──呪いの王が初めて祓うべき災いに出会った世界。
人を救うつもりで人を終わらせる虎杖悠仁を、最初に「災い」だと見抜いたのは宿儺だった。
本来なら決して並ばないはずの者たちが、ただ一人の少年を止めるためだけに手を組む。
これはそんな世界線の、最終決戦だけを切り取った短編。
続きは、書くに値すると判断した時だけ書く。
夜の新宿は、とっくに死んでいた。その中で最初に現れたのは、氷だった。
崩れた高層ビルの谷間を、白い息のような冷気が這う。砕けたアスファルトに霜が走り、ひしゃげた鉄骨が鈍い音を立てて凍りついていく。
その死体をさらに静かにしていくような冷えだった。
虎杖悠仁は、その気配に振り返った。
瓦礫の向こうに、冷気を纏う影が立っている。肩で息をし、袖口には黒ずんだ血がこびりついていた。無傷ではない。むしろ相当に削られている。それでも、一歩も退いていない。
その半歩後ろ。
伏黒恵の顔をした宿儺が、無言でこちらを見ていた。
さらに別の方角から、硬い靴音が近づく。折れかけた刃を片手にした男が現れ、その隣には、今にも消えそうな光を纏った者が立つ。
ありえない並びだった。
敵も、思想も、立場も、何もかもが噛み合わない。そんな連中が、今は同じ方向を見ている。
虎杖は、その光景を見て目を丸くした。
それから、少しだけ嬉しそうに笑った。
「すごいな」
やわらかい声だった。こんな場所には似合わないくらい、明るい。
「みんな揃って来てくれたんだ」
冷気の影の眉がぴくりと動く。刃を持つ男は何も言わない。光を纏う者は、ただ唇を引き結んだ。
宿儺だけが、低く吐き捨てる。
「気色の悪い小僧だ」
虎杖は首を傾げた。
「そこまで言う?」
「足りんくらいだ」
宿儺の赤い眼が、真っ直ぐ虎杖を射抜く。
夜の新宿は、半ば整えられていた。
そこが最悪だった。
無残ではないのだ。
斬り飛ばされた死体は、必要以上に壊れていない。倒れた者は倒れた場所で妙な静けさを残し、崩れたビルにすら無駄が少ない。苦鳴も断末魔も、長く尾を引いていない。
まるで最初から、そこへ終わるべきものだったみたいに。
虎杖悠仁は、泣きながら人を殺せる。
しかもそれを、救いだと信じたままで。
宿儺はその光景を嫌というほど見てきた。見るたびに、腹の底が冷えていく。
「悠仁」
刃を持つ男が一歩前に出た。
妙にまっすぐな、逃がさない声だった。
「ここで終わりだ」
虎杖は穏やかに男を見る。
「俺を止めに来たんだ」
「そうだ」
「資格があるって?」
挑発ではない。本気でわからない者の問いだった。
男の喉が、わずかに詰まる。
「誰にもない」
それでも言い切る。
「だから人は、手順や責任の所在を必要とする。少なくとも、自分一人の正しさだけで越えていい線じゃない」
「でも」
虎杖は視線を落とした。瓦礫の間に転がる死体を見る。
「線なんか待ってたら、間に合わないだろ」
「それでもだ」
「それでも見過ごせって?」
「違う」
男は低く息を吐いた。
「君は見過ごしていない。見ようとしすぎている。そして、見たつもりになっている」
そこで初めて、虎杖の表情がほんの少しだけ揺れた。
宿儺はその一瞬を見逃さない。
だが口を開くより先に、光を纏った者が前へ出た。
「あなたの中には、もともと境界がない」
弱々しい声音だった。だが言葉はまっすぐだった。
「呪いと人の境界。生と死の境界。救済と加害の境界。だからあなたは、どちらの名前でも自分を縛れない」
虎杖が、その光を見る。
「それの何が悪いんだ」
「悪いから、じゃない」
光を纏った者は首を振る。
「怖ろしいからだ」
風が吹いた。
ひび割れた道路を、紙片と灰が転がっていく。
虎杖は少しだけ困ったように笑った。
「みんな、同じこと言うんだな」
「同じではない」
宿儺が言う。
「だが結論だけは揃う」
冷気の影が低く呼吸を整える。
宿儺が前へ出た。
「始めるぞ」
その瞬間、虎杖の目が少しだけ輝いた。
嬉しそうですらあった。
「やっとだな」
拳を握る。指の間に、淡い線みたいな呪力が走る。空気に切れ目が入る。
見慣れたはずの気配なのに、宿儺は毎度のように眉をひそめた。
あれは斬るための線ではない。
終わらせるための線だ。
対象を物として切るのではなく、死にやすい形へ静かに揃えていく。世界そのものに、ここで畳めと命じるような在り方。
宿儺は、そんなものに名を与える気がなかった。
虎杖が踏み込む。
最初の一撃は、宿儺ではなく刃を持つ男へ向かった。
速い。
だがそれ以上に、迷いがなさすぎた。人を殴る動きではない。必要な工程を進める手つきだ。
男が刃で受ける。重い。骨に響く衝撃。押し返される前に、横から氷の槍が割り込み、冷気の影が軌道をずらす。
その瞬間、宿儺の解が走った。
虎杖の肩口が裂ける。
血が散る。
それでも虎杖は退かない。むしろ軽く笑った。
「すごいな」
そのまま男の刃へ手を添える。刃筋に沿って白い線が走り、次の瞬間、武器そのものが音もなく崩れた。
男が息を呑む。
宿儺が舌打ちする。
「貴様……」
「だって危ないだろ」
虎杖は本気でそう言った。
「まだ、使い方が優しいから」
次は光を纏う者へ向かう。
弱っている者から先に“救う”。その判断が、なお悪い。
だが拳が届く寸前、光が落ちた。呪力の流れがわずかに乱れ、宿儺が伏黒の身体ごと割り込んで、肩からぶつかる。
二人の身体が瓦礫の上を滑った。
虎杖はすぐに立て直し、宿儺へ蹴りを返す。宿儺は受ける代わりに踏み込み、額がぶつかるほど近い距離で言った。
「そちらを先に落とすか」
「当然だろ」
虎杖の声も低い。
「オマエより剥がすのがうまい」
「そういうところだぞ、小僧」
「どこが?」
返事の代わりに、宿儺は膝を鳩尾へ叩き込んだ。虎杖の身体がくの字に曲がる。そこへ氷が足元を奪い、男の拘束が重なる。
一瞬、虎杖の動きが止まった。
光が差し込む。
薄く鋭く、呪的な綻びだけを剥がす光だった。虎杖の体表を走る白い線が揺らぐ。宿儺由来の術式理解、その根にある異物の回路へ干渉している。
虎杖が初めて顔をしかめた。
「……痛えな」
「痛みで済んでいるうちに止まりなさい」
光を纏った者が言う。
「あなたはもう、人の輪の中にいない」
「でも俺、人間だよ」
「そう信じているだけだ」
「違う」
その一言だけ、虎杖の声色が変わった。
幼い反発に近い。
宿儺にとって、それは好都合だった。
こいつの核はそこにある。
自分は人間で、自分のしていることは人のためで、少なくとも完全な異物ではない。そう信じていなければ、この小僧は立っていられない。
なら、そこを斬る。
だがその前に、虎杖の呪力が急激に膨れ上がった。
音が消える。
崩れかけたビルの欠片が宙に浮いたまま止まり、風が止み、遠くのサイレンすら膜一枚向こうへ退く。
静かな街が、開いた。
誰も名前を呼ばないまま、それは世界へ染み出す。
壊れた信号、倒れた標識、割れた窓、横たわる死体。そのすべてが、終わるべき位置へ静かに揃いはじめる。さらに、その場に立つ者たちへ淡い白い線が浮かんだ。
宿儺の腕に。
男の首筋に。
冷気の影の脇腹に。
光を纏う者の胸元に。
そして、見えないどこか。伏黒恵の沈んだ魂にまで。
虎杖はその中心で、ひどく穏やかな顔をしていた。
「これで終われる」
誰に言うでもない。
「みんな、ちゃんと」
「……っ、ふざけるな」
その声は、戦場の外から来た。
違う。外ではない。内側だ。
伏黒恵の気配が、宿儺の中で一瞬だけ浮いた。
声というより、ひび割れみたいな抵抗だった。沈みきっていた魂が、今だけ表面へ爪を立てる。
虎杖の目が揺れる。
「……伏黒?」
返事はない。
だが、確かにあった。
虎杖が止まる。
ほんの半拍。
その半拍が、この場にいる全員のために生まれた。
男が叫ぶ。
「虎杖悠仁!」
妙にまっすぐな、逃がさない声だった。
「お前は他者の死を引き受けているつもりで、他者から生を奪っているだけだ!」
白い線がブレる。
光を纏った者が重ねる。
「あなたは救っていない! 見たくない苦痛を終わりへ押し込んでいるだけだ!」
さらに氷が、静かな世界へ罅を入れる。完璧に整えられようとしていた街へ、冷たい異物が差し込む。
その中心で、宿儺だけが前へ出た。
白い線が無数に走る。肩が裂ける。頬が切れる。伏黒の身体に深い傷が走る。
それでも止まらない。
虎杖がようやく動く。
「来るな」
「来る」
「やめろ」
「やめん」
宿儺は血を吐きながら笑った。
「ここまできて退くか、小僧」
「俺は……」
「聞け」
宿儺の声が、静けさそのものを引き裂いた。
「俺は呪いだ」
虎杖の呼吸が止まる。
「呪いの王として好きに喰い、好きに壊し、好きに生きてきた。何を奪おうが、何を殺そうが、それを俺は俺の欲として引き受けてきた」
また一歩。
血が滴る。
「だが、お前は違う」
虎杖が首を振る。
「違わない」
「違う」
「違わない!」
「違う!」
初めて、宿儺が怒鳴った。
白い線が一斉に震える。
「貴様は誰も見ていない!」
宿儺の目は、真っ直ぐ虎杖を見ていた。
「苦しむ者も、生きようと足掻く者も、終わりを拒む者も! 貴様は全部見たつもりになって、最後だけ綺麗に並べ替えている!」
「俺は、救いたくて……!」
「その救いを望んでいない者まで、勝手に救うな!」
その言葉が、虎杖に刺さった。
はっきりと、目に見えるほど。
静かな世界の一角が、そこだけ不格好に歪む。
虎杖は苦しそうに息を吸った。
今までで初めてだった。自分の言葉ではなく、相手の言葉に押し返される顔。
「……わかんない」
反論ではなく、本音だった。
「オマエたちの言うこと、わかんないよ」
「だろうな」
宿儺はもう目の前にいる。
「だが、せめて噛み締めろ」
宿儺が狙ったのは喉でも心臓でもなかった。
虎杖悠仁の核。
ずっと内側で温めてきた一点。
少なくとも宿儺だけは、自分のことをわかるはずだ。
その思い込みだけを、斬る。
宿儺の手が虎杖の胸に触れる。
解。
だが肉を裂く角度ではない。もっと内側。理解されたいと願っていた、幼くて薄い芯だけを断ち切るような斬撃だった。
虎杖の瞳が、大きく見開かれる。
音はなかった。
代わりに、静かな世界そのものが、呼吸をやめたみたいに止まる。
次の瞬間、白い線の街がほどけた。
夜風が戻る。遠くのサイレンが戻る。宙に止まっていた看板が遅れて落ち、鉄とコンクリートの砕ける音がなだれ込む。
虎杖の膝が折れる。
宿儺が髪を掴み、それ以上倒れないよう無理やり顔を上げさせた。
虎杖の顔は泣いていなかった。
ただ、心底わからないものを初めて見た子どもみたいな顔をしていた。
「……なんで」
掠れた声だった。
「なんで、オマエが」
「決まっている」
宿儺は見下ろす。
王としてではない。最後までこいつを同類にしない者として。
「俺は呪いだからだ」
虎杖の唇が震える。
「俺は……人間で……」
「ああ」
「人を……」
「そう思っていたのだろうな」
宿儺は静かに言う。
「だが、お前は俺ではない」
虎杖の目が揺れる。
「俺ですらない」
宿儺の声は低く、冷たい。
「化け物でも呪いですらもない。ただの災いだ」
そこで初めて、虎杖の顔が崩れた。
泣くのでも、怒るのでもない。
自分の立っていた足場が急になくなった者の顔だった。
宿儺はそれを見て、愉快とは思わなかった。
ざまあみろでもない。
ようやく届いた、とだけ思った。
ここに至るまでどれだけのものが必要だったのか、考えるだけで胸糞が悪い。いくつもの手を使って、ようやくこの一点へ刃が届いた。
だからこれは、宿儺一人の勝利ではない。
そのこと自体が、さらに気に食わない。
「宿儺……」
虎杖が、消えかける声で呼ぶ。
「俺、間違って……」
言い切れなかった。
それでよかった。
宿儺は、その未完成の問いを断ち切るように最後の斬撃を振るった。
短い。
本当に短い一撃だった。
虎杖の身体から力が抜け、そのまま瓦礫の上へ崩れ落ちる。
倒れたあともしばらく、誰も動かなかった。
冷気の影がようやく膝をつく。刃を失った男は長く息を吐く。光を纏う者は壁にもたれたまま目を閉じる。誰も勝利の顔をしていない。
宿儺だけが立っていた。
血を流し、伏黒の身体に深い傷を刻みながら、それでも立っていた。
沈黙の中、かすかに伏黒の気配が浮く。
宿儺はそれを感じ取り、小さく舌打ちした。
「終わった」
誰に向けたわけでもなく言う。
返事はない。
夜風だけが、倒れた虎杖の髪をわずかに揺らした。
その顔には、最後まで答えはなかった。
けれど、わずかに亀裂だけが残っていた。
自分は正しかったという確信ではなく。
自分は最後まで、誰にも届いていなかったのかもしれないという、ひび。
それだけが残った。
宿儺はそれを見下ろし、ひどく冷めた声で吐き捨てる。
「己が狂気をせいぜい噛み締めろ、小僧」
悪口だった。
弔辞の代わりには、ちょうどよかった。
好評であれば続く、かもしれんな。