継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~ 作:yami_craft
ある男が私の前に現れ、「自分が住むマンションの階段が、日によって段数が変わる」と言った。建物の構造が日によって変わるはずがない——そう思いながら、私は彼の話を聞いた。
私は彼の話を、そのまま記録する。
最初に気づいたのは、十月のはじめだった。
月曜の朝だった。ゴミ袋を抱えて三階から一階のゴミ置き場まで下りようとしたとき、スマホでその日の予定を確認しながら歩いた。いつもの、何でもない月曜だった。
彼の朝のルーティンは決まっていた。六時十分に起きて、顔を洗って、コーヒーを飲む前にゴミを出す。三年間、一度も崩したことのない順番だった。自分でも気づかないうちに体が動く、そういう類の習慣だった。靴下の左右を確認する手つきも、鍵を二回確認する癖も、全て同じリズムで繰り返されていた。
ゴミを出して、部屋に戻ろうとした。
階段を上り始めて——なんとなく、長かった気がした。
右膝が一段余分に上がった、そんな感覚だった。段の終わりだと思ったのに、足の下にまだ段があった。踏み外すほどではない、ほんの一瞬の違和感だった。踊り場に出たとき、体が「まだ上がる」準備をしていた。
疲れているせいだと思った。前の週は残業が続いていた。睡眠が足りていなかった。それだけだった、そのときは。
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二度目は、同じ週の金曜日だった。
エレベーターが一階で止まっていた。点検か故障かは確認しなかった。仕方なく階段を使って三階まで上った。
踊り場に差し掛かった。
踊り場の窓から、いつも隣のビルが見える。外壁が古びたグレーのビル。特徴のない、見慣れた建物だ。築年数は分からないが、少なくとも彼がここに越してきた三年前からずっとそこにある。
それが、なかった。
窓の外に、空しかなかった。曇った夕方の空と、細い電線が一本。電線の高さは、いつもと同じだった。見慣れた位置に、見慣れた角度で張られていた。ビルだけがなかった。
首を動かして確認した。ビルは消えていなかった。少し離れた角度に、確かにあった。窓の正面にあったはずの位置に——ないだけだった。
気のせいだと思うことにした。
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三日空けて、彼は数えながら上った。
一、二、三——と口の中だけで数えた。踊り場まで。踊り場から三階のドアまで。
合計が、出なかった。
踊り場に着いた瞬間、それまで数えていた数が消えた。十いくつだったか、十五だったか、ゼロのようなものが残るだけで、数字が頭に留まらなかった。もう一度、最初から数えた。また消えた。踊り場に出ると、一の位が霧の中へ落ちるように消えた。
翌朝、紙に書きながら数えた。四角を一個ずつ書き、踊り場に着いたとき数えた。十一個だった。三階のドアを開ける前に、もう一度確認した。十一個のはずの四角が、気づくと九個になっていた。
その日の夕方はまた数えた。十七個書けた。
どちらが正しいのか、分からなかった。両方の日、彼は同じ三階の部屋に辿り着いている。それは確かだった。
彼は同じフロアの住人に聞いた。四人に声をかけた。「最近、階段が長く感じることはないですか」と。
一人目は「数えたことない」と言った。
二人目は「エレベーター使うので」と言った。
三人目は「同じじゃないですかね」と言った。
四人目は、彼の顔を見た後——一瞬だけ、その視線が背後に移った。背中の、右肩のあたりを。それから何も言わずに立ち去った。
彼は自分の右肩を見た。何もなかった。
彼は管理会社に電話した。「一階から三階まで、階段は何段ですか」と聞いた。少し間があって、「三十段です」と言われた。「図面で確認できますか」と聞いた。「こちらの記録では三十段になっています」と言われた。
電話を切って、記録した。「管理会社の記録:三十段」。
その日の夕方、数えた。紙に書いた四角は十四個だった。踊り場で確認すると、また一個減っていた。
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翌週の月曜日、彼は一から数えながら上った。声には出さなかった。しかし指を折って、確実に数えた。スマホも持たずに、数えることだけに集中した。
三十を超えた。
三十一、三十二、三十三——
立ち止まった。三十三という数字は、確かに頭の中にあった。消えなかった。踊り場ではなく、まだ階段の途中だった。
三十七、三十八——
踊り場に出た。しかしそこは三階ではなかった。壁に「3F」の表示がない。廊下の突き当たりに扉が一つ。
鉄製の、錆びた扉。
鍵がかかっていた。
そんな扉はこのマンションにない。四十七段目まで上がったのは、今日が初めてだった。
踊り場の窓を確認した。
隣のビルが、なかった。今日も、空と電線だけだった。
電線の高さは——一階の踊り場と、変わっていなかった。
四十七段上がったはずだった。建物の外側から見れば、四、五階相当の高さにいるはずだった。しかし電線は、いつもと同じ位置にあった。空の広さも、変わっていなかった。段数だけが増えて、高さが増えていなかった。
そのことに気づいて、彼は窓から目をそらした。
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扉の前に立った。
物音はしなかった。人の気配もなかった。気づいたのは、音の消え方だった。建物の中にいれば必ずどこかから聞こえてくるはずの音——エレベーターの駆動音、換気扇の低い振動、どこかの部屋のテレビ、水道管の鳴り——それが全部なかった。六時を過ぎれば動き出す誰かの気配が、今日はここには届かなかった。自分の呼吸と、靴底がコンクリートを踏む音だけが、四方の壁に囲まれていた。
扉に鍵穴が二つあった。ひとつは見慣れた形のシリンダー錠。もうひとつは小さな、古い型の鍵穴。どちらも錆が浮いていた。
彼はドアノブを掴んだ。
回らなかった。
もう一度、力を入れた。
ドアノブは動かなかった。冷たかった。掌に金属の冷たさが残った。
そのとき、背後から肩を掴まれた。
右肩を。
振り向いた。
誰もいなかった。
廊下は空で、足音も気配もなかった。ただ、右肩だけに、何かに触れられた感触が残っていた。五本の指の形が、そこにあった。前ではなく——後ろに、引っ張る力だった。
スマホを取り出した。
時刻は午前六時三十一分だった。
ドアノブを掴む前に確認した時刻は、六時十二分だった。
十九分が、消えていた。
踊り場に立ったまま、彼はしばらく動けなかった。どこへ向かえばいいのかが、分からなかった。上に行く理由はもうない。下に戻れば三階がある。だが今自分がいるここは何階なのか、それが分からなかった。
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記録を終えると、私は八本目の蝋燭を消した。
彼はその後、毎朝出かける前に階段を数えている。
「三十段の日は上まで行きません」と彼は言った。
「それ以上の日は?」
「行きません」
「なぜですか」
「踊り場の窓の外にビルがない日が、必ず重なるので」
私は少し考えてから聞いた。「肩を掴まれたとき、どんな感触でしたか」
「引っ張られた、と思います」と彼は言った。「前ではなく、後ろに」
「扉から引き離された、ということですか」
「そうかもしれない。でも」彼は少しの間、黙ってから続けた。「あの扉の向こうに行きたいと思っていたのかどうか——もう、分からないんです。振り返ったとき、自分が何をしようとしていたか、覚えていない部分がある」
「十九分間の記憶は」
「ありません。ドアノブを掴んだ、という記憶だけがあります。その後、時計を見た記憶がある。その間が、ないんです」
私は手帳に書き留めた。「消えた十九分」「右肩を掴まれた感触」「引っ張られた方向」「電線の高さが変わらなかった」。
それからもう一つ書いた。「月曜の朝に始まった」。
この話が月曜日の朝に始まったことを、私はある時点から意識するようになっていた。一話目も月曜だった。三話目も月曜だった。今日で八話目になる。月曜の朝に、何かが動き出す語り手が、複数いる。記録を辿ればすぐ分かることだった。それでも今まで書き留めなかったのは——そのことに気づいたのが、今日が初めてだからではないかもしれない。
残りは九十二本。
私は次の違和感を、待つことにした。
読了ありがとうございました。
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