継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~ 作:yami_craft
七十四本目は、芦川美咲から、来た。
解体の、通知が、届いたのだという。
九月末、更地に、なる予定だった。この部屋に、美咲が、通い続けて、十年になる。
最後に、一度、記録しておきたい。そう言って、美咲は、その部屋へ、向かった。
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(美咲の語り)
鍵は、管理会社から、借りました。
「もう、どこも、傷むだけですから」
担当者は、そう言って、あまり、中を、見たがりませんでした。
十年前と、部屋は、変わっていませんでした。埃の積もり方だけが、違いました。
親友の、私物は、ほとんど、警察が、持ち出しています。窓際の、姿見だけが、戻されました。理由は、聞いていません。
玄関に、立った、瞬間。記憶より、部屋が、狭く、感じました。
九年、十年、何度も、この場所に、立ちました。親友の、顔は、もう、鮮明には、思い出せません。声も、同じです。それでも、この部屋の、匂いだけは、いつも、同じでした。埃と、古い畳と、かすかな、線香の匂い。
今日も、同じ、匂いが、しました。
カメラと、レコーダーを、鞄から、出しました。手順通りに、撮ります。玄関、台所、押し入れ。最後に、この、鏡の部屋。
レコーダーは、回したままにしました。取材の記録には、いつも、音声も、残します。
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窓から、光が、斜めに、入っていました。埃が、光の筋の中を、ゆっくり、動いていました。
鏡に、映る、自分を、見ました。
息が、白くなりませんでした。
十月には、少し早いにしても、部屋の中は、それなりに、冷えていました。自分の、吐く息を、もう一度、確かめました。白い、はずでした。
鏡の中の、口元だけ、何も、出ていませんでした。
一歩、近づきました。
光は、斜めに、差し込んでいるのに——鏡の中の、足元にだけ、影が、ありませんでした。
カメラを、構え直しました。異常を見つけたら、まず、記録する。十年、続けてきた、癖です。
シャッターを、切ろうとした、指が、止まりました。
鏡の中の、自分が——立っていませんでした。
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床に、横たわっていました。
こちら側の、私は、立ったままです。鏡の中だけ、倒れています。仰向けに。目を、閉じて。
胸が、上下する、様子も、ありませんでした。
しばらく、動けませんでした。何を、確かめればいいのか、分からなかったんです。
横たわった、瞼が、動きました。
ゆっくり、開きました。
目が、こちらを、見ました。倒れた姿勢のまま、首だけを、こちらへ、向けて。
口の端が、上がりました。
笑って、いました。
「取材、終わりにしよう」
声は、鏡の外には、出ていないはずでした。なのに、はっきり、聞こえました。自分の、声でした。
「もう、十分、記録した」
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十分。
その、二文字が、頭の中で、止まりませんでした。
十年間、私が、十分だと思ったことは、一度も、ありませんでした。何を確かめても、次の疑問が、生まれました。答えに、辿り着いた、と思ったことは、なかったんです。
なのに、鏡の中の自分は、十分だと、言いました。
それが、自分の言葉なのか、確かめようとして——できませんでした。「十分」の意味が、私の思っていたものと、同じかどうか、分からなかったからです。
倒れたまま、鏡の中の自分は、瞬きを、しませんでした。笑ったままの、口の形も、動きませんでした。
写真のように、止まりました。
レコーダーの、赤いランプだけが、点滅を、続けていました。
長くは、見ていられませんでした。カメラを、下ろしました。鏡から、目を、逸らしました。
もう一度、見る勇気は、ありませんでした。
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家に、帰ってから、レコーダーを、聞き直しました。
「取材、終わりにしよう。もう、十分、記録した」
その部分は、確かに、録音されていました。
声は、一つだけでした。
私の声だけが、記録されていました。誰の声を、聞いたつもりだったのか、自分でも、分からなくなりました。
(美咲の語り、終わり)
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美咲は、それ以上、部屋に、留まらなかった。
玄関を出て、階段を、降りた。外の光は、まだ、明るかった。
現場を、出た。
スマホを、開いた。
観測者からの、メッセージが、届いていた。
「美咲さん、七十四本目の記録を、終えました。残り、二十六本。あなたは、まだ、いますか」
送信時刻は——鏡の前に、立っていた、あの時刻と、同じだった。
「あなたは、まだ、いますか」
その、一文だけを、美咲は、何度も、読み返した。
鏡に映る、自分の姿を、ただ、眺めてみてほしい。
目を、閉じてみる。
もう一度、開けたとき——そこに映っているのが、本当に、自分かどうか。
確かめる方法を、持っているだろうか。
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【次回予告】
百物語 第七十五話:父親との対話
父親の声が、毎晩、聞こえる。
「凛、もうすぐだ。もうすぐ、会える」
その夜、初めて、凛は、父親に、聞いた。
「お父さん、私のことが、見える?」
父親は、答えた。
「見えない」