかった続きを、今、聞けるかもしれない。
そう思ってしまいました。
足が動きませんでした。
でも、下がろうとも、しませんでした。
前にも、後ろにも、動かないまま、ただ、立っていました。
「もう少し、待って」
気づくと、そう言っていました。
自分の声とは思えないくらい、静かな声でした。
夫は、何も答えませんでした。
ただ、うなずきました。
そして、ゆっくり、薄くなっていきました。
輪郭から順に。
最後に、目だけが残って。
それも、消えました。
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鏡を、もう一度見ました。
まだ、何も映っていませんでした。
部屋の明かりをつけました。
蛍光灯が灯りました。
でも、鏡だけは、暗いままでした。
洗面台の蛇口が、鏡に映るはずの位置に、何もありませんでした。
部屋を出ました。
自分の足元を見ました。
影が、ありました。
さっきまでの、あれより。
それが、嬉しくて。
(由香の語り、終わり)
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由香は、そこで、言葉を止めた。
しばらく、黙っていた。
指先だけが、白衣の裾を、握っていた。
「観測者さんは」
由香が、言った。
「怖いものを、見なくなったら、それは、治ったってことですか」
「それとも」
「終わりが、近いってことですか」
私は、答えを、持っていなかった。
由香は、答えを、待っているようには、見えなかった。
ただ、口に出したかっただけの、質問なのかもしれなかった。
ノートに、そのまま、書いた。
由香は、それ以上、何も、訊かなかった。
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病院を、出た。
夜空を、見上げた。
星は、見えなかった。
雲が、厚かった。
夜道を、歩きながら、考えた。
由香の言葉を、思い出していた。
夫の最期の言葉は、「全部見える。過去も、未来も」だった。
十年間、それが何を意味するのか、分からなかった。
今夜、初めて、その輪郭が、見えた気が、した。
だが、輪郭が見えたことで、余計に、分からなくなった。
「全部見える場所」は、怖い場所では、ないのかもしれない、と、思った。
その思いつきを、口には、出さなかった。
ノートにも、書かなかった。
書けば、それが、本当になる気が、した。
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家に、帰った。
上着を、脱がずに、しばらく、椅子に、座っていた。
それから、由香の話を、ノートに、書き写した。
七十本目の蝋燭に、火を、灯した。
炎が、右に、揺れた。
三十三話、連続だった。
ノートを閉じる前に、四十本目の蝋燭を、見た。
由香が、最初に、来た夜の、蝋燭だ。
炎は、いつも通り、揺れていた。
だが、壁に、光の輪が、なかった。
ほかの蝋燭は、みな、壁に、淡い光の丸を、作っている。
四十本目だけ、その丸が、なかった。
蝋燭を、少し、動かしてみた。
炎の位置が、変わっても、光の輪は、現れなかった。
影が消えて、今度は、光そのものが、消えていた。
いつからなのかは、分からなかった。
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残り、三十本。
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その夜だった。
記録が、七十本目に、達した夜。
七人、全員が、また、同じ夢を、見ていた。
朝になっても、誰からも、連絡は、来なかった。
六十九本目の夜には、六件、届いた既読の数字を、覚えている。
今夜は、一件も、なかった。
翌朝、誰も、それを、報告しなかった。
聞かなければ良かったのか、聞かれなかったから黙っていたのか。
私には、分からなかった。
全部、見える」と、誰かに、言われたとする。
それが、死の予告でも、脅しでもなく——ただ、静かな、事実として、告げられたとしたら。
その言葉は、怖いだろうか。
それとも、少しだけ、羨ましいだろうか。
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【次回予告】
百物語 第七十一話:最初の分裂
五年前、自分は、「分裂」した——のかもしれない。
五年前の日記を、探した。
だが、最初から——「五年前」の記録だけが、存在しなかった。