「ねぇ、知ってる? 柘榴の実って、人間の味がするんだよ」
世田谷真琴さんとお付き合いすることになって二日が過ぎた。真琴さんとは同じクラスで、二年生が始まってすぐに、熊本の高校から転校してきた。どこか影のある雰囲気の、怪しい転校生といった感じで、口数は少なく、休み時間は決まって窓際の席に座り、文庫本を広げ見ていた。書店で貰える紙製のブックカバーをつけていたから、なにを読んでいるのか分からなかった。そもそも、本を読んでいるのかも怪しかった。なぜなら彼女の視線は、どこか遠くを物憂げに見つめているようで、それは決して文字を追う目の流れではなかったからだ。だからわたしは、文庫本を広げている彼女の後ろに立って、
「何を読んでいるの」と尋ねてみると、彼女はこちらを振り返り、
「小説」
「んー、何の小説? 太宰?」
「……」
彼女はブックカバーを外して私に表紙を見せてくれた。
その様は、私なんかが触れてはいけない宝石のように浮世離れして、とてもとても美しかった。
はじめて好きだと告白したとき、真琴さんは嬉しそうな笑顔を見せた。
よろしくねと呟くように云い、真琴さんはなめらかな細い腕をすっ、と伸ばした。私は恐々とそのうつくしい手を両の手で握った。とにかく全身全霊の愛の告白が上手くいったことへの安堵と、言い様のない恥ずかしさで私は俯いて、大好きな真琴さんの顔を見ることが出来なかった。真琴さんは空いたもう一方のうつくしい手で、猫を撫ぜるように私の頭をなでなでした。
付き合ってから一日目は、放課後、野球部の練習を眺め、一緒に錆びた水色のベンチに座って午後ティーを飲んだ。二日目は真琴さんが所用で名古屋に行かなければならないらしく、学校が終わるとすぐに別れた。その晩私は悲しくて枕を濡らした。次の日の朝、玄関のドアを開けると制服姿の真琴さんが立っていて、お土産のういろうをいただいた。
「さみしかったです」
「ごめんね。急だったものだから」
「今日は、一日ずっと会えるのですか?」
「そうだよ。今日はいいこと、教えてあげるからね」そう云われた私はわくわくしながら真琴さんと一緒に学校へと向かった。学校の靴置き場でさよならをすると、終業のチャイムが鳴るまで真琴さんのことを考えて過ごしていた。それから誰よりもはやく教室を出て、靴置き場で室内履きとローファーを履き替えると、グラウンドを一直線に駆け抜けて校門の影に身を隠し、ちらちらと校舎の出入口を覗き込んでいた。十分くらい待機していると、真琴さんが二人の学友と一緒に歩いているのが見えた。真琴さんは私を見つけると、静かに微笑んだ。それから彼女は、ばいばいと手を振り連れ添っていた学友たちと別れると、こちらに向かって小走りでやって来た。
真琴さんの肩越しに学友の顔をそっと窺い見ると、二人とも呆れたような表情をしている。ちなみに私は、真琴さんを教祖的な何かと勘違いして狂信的に崇拝するヤバい後輩ということになっている。なぜなら同性同士の恋愛感情は、学校という社会性を帯びた共同体のみならず、私生活にも多大な影響を及ぼすのだと、真琴さんが哀しく語っていたからだ。私としては、公然と手を繋いだり、ゆくゆくはあんなことやこんなことをして、お似合いのカップルだねー。なんて周りから言われてみたいものだけれど、それは私たちが高校を卒業するまで待ったほうが賢明だというのが、真琴さんの見解であった。
「ごめんね、待ったでしょう」
「いいえ全然、いま来たところです」
普通にバレる嘘をつき、それより今日はどうしましょう、どこに行きましょう。いいことって、なんですか。ぴょんぴょんと跳ねながら、私は真琴さんの袖を掴んだ。
お寺に行こうと真琴さんは告げた。そこは学校の裏手にある寺で、いままで前を通り過ぎたことはあっても、中に入ったことはなかった場所だった。学校の回りを半周するように、ふたり並んでしばらく歩くと、屋根のある二階建ての門が見えてきた。石段を数段上り、門の入り口から中を覗き見る。地面は砂利石が隙間なく敷き詰められ、綺麗に組まれた石畳が、本堂に向かってまっすぐ伸びていた。手入れの行き届いた境内は、秋だというのに一枚の落ち葉すら見当たらない。
辺りを見渡す。誰もいないみたいだ。
こんな所に来て、いったいなにをしようというのか。少し心配になって真琴さんを見ると、彼女は私を一瞥して目を細め、ちいさく手招きした。その見透かしたような瞳が、たまらなく私をぞくぞくさせた。私は黙って彼女の後を付いていくことにした。冷たい白壁の隅を伝って歩いていくと、壁際の端、忘れられたように、一本の古ぼけた木があった。まるで腰の曲がった老人が、爪先に丸い玉をひっかけたように、枝の先にひとつ、赤黒い実がぶら下がっていた。
果実は私たちの背丈よりも幾分高いところにあり、到底手は届きそうにもない。真琴さんは果実を見上げながら「四つん這いになって」と云った。
云われるままに私は、左右の手と両膝を地面につけた。膝頭が砂を踏んで痛い。首を下に曲げると視界は反転し、真琴さんの白く細い足が見えた。端から見れば完全服従下僕のポーズ。
少し気恥ずかしい。
真琴さんはローファーを脱ぎ、片足を私の背の真ん中に押し立てるようにして乗せる。それから、もう片方の足を乗せると同時に、ずしっと体重がかかり、私の口から思わずちいさな苦しみの声が漏れ出る。
私の背の上で、真琴さんが爪先立ちになるのが分かった。変な汗がぽとり、地面に落ちた。
そろそろ両手がぶるぶる限界です。というところで、ふっと身体が軽くなる。視界の端で、真琴さんがローファーに爪先を入れているのが見えた。解放され、立ち上がり、いててと腰に手をあてて、ちいさく伸びをしていると、目の前にずい、と丸くて黒い球体を差し出された。
「ほら、取れたから。柘榴」
真琴さんが見せてくれたそれは、よく見ると淀んだ赤茶色で、表面はごつごつしてて、先端の突起部分から四方にぱっくり裂け、中の赤くて粒々したものが見えた。グロいですねと私が素直に感想を伝えると、はにかんだ様子で彼女はそれを鼻先に近づけ、すんと匂いを嗅いでみせた。
「じゃあ食べようか」
「ここで、ですか」
「ダメだよ。見つかったら怒られちゃう。公園に行こうよ。近くにあるんだ」
自然な動作で真琴さんは私の手を握った。
私はどきどきした。
住宅街を抜け、街の目抜通りに出ると、赤く色づいたナナカマドの木が、道路を挟み込むようにずらりと並んで植えられていて、それは道伝いにどこまでも続いているように思えた。鮮やかな赤い葉がざわざわ揺れる下を、私たちは手を繋いで歩いた。指と指を絡めたり、強く握ってみたり、軽くつねってみたり。手を握っているだけで心が弾んだ。幸せだった。私は嬉しすぎて軽くステップを踏む。でも同時に、だれかに見られているのではないかというちいさな不安も感じていた。
かつては国営の林業試験場だったこの公園は、木と木の間隔が狭く、さまざまな種類の木が植えられていた。ふと見ると、暗い緑の葉を繁らせ、小さなぽんぽんのような朱色の花を咲かせた木があった。指さして真琴さんに聞くと、あれは藪椿だよと教えてくれた。
公園の入り口のすぐ傍に掠れた看板があった。それは本来なら、トイレや休憩所が一目で分かるようになっているのだが、長い月日で表面は白く色褪せ、どこになにがあるのか、ほとんど分からない有り様になっていた。ただ唯一、公園内のウォーキングコースだけは、赤いラインで示されているのが分かった。
「行こ」と云って真琴さんは、私の手を引いた。
「あの」私は立ち止まる。
「いいんですか? 誰かに見られたら、その」もごもごと口ごもる。なんて云ったらよいのか、うまく言葉が見つからなかった。口走った言葉が彼女を傷つけてしまうことを恐れた。
「私のこと、好き?」
「はい」
「なら、いいじゃん」
ぐい、強く握りしめられた。私たちは看板の横を抜け、林の中に入って行った。遊歩道は固く舗装されていたが、その上から降り積もった落ち葉でほとんど隠れてしまっており、押し踏まれたところだけ、人工的な灰色の道が細々と奥まで延びていた。周りの木々は赤や黄色に色づき、その隙間を埋めるように仄見える緑葉とのコントラストがたまらなく綺麗だった。
秋の澄んだ透明な光が枝葉の隙間や葉身を抜け、薄いレース生地が風でなびくようにゆらゆら揺れながら、林じゅうをあかるく満たしている。時折、びゅうと木々を抜けて吹く風が、顔や手にあたって心地が良かった。風で揺れるたびに紅葉した葉が、くるくると宙を舞って落ちてきた。わりと乾いた落葉を踏む。小枝がぱきりと鳴る。
私の手を引きながら前を行く真琴さんのスカートの端が、ひらひらと揺れている。私は繋がれた手に視線を移す。もしかしたら真琴さんは、私が困惑していることを楽しんでいるのかもしれない。ふとそんな考えが頭をよぎる。いままで、ただ遠くから眺めていただけの美しく憧れの存在との距離が、急に現実味を帯びて接近してきた。だから私は、まだ外側しか彼女のことを知らない。彼女がどんな内側を秘めているのかは、これから知ることになるのだろう。
ふいに真琴さんは立ち止まり、ちらと辺りを見渡すと、舗装された道から逸れて、細い木々の間を通り抜けた。私は驚いて声を掛けたが、前を行く真琴さんは、なにも答えずにただ黙って先へ進んで行く。
遊歩道と地面との境目は、落ち葉や枯葉ではっきりせず、一見すると段差がないように思われたが、地面に一歩足を降ろすと、敷き詰められた落ち葉の中を踏み抜くように、ずぼりと足首まで落ち葉に埋まってしまった。まるで浅瀬をざぶざふ歩くように、私たちは赤黄色に染まる落葉の海を進んだ。やがて緩かな下り坂になり、すこし行くと平地に戻り、枯れた蔦の絡まる灌木の茂みを抜けると、一気に視界が開けた。そこは細長い窪地になっていて、色褪せた芝草が一面に生えていた。一段高い位置から、木々の群れが私たちを見下ろすように取り囲み、先ほどまで歩いていた遊歩道は生い茂る枝葉に隠れ、こちらからはまったく見えなくなっていた。
窪地の裾の方に、ぽつんと一本の銀杏の木が立ち、その根元は、ぐるりと丸い絨毯が敷かれたように黄色く染まっていた。私たちは銀杏の木に近づき、根元に腰をおろした。幹に触れてみる。ごつごつしていて、ひんやりと冷たい。隣を見ると、真琴さんは幹から伸びる長い枝葉を、穏やかな瞳で見つめていた。見上げるその美しい横顔に、つい見惚れてしまう。つめたい秋の風が、彼女の長くて艶めく黒髪をぱらりと払う。細い髪の毛が数本、端正な顔にかかる。黄色い扇のかたちをした葉が、ゆっくりと不規則な動きで、ひらっひらと落下してゆく。
真琴さんは博識だ。私の周りの大人たちよりも多くのことを知っている。彼女といると、世界が広がってゆくのを感じていた。まだ見ぬ未知を教えてくれる彼女を尊敬していたし、心から愛していた。
そんな彼女が云うには、柘榴の実は人間の味がするそうだ。
もちろん私は人の身体を食べたことなんてないから、これが人間の味だ。と云われても正直わからないのだけど。人肉って、生ハムみたいな味なのかしら。そういえばキュウリに蜂蜜をかけるとメロンの味がするらしい。
ちなみに私はメロンを知らない。もちろんメロンの存在は知ってはいるけれど、口にしたことはない。あと生ハムも。そんなどうでもいいことをなんとなく、思う。
「君は本当に何も知らないねぇ。でも、いいよ。すごくいい。これから、私がいっぱいいろんなこと、教えてあげるから」
私はこくん、と頷く。期待と不安が入り交じったような変な気分だ。おしっこを我慢しながら授業を受けるような、尿意はないのに、なんだか気持ちが高ぶって、胸に手をあててみる。心臓がどくどくと激しく脈を打っている。
真琴さんは両手で柘榴の実を包み込み、ゆっくり力を入れる。痛々しい傷口を押し広げるように、赤々とした果肉が覗く先端部分からふたつに裂け、ぐぢゃぐぢゃの果肉があらわになる。赤黒いゼリー状の粒々が、車に轢かれて崩れた猫の、割れた頭を思わせた。真っ赤な果汁が左の親指についている。真琴さんはそれに気づいてぺろり、と指先を舐めた。視線が合う。
「食べてみる? うん。口移し、したげる。ほら、お口を開けて? ふふ、喉の奥までよく見えるよ。てらてらして、やらしいね」
生まれてはじめてのキスが真琴さんだなんて、私はしあわせ者だなぁ。そんなことをぼんやりと考える。
目の前の真琴さんが柘榴を一口噛る。しゃく。
怖さと恥ずかしさを感じ、思わず固く目を閉じる。視界が黒く塞がれると、音や匂いに鋭敏になる。どこかで葉の落ちる音が聞こえ、目の前にいるであろう真琴さんからは、微かにりんごのような香りが鼻先をかすめた。
ふたつの手が左右の肩に触れる。思わずびくっと、肩が動く。冷えた闇のなかで、真琴さんが笑っているのが見えた。甘い息づかいが聞こえ、それから柔らかな口唇が私の口を優しく塞ぎ、舌で押し出すように柘榴の実が入ってきた。私の口内に粒々した実が押し込まれると、真琴さんの濡れた舌先が私のそれに触れ、やらしく絡み付いてきた。ぺちゃぺちゃと卑猥な音が耳に聞こえてくる。骨にこびりついた肉を舐めとる獣のように、私の内側を貪る真琴さんのねっとりした赤い舌がぬるぬると動きまわり、動くたびに私の内側からどろどろした唾液が出てきて、果汁の酸っぱさと混じり合い、口の中で溢れた。
あったかい。
眼をそっと開けると、真琴さんの弛んだ瞳が私を捉えていた。私と真琴さんが繋がっている。それだけでしあわせで、気持ちがよくて、頭の中からとろとろに溶けてしまいそうだった。私は引き返せないほどの快楽にずぶずぶ身を任せた。ずっとこうしていられたなら、どれだけ幸福なのだろう。けれども真琴さんは唐突に、噛み潰した柘榴を私のだらしなく開いた口中に残し、唇と舌を放した。だらりと唾液が糸を引く。ああ、もっともっと下さいと真琴さんに目で訴えかけるが、彼女はいじらしいものを見るかのような目でこちらを見て、目尻を下げた。
私の身体は芯から力が抜け、それでいて焼けるように熱かった。胸の鼓動が頭の中で響き渡り、呼吸も儘ならない状態で、発情した犬のように彼女を求めた。あぁ、真琴さん。真琴さん真琴さん真琴さん。口の端からとろりと甘い唾液が、黄色い銀杏の葉の上に垂れ落ちた。
「食べて」真琴さんの声が聞こえてきた。
ぼんやりとした頭で、力なく顎を動かす。咀嚼するほどぷち、ぷちと弾ける。じわりと染み出した酸味のある汁が、口いっぱいに広がった。
「どう?」
すっぱいと正直に云うと、真琴さんは口に手をあて微笑んだ。
そのとき、真琴さんの口端が赤く染まっていることに気がつく。「真琴さん。赤いの、ついていますよ」そう云うと、彼女はぺろりと赤い舌でそれを舐め取る。口角を微かに上げ、ちいさな笑みをこぼす。
彼女は、私の名前を呼ぶ。
「柘榴は人の味がするというのは、日本で作られた俗説なの」はあ、私はとろけた頭で気の抜けた返事を返すと、口腔に溜まった真琴さんと私の、ぐちょぐちょに混じりあった唾液をごくん、と呑み込んだ。それは媚薬のように身体の深くまで染み込み、痺れるような快楽の疼きが全身に広がっていく。口から恍惚の喘ぎが漏れ出る。私は再び真琴さんを求めた。
「鬼子母神は、かつて大勢の子どもを拐って食い殺した鬼女だったんだけど、改心してお釈迦様からの教えをしっかり守り、立派な神様となったの。いまでは子宝や安産の神として、各地で祀られているんだよ」
激しい動悸が止まらない。目の前で喋る真琴さんの声が遠くに聞こえる。
「その際に、お釈迦様が彼女に手渡したのが、柘榴の実。本当は、柘榴のちいさな粒々の実ひとつひとつに命が宿っているように、貴女が殺してしまった沢山の子供たちのことを忘れないで、という意味だから……」
ああ真琴さん。そんなことはもう、どうでもよいのです。身体が火照って熱いのです。どうにかなってしまいそうなのです。
「私は彼女が人間を食べたくなったとき、握りしめた柘榴を見て必死に衝動を抑えていたかと思うと、堪らなくなるの」
ごめんなさいもう無理です。助けてください真琴さん好きです好き好き。
「私は彼女のようには、なれない」
そう云いながら真琴さんは、潤んだ瞳で私を見つめ、顎を引き上げ、再び私の唇を奪うと、そのまま身体をゆっくりと押し倒した。私の身体は落ち葉を押し潰す。すぐ傍らで柔らかな枯れ草と、乾いた土の匂いがした。真琴さんの髪が、私の頬をさらさら撫でた。おでことおでこがぶつかるほどの近さで、鼻と鼻とが擦れ合っている。吐き合う熱い息と、べとべとした汗で互いの顔を湿らせる。
興奮のためか、真琴さんの額に前髪が張り付いている。顔は紅潮し、吐息は荒く、口からだらりと卑猥な涎を垂らしながら、開いた瞳孔で私を見つめている。
まるで鬼のようだ。
私は真琴さんの後ろに、水色のペンキで塗りたくったような、きれいな青空を見た。