継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~ 作:yami_craft
今回も、語り部は、いない。
書くのは、自分自身の、古い、日記のことだ。
七十本目の記録を、書き終えた、夜だった。窓の外は、もう、真っ暗だった。時計の針は、日付が変わる少し前を、指していた。
ふと、思った。
自分は、いつから、こうして、何かを、書き続けてきたのだろう。なぜ、始めたのか——理由を、思い出そうとして、うまく、思い出せなかった。習慣というのは、いつも、そういうものかもしれない。始めた日の記憶より先に、続けている今の方が、確かになっている。
スマートフォンの、写真アプリを、開いた。日付を、遡って、記録を、始めた頃の、写真を、探した。それらしい、写真は、なかった。カレンダーのアプリも、確かめた。四年以上前の、予定は、何も、残っていなかった。ただ、消去された、というより——最初から、なかったような、消え方だった。
押し入れの、奥の、段ボールを、引っ張り出した。古い、日記の束が、年ごとに、紐で、括られて、詰まっていた。革の匂いと、埃の匂いが、混ざって、鼻を、突いた。
一つずつ、畳の上に、並べていく。
十年前。
九年前。
八年前。
七年前。
どの束も、同じ、太さだった。一年分の、厚みが、ほぼ、揃っていた。几帳面に、書き続けてきた、証拠だった。天気、食事、仕事の予定。特に変わったことのない、日々の記録だった。
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六年前の束を、手に取った。
次に、置くべきなのは、五年前の束のはずだった。
段ボールの中に、手を、伸ばした。指先が、底に、触れた。何も、なかった。
もう一度、探した。段ボールを、逆さにして、振った。埃だけが、舞った。他の段ボールも、開けた。押し入れの奥まで、手を、入れた。どこにも、なかった。
床に、四年前の束が、転がっていた。順番が、狂っていた。五年前という、一年分だけが、そっくり、抜け落ちていた。
初めから、なかったのか。それとも、誰かが、持ち去ったのか。
どちらの可能性も、確かめようが、なかった。
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六年前の、束を、開いた。
几帳面な、字だった。日付、天気、その日の出来事。一日も、飛ばさずに、細かく、書き込まれていた。まるで、毎日を、記録に、残すことが、生きることそのものだったかのように。七年前、八年前の束と、筆跡を、見比べる。同じ、手だった。少しずつ、丁寧さが、増している。それだけの、違いだった。
最後のページを、開いた。
字が、乱れていた。いつもの、几帳面さが、消えていた。急いで、殴り書きされたような、勢いだけが、残っていた。
「もうすぐ、終わる」
それだけだった。
その先は、白紙だった。何ページも、何ページも。指で、めくった。何も、書かれていない、ページの手触りだけが、続いた。
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四年前の、束を、開いた。
最初のページの、字は、荒かった。日付も、天気も、なかった。単語だけが、飛び飛びに、並んでいた。六年前までの、几帳面さとは、まるで、別人の、手のようだった。書かれている、内容も、違った。六年前までは、天気や、仕事の予定ばかりだった。四年前からは、「違和感」という、言葉が、繰り返し、出てきた。
「これは私が記録した、一本目の違和感である」
指が、止まった。
同じ、文だった。句読点の、位置まで。
今、書いている、この記録の、一冊目の、一行目と。
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部屋に、戻った。
本棚から、一冊目の、記録ノートを、取り出した。表紙を、開く。一行目を、確かめる。
「これは私が記録した、一本目の違和感である」
同じだった。
だが——このノートを、書き始めたのは、去年の、春のはずだった。四年前では、ない。買った、文具店の、レシートが、今でも、最初のページに、挟まっている。日付も、覚えている。
二つの、「一本目」が、同時に、存在している。
どちらが、本当の、始まりなのか。
畳の上に、座り込んだまま、しばらく、動けなかった。時計の音だけが、部屋に、響いていた。冷めた、お茶の湯気は、もう、とっくに、消えていた。
考えようとして——なぜか、考えが、進まなかった。頭の中に、霧が、かかったようだった。あの、五十五本目の夜に見た、切れ端の文字を、思い出した。「……だから、忘れろ」。あれも、今、この、空白と、同じことを、言っていたのかもしれない。
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静かに、腑に落ちるものが、あった。
終わりの、後に、また、始まりが、来る。
始まりは、一つとは、限らない。
そのことに、なぜか、驚きは、なかった。ただ、今まで、当然のように、自分の記録は「一本目」から始まったのだと、思い込んでいた——その前提だけが、静かに、崩れた。
これまでの、ノートの、あちこちに、「五年前」という文字を、何度も、見た気がしていた。理由は、分からなかった。今、初めて、その理由の、輪郭が、見えた気が、した。
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七十一本目の蝋燭に、火を、灯した。
炎が、右に、揺れた。
三十四話、連続だった。
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残り、二十九本。
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六年前の日記を、閉じようとしたとき——最後のページの、裏に、何か、透けているのに、気づいた。
明かりに、翳してみた。
インクが、裏から、染み出ていた。滲んで、輪郭が、崩れかけていた。指先で、なぞると、まだ、わずかに、湿っているような、錯覚が、あった。何年も前の、インクのはずだった。
「美しかった。全てが、見えた」
誰の字か、分からなかった。自分の字のようにも、見えたし、そうでない、気も、した。断定できないことが、かえって、その言葉を、重くした。
それが、五年前に、何かを見た、誰かの言葉であることだけは、確かな気が、した。
日記を、閉じた。束を、元通り、紐で、括った。五年前の場所だけが、まだ、空いたままだった。段ボールに、その隙間を、残したまま、蓋を、閉めた。押し入れの、扉を、閉める音が、いつもより、大きく、響いた気が、した。
自分が、いつ、今の習慣を始めたのか——正確に、言えるだろうか。
始めた日を、覚えているつもりでも。
その手前の一年だけ、記録も、記憶も、きれいに、抜け落ちていたとしたら。
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【次回予告】
百物語 第七十二話:千尋のループ
気づくと、コンビニで、同じ一日を、何度も、繰り返している。
今日が、何回目なのか、数えようとしたら——
数えるたびに、数字が、変わった。