進撃の巨人の世界に15m級の無垢(?)の巨人として転生してしまった…… 作:感謝君
第二百四十二話
849年1月22日
マーレ本国の大陸と国境を直接接する、乾燥した土と岩肌がどこまでも続く中東連合の半島──現実の地球で言うところの、シナイ半島に相当する広大な荒野。
吹き抜ける冷たい冬の乾風は、砂埃と共に、鉄と重油、そして人間の汗が入り混じった独特の軍靴の匂いを運んでいた。
数日後、いよいよ中東連合およびそれに賛同する諸外国の同盟軍が、かつて世界を恐怖で支配した超大国マーレに対して正式に宣戦布告を行い、国境を越えて歴史的な総攻撃を開始する。
その一大作戦のために、この半島には縦に一直線に防衛線を張るようにして、実に『百万人』という途方もない規模の兵士たちが、無数の野営テントと陣地を構築して待機していた。
だが、これほどの巨大な軍勢が集結しているというのに、前線基地の空気には、死地に赴く兵士特有の悲壮感や極限の緊張感は薄かった。
むしろ、長すぎる待機期間と「勝利が約束されている」という絶対的な優越感が、兵士たちの間に奇妙な弛緩を生み出していたのである。
これは、とある前哨基地の薄汚れたタープの下で、焚き火を囲みながら言葉を交わす、名も無き兵士たちの会話である。
「……あーあ。いよいよマーレに侵攻かー。……なんか、全然実感湧かねぇなぁ」
中肉中背の、どこにでもいるようなパッとしない若い兵士が、自身の持つ真新しい小銃の機関部をボロ布で乾拭きしながら、大きな欠伸混じりに仲間に話しかけた。
「まぁ、二週間前からずっとこの砂埃の中で『待機、待機』の繰り返しだからな。お前がそう思うのも無理はないさ」
隣で同じように銃の整備をしていた、身長の高い細身の中年兵士が、苦笑しながら若者の言葉に同調する。
「巨人の力が無くなったマーレなんて、牙を抜かれた老犬みたいなもんだ。
……上層部が慎重に包囲網を固める気持ちも分かるが、さっさと国境を越えて、あの傲慢なマーレ人どもの鼻っ柱をへし折ってやりたいぜ」
中年兵士の言葉に、周囲の兵士たちも同調するように笑い声を上げた。
だが、パッとしない若い兵士は、手元の小銃を改めてまじまじと見つめながら、ふと思い出したように素朴な疑問を口にした。
「にしてもよ。ずっと疑問に思ってたことがあるんだが……俺たちに支給されたこの真新しい銃もそうだが、明らかに『マーレの正規軍』が使ってる銃と同じ規格だよな、これ」
若者の指摘通り、中東連合の一般歩兵にまで行き渡っているそれらの武器や弾薬は、かつて彼らが敵として相対してきたマーレ軍の装備と全く同じ構造と刻印を持っていた。
「あー、それな。俺も古参の連中から聞いたんだが……」
中年兵士は、少しだけ声を潜め、焚き火に薪をくべながら得意げに裏事情を語り出した。
「なんでも、マーレの軍内部が今、相当腐りきってるらしい。己の私腹を肥やしたい強欲なマーレの将校どもが、軍の武器庫から大量の兵器や弾薬をコソコソと持ち出して、中立国であるヒィズル国の商人に裏で『横流し』してるって噂だ。
……そのヒィズル国を通して、俺たち中東連合に格安でその武器が大量に流れ着いたって寸法さ」
「へぇーっ!」 若き兵士が、呆れたように目を丸くする。
「腐敗したマーレの将校と、金に目がねぇヒィズルの商人の、妙な連携プレイってわけだ。
……敵国である俺たちに武器を売って金儲けしてるなんて、マーレの軍部も地に堕ちたもんだな」
それは、キヨミ・アズマビトとヴィリー・タイバーの密約によって実行された『マーレの武装解除と中東連合への軍事支援』という、恐るべき盤面操作の裏側であった。
だが、そんな大国のトップ同士の悪魔的な謀略など知る由もない末端の兵士たちは、ただ目の前の事実だけを受け取り、無邪気に嘲笑った。
「うわぁー、酷ぇ話だ! マーレって国は、内側からそんなに腐ってやがったのか!」
パッとしない兵士が、膝を叩いて快活な笑い声を上げた。
「こりゃあ、開戦してもすぐ決着がつきそうだな! 武器を売ってくれたマーレの腐敗将校様々だぜ! ハッハッハッ!」
タープの下に、気楽で安直な笑い声が響き渡る。
彼らの頭の中には、すでにマーレの首都に凱旋し、勝利の美酒に酔いしれる自分たちの姿しか描かれていなかった。
そんな、弛緩しきった平和な空気が流れていた、その時だった。
ザワザワ…… ザワザワザワッ……!!!
不意に。 遠くの司令部テントの方角から、まるで蜂の巣をつついたような、異様で不穏な騒めきが波のように押し寄せてきた。
「ん?……なんだ?」
パッとしない兵士が、銃の整備の手を止め、怪訝な顔をして騒ぎの方角へと首を向けた。
最初は小さなさざ波のようだったその騒動は、秒を追うごとに怒号と悲鳴の入り交じった狂乱へと変わり、瞬く間にこの前哨基地全体へと伝播してきた。
血相を変えて走ってくる伝令兵。 頭を抱えて座り込む将校たち。
「おい、どうした! 何があったんだ!?」
中年兵士が、通りかかった別の隊の兵士の腕を掴んで問い詰めた。 腕を掴まれた兵士は、完全に目の焦点が合っておらず、ガチガチと歯の根を鳴らしながら、信じられない言葉を叫んだ。
「ま、マーレが……! マーレが、無条件降伏した!!!」
「……は? 降伏? 俺たちがまだ攻め入ってもいないのにか!?」
「違う!! 降伏先は、俺たち中東連合じゃないんだ!!!」
兵士は、恐怖で引き攣った顔で、天を仰ぐようにして絶叫した。
「マーレの奴ら……『新エルディア帝国』とかいう、聞いた事もない国に対して、全面的な無条件降伏を宣言しやがったんだ!!!」
──────ドクンッ
その言葉を聞いた瞬間、タープの下にいた全員の心臓が、嫌な音を立てて大きく跳ね上がった。
青天の霹靂の如く、唐突に最前線に叩きつけられた『マーレの無条件降伏』という知らせ。
それを皮切りに、前哨基地では瞬く間にどよめきと混乱の波が爆発的に広がっていった。
「し、新エルディア帝国……!?」 「なんだそれは!? どこの大国だ!?」 「いや、待て……『エルディア』……って事は、まさか……!?」
歴史の授業で誰もが耳にしたことのある、忌まわしき悪魔の帝国の名。
その単語の響きが、兵士たちの脳髄の奥底に眠る原初的な恐怖をジワリと刺激し始めた、その時だった。
「──────全員聞けぇぇぇぇええ!!!!!!」
拡声器を通した、現場指揮官の切羽詰まった怒号が、基地全体に木霊した。
指揮官が立つ急造の演壇。 そこに立つ彼の顔面は、土気色を通り越して完全に蒼白しきっており、真冬だというのに、その額と顎からは滝のような冷や汗がポタポタと流れ落ちていた。
「通達する!! ……昨日! マーレ政府が、全世界に向けて大々的に、『新エルディア帝国』に対する完全なる無条件降伏を宣言した!!!」
指揮官の声が、震えている。
「現在、我が軍の上層部を含め、中東連合の中枢でも、その件についての事実確認と情報収集に追われている!! !
……それに伴って、数日後に予定されていた我々のマーレへの侵攻作戦は、無期限の中止!!! 繰り返す!! マーレへの侵攻は、中止になった!!!」
「「「…………………………」」」
絶対的な静寂が、広大な前哨基地を完全に支配した。 風の音すら消え失せたかのような、真空の沈黙。
兵士たちの脳内は、そのあまりにも非現実的で、脈絡のない情報量の暴力によって完全にフリーズしていた。
彼らは、まだ実感できていない。 世界を恐怖で支配してきたあのマーレが、一発の銃弾も交えることなく、謎の新興国家に対して無条件降伏をしたという事実を。
その新興国家の名が、かつて世界を蹂躙した悪魔の国と同じ、『エルディア帝国』という極めて不穏な名称であるという事実を。
中東連合の上層部でさえも、この突然の出来事を全く予測できておらず、完全に事態を収拾しきれずに混乱の極みにあるという事実を。
そして、自分たちが何ヶ月も準備してきた戦争が、戦う対象が突如として消滅したことによって、戦う前に中止になってしまったという事実を。
皆が一様に、目に深い影を落とし、銃を持ったまま石像のように固まり、完全な困惑の中で思考を停止させていた。
数十秒の沈黙の後。 凍りついた水面が割れるように、ポツリ、ポツリと、兵士たちの口からうわ言のような疑問が零れ落ち始めた。
「な、何だ? 一体、何が起きたんだ……?」 「マーレが、無条件降伏……?」 「エルディア……って言ったか? エルディア人って、あの収容区にいる悪魔の末裔どもだろう……?」 「マーレが、自分たちが奴隷として扱っていたエルディア人に降伏したって事か……?」 「いや、おかしいだろ! あの大国マーレを、戦わずして無条件降伏にまで追い詰める武力なんて、この世界のどこに……」 「お……おい……」
その時。 青ざめた顔の中年兵士が、ガチガチと歯の根を鳴らしながら、誰もが心の奥底で無意識に避けようとしていた『最悪の可能性』を、震える声で口にしてしまった。
「まさか、マーレの奴ら……」
周囲の兵士たちが、一斉に彼の方を向く。
「……あの海を隔てた島にいる……
──────パラディ島の悪魔共を、呼び起こしてしまったんじゃないのか!?」
その一言。 たったそれだけの、根拠のない、恐怖から生み出された絶望的な推論。
だが、それは、世界中の人類の遺伝子に深く刻み込まれた、あの島が持つ最大の切り札──超大型巨人の群れによる世界滅亡の恐怖を想起させるには、十分すぎる劇薬であった。
「「「─────────ッ!!!!!」」」
数秒の空白。 兵士たちの脳内で、パラディ島の悪魔が幾千万の巨人を率いて、自分たちを踏み潰しに向かってくるという幻想が、鮮明な現実のビジョンとなって弾け飛んだ。
「う、うわぁぁぁぁぁあああ!!!」 「俺は逃げる!! 無理だ! 悪魔と戦うなんて、絶対に無理だ!!!」 「俺たちも巻き込まれるぞ!! 巨人が海を渡ってやってくる!!!」 「どけっ!! 邪魔だ!! 通せェェェッ!!!」
その場は、一気に歯止めが利かない完全な『恐慌状態』へと陥った。
先程までマーレの腐敗を鼻で笑い、勝利を確信して弛緩していた兵士たちは、武器を投げ捨て、食料を奪い合い、己の命だけを惜しんで我先にと背後へ向かって逃げ出し始めた。
「落ち着け! 陣形を崩すな! 戻れ、貴様ら!!」
指揮官たちが必死に怒号を上げ、空に向けて威嚇発砲を行うが、何の効果もなかった。
未知の恐怖に侵された人間の群れは、いかなる軍規も理屈も通用しない、ただの暴徒と化していた。
「マーレのクソッタレがぁぁぁあ!!! 保身のために、世界を売ったんだ!!」 「終わりだ! もう世界は終わりだァァァ!!!」
恐怖が恐怖を呼び、パニックが隣の陣地へ、また隣の陣地へと、恐ろしい速度で連鎖していく。
至る所で暴動が起き、逃げ惑う兵士同士での暴力沙汰や、軍事物資の略奪が横行し、現場はなし崩し的に完全なカオスと化していった。
シナイ半島に構築された、百万人規模の強固な前線基地。
それは、マーレ軍の銃弾をたった一発も浴びることなく。
新エルディア帝国という『見えない強大な力』の存在と、そこから生み出された根源的な恐怖の前に、たった一日のうちに内部から完全に自壊した。
前線の至る所で指揮系統が崩壊し、戦うことすらなくして前線は文字通り霧散した。
夕暮れの荒野を、祖国の中東連合内部へ向けて逃げ帰るように雪崩れ込む、百万人単位の逃亡兵の波。
エルヴィン・スミスが遠く離れたパラディ島の執務室で描いた、一切の血を流さずに世界の軍事力を無力化させる悪魔の盤面操作は。
この日、中東連合の完全なる自滅という形で、完璧に証明されたのであった。