『愛着の魔法』   作:ヤン・デ・レェ

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平和な時代の魔法使い(完結)

ここに山河あり。

 

国もあり、関もあり、人もあり。

 

死より免れたわけでもなし、諍いから免れたわけでもなし、恨みから免れたわけでもなし。

 

ただ、大事は無事なり。

 

国境がなくなることはなく、而して、国境が変わることもなく。

 

大陸は静かだった。

 

ただ、静かだった。

 

人が人を殺すことはあるが、国と国とが殺しあうことは久しく。

 

変わり映えのない、至って平穏な時代が、かれこれ千年余りも続いていた。

 

魔族とほかの人類との対立は、賢き子供たちの手で、また、成長し『王』と称されるまでに至ったハンノキの子供が先頭に立ち、これを収拾した。

 

その道のりは平坦とは言い得ず、また、人間からの理解を得ることにも困難が伴った。

 

だが、それでも地道に、時に懐柔し、時に苛烈にも制圧して、魔族という種族の枠組みを少しずつ組みなおしていった。

 

そして、最終的には魔族と言う、この強力な個人主義の生き物を、ハンノキの子供が頂点に立つことで、一つのまとまりのある集団へと束ね上げることに成功した。

 

ハンノキの子供は、俗に『魔王』と呼ばれるようになり、当代において殊更に大きな功績を残した賢き子供たちには、それぞれが峻嶮な山脈深くに隠れ里を構えたことから『七峰賢』の美名が贈られた。

 

魔族に対する苛烈な弾圧と厳格な統制を、他ならぬ魔族が執ったことは、人類にとっては非常に大きな衝撃を与えた。

 

当初、人類は魔族による統一国家の誕生を恐れ、この集団の基礎が整うより早く撃滅すべきであるという主張が甚だしく議論された。

 

とはいえ、結果的には人類側の足取りが十分に揃うよりも先に、魔族の統制の為に『女神の代行者』の異名をとるヴァイターが現地入りしてしまい、これに大魔法使いとして一部においては名の知られたゼーリエも伴ったことで、人類諸国家は様子見に徹することと相成った。

 

不気味な沈黙がしばらく続き、ヴァイターとゼーリエが神殿に帰還したのはそれから数十年後のことであった。

 

二人の帰還後、魔族は特定の領域を持たぬままに建国を宣言し、ハンノキの子供が『魔王』としてこれを統治することを内外に宣言した。

 

『七峰賢』は特定の七人の称号とされ、任命された彼らを除く『賢き子供たち』は正式に魔族の国を離脱した。

 

その後、『賢き子供たち』は主にクヴァールにより統率され、彼らは人間にも魔族にも与することのない調停者として、神殿のヴァイターに恭順する第三者勢力として自己の立ち位置を明確に表明した。

 

しかし、この段階では未だ、単なる枠組みだけが成立したのみであり、何らの実績もなく、また人類にとってはいずれも信頼に値しない存在だったことは言うまでもない。

 

『賢き子供たち』に関して言えば、彼らの穏健な姿勢には神殿で培った実績もあるため、また、彼らを認めるヴァイターへの絶大な信用もあって、人類諸勢力からは表面的にでも歓迎が表明された。

 

対して、『魔王』と『七峰賢』により統制される魔族の共同体に関して言えば、人類側からの接触は皆無であり、同様に魔族の側からの接触も無い状態がしばらく継続した。

 

問題が発生したのは数十年後のことであり、この頃には魔族を見たことがない人間の方が遥かに多くを占めるなど、徐々にだが状況を動かす当事者の入れ替わりが進んでいた。

 

この頃に、人間と魔族による小規模の紛争が起こったようである。

 

そもそもは、魔族が住み着いていた人里離れた隠れ里の近辺で、鉱物資源が産出されることを山師が発見したことで、この地域に隣接する人類の国家同士が互いの領有権を主張したことが発端であった。

 

協議を続けるものの、当事者同士では利害関係が複雑化し、纏まる気配がなかったがために、痺れを切らした片方が実効支配の為に騎士団を派遣したようである。

 

片方による実力行使により、もう片方も我慢するのは終わりだとばかりに騎士団を派遣し、彼らは互いに行為をより大胆に、より大規模に、より過激なものへと変えていくこととなった。

 

最初は槍合わせをせずに、単なる対陣だったものが、次第により直接的な示威行為へと変わり、遂には権利関係が決まらないうちに採掘を始めてしまったのである。

 

入植からの採掘へ踏み切ったのを見て、我慢の限界を迎えた片方が攻撃を開始し、一時的にも全域を実効支配したかに見えたが、間もなく増援が到来したことで反撃に遭い後退、結局は初期配置へと双方が圧し戻された。

 

嫌がらせが本格的な紛争へと変わることは時間の問題であった為、彼らは周辺を新たな国境として設定するべく要塞化に着手したのだが…この際、魔族の集落を発見し、道理を知らぬ者が立ち退きを要求したことで事態は急展開を迎えることとなる。

 

立ち退きを要求された魔族側は答えを留保し、伝令が神殿に送られたのである。

 

魔族側の対応は淡白なものであり、気が立っていた双方の満足がいくものではなかったが、一応は魔族の恐ろしさを人類側も認識しており、人間と魔族とによる衝突は起こらなかった。

 

それから数日間、魔族は留保の姿勢を崩さず、いよいよ人類側が腹を括って魔族との対決に踏み込もうかという矢先に、神殿からの調停の使者が到着したのである。

 

現れたのは魔族の外見をした者だったが、彼らは神殿に所属していることを、ヴァイターの魔法が込められた各々の装飾品を通して証明することができた。

 

事実上、魔族と人類との諍いを調停することになったのはこの機会が初めてだったが、この数十年間で既に、神殿の使者による調停の実績は百件近く積まれていたため、使者が到着して以後、懸念されたことは魔族が調停の結果に素直に承服するかの如何であった。

 

果たして、人類側の懸念は杞憂として終わる。

 

調停の使者により裁定された内容は次の通りであった。

 

一つ、紛争地域は人類側が共同で管理すること。

 

一つ、採掘された資源は神殿の調停者の監察下に置かれ、産出量を均等に分配すること。

 

一つ、双方の領内に魔族のための移住先を確保すること。

 

一つ、魔族の移住に掛かる家財の補填を含む全費用および、生活基盤構築までの補償を滞りなく行うこと。

 

一つ、上記の条件が満たされない場合は再度、実力行使以前の段階で調停を行うこと。

 

調停が締結後、魔族は特段の不満もなく、神殿側の意向に従容と順じた。

 

紛争地を獲得した人間側も、神殿の意向に逆らうことはなく、些細な不満足はあったとしても、調停の内容を順守した。

 

世間にとって、この出来事は大きな意味を持っていた。

 

というのも、狂暴かつ対話不可能であると考えられてきた魔族の穏健な姿勢からは、神殿の調停が魔族に対しても効力を発揮することが明らかなこととして示されたのだから。

 

果たしてこの時から神殿は、調停者として、また公正な第三者として、大陸の秩序を穏健に維持するうえでは欠かすことのできない、信頼のおける中立的国際機関として認識されるようになっていくのである。

 

 

 

 

 

 

 

ヴァイターは魔法使いだが、今までのところ、弟子らしい弟子は私以外に居なかったように思う。

 

彼は平和な時代の魔法使いで、何事もない時にこそ求められる魔法を好む人だったから。

 

攻撃的な魔法に関しても磨きをかけた私と比べて、あの人がその手の魔法を使っている場面は未だかつて見たことも、聞いたこともなかった。

 

ヴァイターはよく言うのだ。

 

「僕が必要とされなくなった時が、本当の意味での平和なのだ」と。

 

今のところ、世界の平穏を維持しているのは何かにつけてもヴァイターへの信頼だろう。

 

世間で起こる諍いに対して、神殿に仕える賢者どもが調停者として堂々と介入できるのは、他ならぬヴァイターへの信用があればこそだ。

 

彼の築いてきた信頼関係と、彼が齎す魔法の利潤とが、人々に対して調停者の公正さを印象付け、また、調停による解決こそがより好い結果を導いてくれるのだと納得させる理由になっている。

 

そのことに、議論の余地はない。

 

未だに、人々にとっての魔族は恐怖の対象でしかない。

 

そして、この印象自体を変えることに、ヴァイターも賢者らも積極的ではないのだ。

 

そもそも、共存とはどのような形をとるのだろうか、という疑問があった。

 

誰もひな形を見いだせていないのだ。

 

人間と家畜の関係性を見て、或いは人間と山野の獣との関係性を見て、これらを共存関係と呼んでいいものだろうか。

 

もし、共存を謳う者たちの言う共存が、人間と魔族が同じものを食べ、同じものを楽しむ関係性だとすれば、それは何れかに対して無理を強いる結果を導くものだろう。

 

そして、そこまでして全ての人類と全ての魔族に対して、一部の人々が望む共存という名の大義の為に、それぞれの自由を制限する権利など誰にも与えられていないのではないだろうか。

 

ヴァイターも、賢者たちも魔族が人間を食べることに対しては然したる違和感を抱いていないのだ。

 

その行為自体には、食文化なり、或いは本能的な部分での渇望が関わってくるのではないかと、そのように考えているのだ。

 

そして、渇望という程度であれば、ヴァイターがどうにかできる範疇だからこそ、私と彼は数十年かけて大陸中の魔族に対して、ある魔法を掛け続けた訳だ。

 

私たちが人間の勢力圏に帰ることもなく、変えることもせずに、数十年の時を魔族と共に過ごしたのは、魔族が人間に対して抱える、空腹とは無関係の飢えを鎮めるための『衝動を抑える魔法』を掛けるためだった。

 

この手の魔法に関して言えば、ヴァイターの発案だと思うかもしれないが、この魔法を生み出したのは私だった。

 

彼の『幸福の魔法』が私から野心というものを奪ったのは記憶に新しいが、そもそもヴァイターは私にこの魔法を使えるようになって欲しかったわけで。

 

私は素直にこの課題に取り組んできたのだが…生憎と、この魔法以外のすべての魔法において他の追随を許さないという自負はあるものの、この魔法だけは一人前に扱うことすら出来ていなかった。

 

私にとっては、単なる失敗ではなく、文字通り生涯を掛けた永い道のりなのだから、今、出来なくても問題はなかった。

 

しかし、私もすべてが暗中模索というわけではなく、少しずつだが今までの研究の成果としてわかってきたことも少なくなかった。

 

その研究の副産物として生まれたのが、何を隠そうこの魔法だった。

 

無論、初めから魔族の衝動を封じるために編み出したわけではなかったから、私とヴァイターで実際に使いながら、種族全体に効き目のあるものへと最適化していったのだ。

 

ただ、一つだけ誤算があったとすれば、ヴァイターは私と同じ魔法を使っているように見えても、実際のところは『幸福の魔法』の劣化版のようなものを使用していたように見受けられたことだろう。

 

それは、結果的に魔族を、私や、賢者どもに同じく、骨抜きにする所業だったと言える。

 

とはいえ、これで種族間の破滅的な闘争が回避されるのであれば、ヴァイターにとってはこれ以上に望ましいこともない。

 

彼にとって望ましいのならば、それは私にとっても望ましいことだ。

 

ただ…この魔法は衝動を抑えることはあっても、個別の魔族の性格を変えることもなければ、人間に対して人間が野生動物に対して向けるものと同質の眼差しを投げ掛けることを変えるものでもない。

 

私の魔法が変えたことは、魔族にとって人間という存在が、いよいよ不必要なものとして、無関心の的として見做されるようになった程度のことだろう。

 

魔族は人間を害することに意味を見出さず、かといって人間に与することにも意味を見出さなくなるだろう。

 

共存を夢見ていた者たちにとっては、堪えがたいことであるかもしれないが…いずれにせよ、人間が無法を働かない限りにおいて、人間と魔族の間には適切な沈黙が横たわることになろう。

 

時代は…時代は平和になった。

 

この時代に、この社会に、私の居場所はない。

 

だが、それでいい。

 

私はヴァイターの隣以外に居場所を見出すことを已めたのだ。

 

きっぱりと、そう決めたのだ。

 

今の世界は、まさしく停滞に向かおうとしているのかもしれない。

 

脅威から遠ざけられた文明の歩みは、自ずから緩やかなものになるだろう。

 

人々は停滞の中で何を見出すのか…未だかつて、こんな時代は私も経験したことがないために、確かなことはわからない。

 

或いは、自然発生的に破綻を迎え、平和の死体の上で世界は闘争と発展の時代を迎えるのやもしれない。

 

だが…突き詰めても、使用者が変わらなければ、使用者が適切でなければ、如何に価値のある発明も、如何に革命的な道具も、その本領を発揮することは疎か、却って世界に、人類に災厄のみを齎すこともあり得るだろう。

 

そして、私の目から見ても、人類はこの数千年でこれっぽっちも進化していない。

 

それが、答えだ。

 

世界はこのままでもいい。

 

道のりは遠く、永いのだから。

 

ゆっくり進めばいい。

 

少なくとも、私は、彼の隣でなら、そう思えるようになったんだ。

 

私は、私が世界に出ていく必要性を感じていない。

 

私は、ヴァイターと私の魔法が、真に価値あるものだと信じるがゆえに、敢えてこれを広げる道を模索しようとは思わないことにした。

 

望まれれば、学びを授けよう。

 

ヴァイターが、彼が私にそうしてくれたように……。

 

私は私が与えられたものと同じことを、その誰かにも与えるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

果たして、私に教えを乞うた相手は、まだ若い人間の少女だった。

 

家族に魔法を使える者がいるらしいその娘は、魔法に首ったけの様子。

 

私にも、ヴァイターにも、まるで忌憚がない。

 

大した子供だった。

 

私にだって好みがある。

 

だが、この娘はどうにも見ていて不快感がない。

 

純粋に魔法を追い求める姿には、私とも異なる、だが確固たるものが垣間見えた。

 

だから聞いた。

 

「名は?」

 

娘は答えた。

 

「フランメ、です!」

 

鮮やかな髪色の子供で、名前に似つかわしい闊達な性格をしているようだった。

 

「敬語は不要だ」

 

「じゃあ、フランメだ」

 

いきなりぶっきらぼうになったが、子供ならこんなものだろう。

 

「それでいい。フランメか…わかった。教えるのはまた今度だ」

 

「え…そんな!」

 

断られたものだと勘違いしたらしいが、そうではない。

 

「まずは、親にここで暮らせるように許可を貰ってこい。それと…いや、まだ子娘だしな…なんでもない」

 

ヴァイターのことを何と言ったものかとも思ったが、思えば永い付き合いである。

 

今更なので何も言わないで置いた。

 

「じゃ、じゃあ!許可を貰えたら弟子にしてくれるの?」

 

「そうだ…いつでもやめていいぞ」

 

「やめない!」

 

「なら、そうしろ」

 

「うん!」

 

嫌味のない性格が受け答えからもにじみ出ていたが、才能については、まだこの段階では未知数だった。

 

私は、自分の最初の弟子ばかりは選り好みすることなく、なるように任せることに決めていたのだ。

 

最初に私を、私の魔法を、ヴァイターの魔法を望んだ者にこそ、その才能の如何に囚われずに伝授して見せようと。

 

誰一人、私とヴァイターよりも後で死ぬ奴はいないだろうが…それでも弟子は弟子だ。

 

私と彼が最初で最後の魔法使いだ…と、そう考えるのも中々どうして、ロマンチックな話だと思った。

 

悪くない話だった。

 

最後の日まで、私と彼の足跡を辿る者たちを育て続けるというのも…子など欲しくない私にとっても、子を成すことで魔法が解けてしまう彼にとっても都合が好い話じゃないか…と。

 

それから数日後に、フランメは再び神殿を訪れて、改めて私達への弟子入りを願い、私はこれを受け入れた。

 

こうして、フランメが弟子になった。

 

私の最初の弟子になる。

 

なんだかんだと散々引き延ばしてしまったな…弟子をとろうと思った矢先、ハンノキの小僧を貴方が拾ったせいだ。

 

貴方がハンノキの小僧なんぞを拾うものだから、私はやきもちを焼いて仕方がなかったが、その機会に弟子をとるなど当てつけみたいでみっともないと思ったんだ。

 

ハンノキの小僧も魔王になって出ていったことだし、しばらくは二人きりでも構わないと思っていたんだが…二人で共同作業というのも、魅力的な提案だったものだから…ついでに思い出した弟子取りを併せて達成しようと、そんな横着を考えたわけである。

 

結果は、大成功としておこうか。

 

噂も馬鹿にできないな。

 

有名な魔法使いと言えば世間ではヴァイターか私かの様相らしいが、一人も弟子がいないらしいという噂を真に受けて、こうして一人目の弟子が出来たのだから。

 

純粋に魔法が好きで、魔法で人の役に立ちたいと思っている子供を、私と彼は、その子供の心をそのままに、立派な大人の魔法使いへと育て上げなければならない。

 

この平和な時代に育まれ、何不自由なく育った、何に脅かされることもなく育ったこの若い芽を、いずれは、その力を善きことの為に用い、次代の新芽を育てる者として。

 

平和な時代、か……。

 

……。

 

夕暮れ。

 

神殿裏の小さな家に帰り、私と貴方は二人、ベンチに腰かけていた。

 

ついさっきまで、私と貴方はフランメに修行をつけていた。

 

私と貴方は、彼女についてよく話す。

 

最初のころから考えれば、随分と進んでいる。

 

フランメは魅力的な魔法使いに育つだろう。

 

彼女には才能があり、何より、誰よりも魔法を好いている。

 

それは非常に価値のあることだ。

 

彼女が大きくなるのはあっという間で、彼女が死ぬまでもあっという間なのだろうか。

 

その間に、彼女はどんなことをするのだろう。

 

なにもしない、というのも好いだろう。

 

それだって、なんだって構わないのだ。

 

彼女の身一つを守る力にしかならなくても、彼女の身一つを豊かなままでいさせる力にしかならなくても。

 

彼女が幸せでいればよい。

 

私達から遠く離れて、私達の知らない場所で、彼女は生きて、彼女は死んで。

 

果てに、何があるともなく。

 

それで好い、とさえ思える生を生きて欲しい。

 

日が沈んでも、私たちはフランメの話をしていたが、それはいつの間にか私と貴方の話にもなっているように感じた。

 

私達はまったく違うが、それでも、しばらくは同じだろう。

 

おもむろに、私は勝手なことを言いたくなって、その勢いのままに言うことを止められなかった。

 

「なぁ、ヴァイター…」

 

「なんだい、ゼーリエ」

 

「私がそろそろ死にそうになったら、貴方の子供を産んでもいいかな」

 

ヴァイターは私の方を見ずに、即答した。

 

「うん。いいよ。でも、嫌だな」

 

「どうして?」

 

作れるかはさておき、子供は構わない。

 

ただ、何かが貴方は嫌なのだ。

 

貴方は、何が嫌なんだ。

 

貴方は、遠くを見て、私のことを見ようとしないで、言う。

 

「君が死んでしまったら、僕の子供がゼーリエと同じくらい素敵な人と出逢えるまで、きっとまた、うんと寂しい思いをするだろうね」

 

「でも、子供は作らないといけない。そうしないと、僕は死にたいときにも死ねないや」

 

貴方は私よりも年上で、貴方には家族なんて居なかった。

 

親もいないし、子供の頃だってなかった。

 

貴方は、生まれながらに貴方でしかなく。

 

そして、ある日突然、私の親となった。

 

今や、貴方は私の伴侶として在る。

 

私が貴方のことしか知らないように、貴方もまた、私のことしか知り得ないのか。

 

それは幸福だ。

 

私は死ぬまで幸福だ。

 

けれど、貴方に刻まれた愛着を、他ならぬ私が、免れぬ死によって、望まずとも切り裂いてしまうのか。

 

私も、貴方も、この世界を壊したいだなんて、そんな大それたことは考えたこともない。

 

憎むべき相手もいない。

 

ただ、私と貴方が生み、育み、生きてきた、この二人だけの小さな世界ばかりは。

 

どうしてなのか、貴方は、去るならば共に、そして、何も残さずに去りたいと言う。

 

「貴方は、特別だ。そうだろう?だから、そんなふうに思わなくてもいいんじゃないか。別に、死にたいわけでもないだろう」

 

そうなのだ。

 

別に、死にたいわけじゃない。

 

でも、ずっと続いていたいわけでもない。

 

貴方にとって、私が居ないそこには、それだけの価値しかないのか。

 

貴方は言う。

 

「そりゃあね、痛いのも苦しいのも嫌いだから。でも、寂しいのも嫌なんだよ」

 

貴方は魔族と人類を、これといって分けて考えるわけでもない。

 

そういう人だ。

 

けれど、私がいなくなれば、貴方は寂しくて、死にたいくらいに寂しいんだな。

 

そうなんだな。

 

「私はまだ死なないが…」

 

ああ、死なないが。

 

貴方は、珍しく不機嫌そうに鼻息を吐いたが、その「ふんす」にも元気がない。

 

「そうしてくれる?この話は、もうおしまいにしよう。君が死んでしまうなんて、僕は考えたくもないな」

 

「わたしだって、おんなじだ」

 

「なら、もうダメだよ」

 

「ああ、選べるものでもないだろうからな」

 

「そうさ。そうなんだよ。生きるも死ぬも…好きにできても、できなくても。それ自体は、つまらないものなんだよ」

 

「きっとそうだ。貴方の言う通りだろう」

 

「ああ。だから、何も言わないままでいて」

 

置いて行かれても、僕は黙って受け入れるから。

 

貴方はそう言いたげだった。

 

泣いているのか?

 

尋ねても、貴方は、貴方よりも小柄な私に縋り付いて、しばらく離れようとしなかった。

 

思いがけず、私は貴方に酷く怖い思いをさせてしまっていたようだ。

 

「だいじょうぶ、大丈夫だ、私はいるぞ。こうして、貴方を包んでやれるから」

 

私は謝ることはせず、貴方を抱きしめ続けた。

 

そうか、怖かったのか。

 

そうか。そうか。

 

私は、何も言わずに、必死に私のお腹に匿われている貴方の頭を優しく撫でるばかりだった。

 

嗚呼、ひどい話だな。

 

それでも、そのことを知って、私は安心で安全で、それで幸せなんだ。

 

勝ち逃げがほとんど決まっているせいか、なんだかズルい気持ちになってしまうな。

 

けれど…貴方との約束はすべて守るよ。

 

だから、何も言わないまま、この先はずっと、その時が訪れるまでは何一つ変わらない毎日が続くんだろう。

 

私はオカシイのかな。

 

でも、そもそもオカシクなったのは貴方の所為だろうに。

 

貴方が、私に魔法を掛けたのだ。

 

そして今、私は知った。

 

気づかぬうちに私もまた、貴方に掛けていたことを。

 

この魔法に、なんて名前を与えよう。

 

貴方は泣き疲れて眠ってしまって、私の服はお腹の部分だけがしっとりと濡れていて、そこからは無垢の匂いがして。

 

だから、私はこの魔法に名前を付けた。

 

『愛着の魔法』と、ね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

物語にならない物語こそ、好い物語だ。

 

英雄もいない。魔王もいない。

 

好い魔法使いも、悪い魔法使いもいない。

 

誰もが、何となく生きて、何となく死んで。

 

世の中はゆったりと、のんびり転がっていく。

 

たまには小指もぶつけよう。

 

たまには茶柱も立とう。

 

そのくらい。

 

虚構の世界は物語が豊かに溢れている方が好い。

 

けれど、現実はそのくらいが丁度イイと思うのだ。

 

激しく喜ばなければいけないわけでもなく、激しく悲しまなければならないこともなく。

 

それでいて、たまには特別な嬉しかったり悲しかったりが、少しあれば好い塩梅じゃないか。

 

ゼーリエ…僕は、君の運命を変えたのか?

 

君を、貶めてしまったのだろうか。

 

君の辿るべき道を、僕は歪めてしまったのだろうか。

 

君だけじゃない。

 

クヴァール。ハンノキの坊や。賢き子供たち。

 

そして、フランメ。

 

君たちだけじゃない。

 

きっと、本来ならば出会うはずだった誰かと誰かを、本来だったら出逢わなかった誰かと誰かを、僕はすっかり滅茶苦茶にしてしまったんだろう。

 

あれは未だ、ゼーリエが小さい頃だ。

 

ある日、覚えたばかりの未来視の魔法を使ったゼーリエが不機嫌そうに言っていた。

 

「ヴァイターのことが知りたいのに、ヴァイターの周りの未来だけが全く見えないじゃないか」

 

「この魔法はポンコツだ」

 

と。

 

あの時、何も思わないつもりだったけど、思い当たることの方が多くってさ。

 

決まり切った道というものを、僕の存在がズタズタに引き裂き続けているんだろう。

 

これが正しかったのか、これが間違っていたのか、それはわからない。

 

出来ることをしただけだ、と言うのは簡単だけど、しなくていいこともしたのかな、なんて気持ちも湧いてくる時がある。

 

でも、どんなに素敵な出逢いでも、同じくらい素敵な何かを失った後でなきゃ出逢うことができないだなんて、まったく冗談みたいな話でしょう。

 

だから僕は、失わなかった後でも、等しく素敵な何かと出逢えるということが、誰にとっても叶えられて然るべき願いなのだと、そう、肯定したかった。

 

そのために、特別な何かを強いたつもりはなくて、特別な魔法を広めたわけでもないけれど。

 

ただ、酷いことや、惨いことや、悲しいことが、そういう余計なことが、僕が生きているうちは、僕の目が届く範囲内だけでも混じってしまわないようにと。

 

頑張らなくても守れるくらいの簡単な決まりを作って、決まりを守ることが偉いのだと誰もが知っているようにして、実際にやってみせただけなんだ。

 

僕が魔族にやったことだって、大概は同じなんだ。

 

正当に争う理由を失くした状態で、それでも争うということは完全に間違いでしかないんだから。

 

そして何より、争うこと自体は構わないけれど、過ぎたことは認められないということだけ。

 

誰もが弁えていれば、誰も過剰に傷つくことはないはずなんだよ。

 

世の中は、きっと、概ね、好くなっている…はず。

 

だって、魔族に焼かれた村は一つだって無いし、人間の国同士で殺し合いだって起きてない。

 

旱魃が来たって、僕が雨を降らせるよ。

 

不作だって、僕が麦の穂を重くできる。

 

喧嘩したっていいけどさ、神殿が調停するのに従ってほしい。

 

土地から採れたものは半分こにしてさ、誰かが誰かを傷つけたら、ちゃんと償わせるし、条件がそろえば無かったことにも出来ちゃうよ。

 

僕は、君たちを甘やかしてなんかいないよ。

 

僕は、君たちをダメになんてしてないよ。

 

そんなつもりはこれっぽっちもない。

 

ただ、見苦しいものを絶対に見たくないから、そうならないように頑張っているだけなんだ。

 

真面目に生きてる人が、普通に生きてる人が、誠実に生きている人が、割を食わず、報われるように。

 

それが正しいことなんだと認識されてる環境を、少し乱暴に整備したつもりだよ。

 

人間でも、魔族でも、ちゃんと教えてくれる誰かがいないと、例えそんな誰かがいたとしても、必ず馬鹿をする奴が出てくる。

 

そういう余計な奴らを、逐一、外に追い出せるような環境を整えただけでさ。

 

魔族とか、人類とか、そんなことはどうだってよくて…ただ、優しい人だったり、弱い人だったりが、そのまま生きられるように、それが許される環境を守っていきたいんだ。

 

優しい世界に、他ならぬ僕自身が住みたいんだ。

 

そこでしか…。

 

そこでしか。

 

弱っちい僕は、息もできないんだよ。

 

だから……。

 

…。

 

……。

 

………。

 

だから。

 

だから、赦しは乞えない。

 

僕は、自分のエゴで、何かを変えたんだ。

 

前の方がよかったって、誰かは、きっとそう言うんだ。

 

でも、僕はこの道を選んだ。

 

この道が正しくても、正しくなくても、それは問題ではない。

 

全ての人に肯定を強いるわけじゃない。

 

そんなものは求めていない。

 

ただ、少しだけ考えて欲しい。

 

少しだけ考えてから、言葉を使ってほしい。

 

誰もが肯定するしかないものじゃなくって、誰も否定できない、否定したくないと考える。

 

そういうものが、真理なんじゃないか。

 

僕がやったことは、誰かの運命を変えてしまったことだろう。

 

誰かは生き、誰かは死んだ。

 

失われたものを取り戻すことなんか出来ないよ。

 

忘れられてしまったことも、誰も知らないことも、それだけはどうやったって僕にさえ、なかったことにはできないんだ。

 

知らないことは、変えることができない。

 

だから、僕が知らない何かを、もしも、僕の身勝手が変えてしまったとして、一体どうすれば、その何かを知ることができるというのだろう。

 

誰も僕を責めはしない。

 

ただ、僕だけが、なんとなく、悪いような気がして、申し訳ないような気がして、居た堪れないんだ。

 

その正体は掴めない。

 

ただ、この先もずっと、僕はコレを抱えて生きていかなくちゃならない。

 

ただ、それだけだ。

 

嗚呼、君!

 

そこの、君!

 

もしも、世界を野放しにして、世界がもっと不幸だったのならば。

 

君は、僕と出逢ってくれたかい?

 

君は、僕を助けてくれたかい?

 

君は、僕を愛してくれたかい?

 

或いは、僕は、そちらに居る僕は、ちゃんと出来てるかい?

 

君と、僕は出逢ったかい?

 

君を、僕は助けられたかな?

 

君を、僕は愛しているかい?

 

君に、僕は愛されているかい?

 

そちらで、君は泣いていないかい?

 

そちらで、僕は息ができたかな?

 

水は甘いのか。風は冷たいのか。森は鳴いているか。

 

嗚呼!愛おしき人よ。

 

君は、ここには居ない。

 

我々は、出逢うことはないかもしれない。

 

だが、それでいい。

 

君の涙で秤が満たされる出愛いなど、僕はご免被る。

 

もし、涙の重さが必要なのだとして、それは必ずや喜びの涙で満たすべきものなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

ゼーリエ、君は僕の未来が見えないと言った。

 

僕もだ、君の未来ばかりは見えない。

 

でも、不思議だ、君ではない、名も知らぬ誰かの横顔が、僕の脳裏に揺らめくよ。

 

人も、エルフも、ドワーフも、中にはきっとまだ生まれていない君もいることだろう。

 

君たちはどこからきて、どこへゆくのか。

 

君たちとは、きっとそちらでは出逢えるはずもなかったはずだ。

 

そこに、僕は居なかった。

 

そして、恐らくはここでも、僕とだけはすれ違いもしないだろう。

 

ここでなら、出逢えるかもしれないけれど…例えそうだとしても、僕はそれを敢えて忍ぼう。

 

何も知らない君たちは、いずれ、きっと出逢える。

 

そこに、僕は居ない。

 

気にするな、お代は先に頂いた。

 

君たちの勇気の使い道は、決して、守る為に奪う行為へと費やされるべきじゃなかった。

 

旅の始まりが、悲惨と、絶望と、喪失と、挫折から始まることがないように。

 

少し寂しいけれど、構わない。

 

僕の知らない場所で出逢って、僕の知らない場所で笑いあって、僕の知らない場所で幸せになっておくれ。

 

格好悪くても、出来損ないでもなんでもいい。

 

強くならなくてもいいから、どうか、幸せで。

 

どうか、幸せで。

 

…。

 

……。

 

「フリーレン…」

 

…。

 

……。

 

ここではない、どこかで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「聴こえているぞ、ヴァイター」

 

「んぁ?」

 

ぽつりとつぶやいた言葉が拾われていたことにも驚いたけれど、振り返れば。

 

そこにはゼーリエが居た。

 

腕を組んで、心なしかムスッとしているようにも見える。

 

ゼーリエは耳をピクピクさせながら言う。

 

「フリーレンだと?誰だ、そいつは?」

 

隠す理由もないので、正直に知ってることを答える。

 

「さぁ?たぶんエルフの誰かだよ」

 

ゼーリエはムスッとして、それから顎に手を遣り思案顔になり言った。

 

「なんだ、その曖昧な表現は…未来でも視たのか?」

 

「うん。そんなところだよ」

 

僕の返答に、ゼーリエは片目を細めて、口の端をくいっと上げて尋ねる。

 

「それで?…好いものだったか?」

 

わざわざ作ったような悪い顔をして、よくそれで素敵なことを聞くものだ。

 

だから、僕も嬉しくなって言う。

 

「ああ。何もなくて、ね」

 

「何もなくて、か」

 

「ああ、なんにも」

 

その返答に、ゼーリエはいつもの表情に戻って、少し眠たげな眼を見開くと、細い首を僅かに傾けて言った。

 

「それは何よりだ…それで?そいつには、いつ出逢うって?」

 

彼女は思ったよりも近くにいて、僕は後ずさりをしそうになって、踏みとどまって覗き込むように見上げてくる彼女の瞳を見つめ返した。

 

だいじょうぶ、大丈夫だよ。

 

君が僕のことをよく知っているように、僕も君のことを少しくらい、知っているんだから。

 

「ゼーリエ…僕が君と出逢うことを、僕は知っていたとでも?」

 

それは真実だ。真実になった。

 

あれは、僕の所為だったのか…或いは、別の何かだったのかな。

 

それはわからない。

 

でも、目の前のゼーリエは、君は僕にとって真実になった。

 

今も、そうだ。

 

だから、何も不安に感じることなんてないんだ。

 

そう思わせてしまった僕が悪いんだろうけど…それでもさ。

 

「あぁ…なるほど…そうか!そうかそうか…なら、構わないな」

 

ゼーリエはそう言って、にぱっと笑った。

 

弾けて解けるような笑顔は、強く激しい不安の裏返しだから。

 

僕は罪悪感を感じて、つい抱きしめてしまった。

 

「そうさ、構わないんだよ」

 

そう言うが早いか、ゼーリエの両手が僕を捕まえる。

 

お互いに、どこにも行ってしまわないように。

 

「フフフ…なら、安心だ」

 

微笑む声が、胸元からこそこそ上がってくる。

 

こちょびたくて、僕は少し、青いことを言ったかもしれない。

 

「何が心配だったのさ?」

 

ゼーリエは平坦な声で応えた。

 

「何って、すべてだよ」

 

そうだ、すべてだ。

 

僕にとって、君がそうであるのと同じように。

 

それが、すべてなんだ。

 

「すべてか…そっか、なら、仕方ないね」

 

僕は頷いた。

 

「そうとも、仕方ないんだ」

 

ゼーリエの鼻息は温かい。

 

呼吸なんてしなくても生きていられる魔法もあるけれど、ゼーリエも僕も、これが好きなのだ。

 

温かくて、少し湿ってる。

 

心細い時ほど、耳に、胸に、頭の上に。

 

それが来ると、こんなにほろりと来るものもなくって。

 

「…残念か?」

 

ゼーリエの声は、怯えたものなんかじゃない。

 

ただ、純粋に知りたいんだ。

 

貴方にとって、それは願いですか?と。

 

それは、貴方の幸せの為に、必要なものなのですか?と。

 

だから、僕は嘘など微塵もなく、答えるんだ。

 

「…わからない」

 

「わからない?どういうことだ」

 

そのままの意味だ。

 

「彼女の幸せを決めるのは彼女自身だから、僕がでしゃばるのは…なんか違う気がしてね。ただ…物語にもならない、平凡な始まりが待ってるよ。きっとそうだ」

 

今頃の彼女は、まだ千年も生きていないのだ。

 

少なくとも、逢ったことはないし、これから先に逢う予定もない。

 

逢う、必要もない。

 

困ることはないだろうからね。

 

「ほう、ほう…そうか」

 

伝わったのか、ゼーリエは何度も頷いていた。

 

背中を何度も撫でられる。

 

僕の手も、彼女の頭を、背中をゆっくりと撫でている。

 

「そうさ、精一杯だ。精一杯でしゃばって、精一杯我慢したんだ」

 

何もしない方がいいのか。

 

ゼロか百なのか。

 

中途半端でも、出来ることをすべきなのか。

 

悩んだ挙句に僕は、中途半端を選んだ。

 

「そうだな。そうだろうさ…知ってしまえば、じっとはして居られない性質だろうに…優しいじゃないか」

 

ゼーリエはそう言って僕の頭を撫でる。

 

僕の胸元に顔を押し付けたまま息をして、手だけを伸ばして頭を撫でてくれる。

 

「そんなんじゃ、ないさ」

 

本当に、ついでさ、ついで。

 

「そうだな、そういうことにしておこうか…」

 

ゼーリエは、ようやく顔を上げて、そう言った。

 

微笑みは清浄で、険のない、優しい顔だ。

 

僕たちはそこから、いくつか世間話をした。

 

フランメのこと。夜ご飯のこと。寝る時のこと。明日の朝ごはんのこと。

 

そうなっても、ならなくても構わない、とりとめのない話をした。

 

あたりはもうすっかり静かだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

家に帰って、すぐに夕飯。

 

ゼーリエは向かいの席に座った。

 

先週は隣で食べたから、今週は対面で食べることにしたようだ。

 

大抵は神殿の人が作ってくれたものを温めるだけだけど、たまに二人で作ったりもする。

 

今日は、話し込んじゃったからな、出来合わせのものをいただいた。

 

温めなおしたシチューは他の皆が食べる分と一緒に、大きな鍋でたくさん作っているから、家の小さい鍋で作るよりも美味しい気がする。

 

芋はとろけていて、他の野菜もやわらかい。

 

新鮮なミルクとチーズを献上された日は、こういうシチューがお約束だ。

 

好みでスパイスを足すと、まろやかなコクの中で薫り高くピリッと引きしまった風味が滲んで、実に美味しい。

 

大抵は、柔らかく煮られた、大ぶりの鶏肉が入っていて、ゼーリエの苦手な人参やブロッコリーと交換することもしばしばだ。

 

交換レートがおかしい気がするけど、ゼーリエが可愛いから構わない。

 

主食のパンは、シチューと一緒に食べる為に大きな白パンを用意している。

 

これを切り分けて、好みで少し炙って、これまた好みでチーズを載せて食べたりもする。

 

オリーブの実や、そのオイルを垂らしても、これに塩を加えてもイイ。

 

ゼーリエは一時期は岩塩に凝ったりして、違いの判らない僕に何か言いたげだったけれど、実際、どれも美味しかったんだから。

 

これにも、スパイスを混ぜたシチューがよく合う。

 

僕も、ゼーリエも、シチューにたっぶり浸して食べるのだ。

 

最近は夕飯の席でもフランメの話をする。

 

彼女は、今のところは神殿の見習いということだから、神殿の方で他の神官達や、賢き子供たちと一緒に寝起きをしている。

 

こんなに近くにいるし、この小さな家を少し大きな家にすることも、テーブルに椅子を一つ加えることも、なんだって出来るのだ。

 

だから、そのうち彼女も夕飯を一緒に摂ることになるだろう。

 

僕も、ゼーリエも、思っていたよりも人に教えられることが楽しいみたいだ。

 

毎晩、喋りながら、ゆっくりと晩御飯をいただいているなぁ。

 

ふと、真向いのゼーリエが徐に副菜のサーモンのサラダに手を伸ばしたのが見えた。

 

シチューの日は、ついつい、シチューとパンばかりを食べてしまうんだよな。

 

彼女に倣って僕も、このさっぱりとしたサラダに手を付けることにした。

 

さっぱりとしたドレッシングが、塩っ辛いスモークサーモンと瑞々しく青い野菜たちを一つにまとめてくれる。

 

うん、美味しい。

 

それ以上に言うことはない。

 

食べているとき、たまに気づいてゼーリエを見る。

 

耳がピコピコしているので、わかりやすいなぁ…なんてね。

 

人間並みの僕の耳じゃあ、こんなことは分かりっこないのだ。

 

ゼーリエの可愛いところだ…などと思っていると、ジトっとした視線を感じるもので。

 

こういうときほど、僕の方こそ、ゼーリエに見られているのだった。

 

僕も、彼女も、あんまりお酒は飲まないけれど、それはさておきさっぱりした飲み物が欲しい時も多い。

 

今だって、僕たちは柑橘系のシロップと採取してきた炭酸水を混ぜたものを飲んでいたりする。

 

レモンに、グレープフルーツに、僕の好みで八朔をいれたりね…。

 

作る過程で二人のつまみ食いが多発することまで含めて、楽しいもんさ。

 

僕もゼーリエも、魔法使いだから温めたり冷やしたりすることは大の得意だからね、そこは指先一つでなんとやら。

 

そんなこんなで、楽しい、普通の夜ご飯は、過ぎていくのでした。

 

 

 

 

 

 

結局、大皿一杯のシチューを二杯も三杯も食べて、サラダもお代わりして、パンは丸々一つを二人で食べきってしまった。

 

僕もゼーリエもお腹いっぱいだ。

 

もう眠たい。

 

けど、その前にお風呂に入って、それから…それから。

 

交代でお風呂を済ませるけど、僕が先で、ゼーリエは後で、と順番は決まっている。

 

僕にはゼーリエの髪を乾かす役目があるからね。

 

湯舟には沸いてる日は入ったり、入らなかったり。

 

なんたって温めなおすのが得意だから、冷めちゃっても問題なし。

 

お風呂の準備は水を溜めるところから、誰かに任せるでもなく、僕かゼーリエが気づいたときにやってる。

 

上手く行ってるし、不便を感じてもいないから、まだしばらくはこのまんまだろうね。

 

そうやって、沸いた湯舟を僕がちゃちゃっと浴びて、それからゼーリエがゆったり浸かるわけです。

 

湯上り、僕もゼーリエもぼーっとして、気が向けば余った果汁水を凍らせて食べたりも、ね。

 

椅子に座ってる僕の足の間に、両手に氷菓子を携えたゼーリエが収まって、溶けないように涼しい風を吹かしながら、僕は片手で髪をほぐして、もう片方の手で彼女の髪に櫛を通すという構図。

 

ここ数千年、変わらないものなのか、変えられないものなのか、それとも、変えたくないものなのか。

 

わからないし、考えたこともないけれど、今のままがいい気がしているのは、たぶん、僕だけじゃないはずなんだ。

 

髪をほぐして、優しく、丁寧に櫛を通して、すっかりサラサラふわふわに乾いたら、後はベッドに上がって眠るだけ。

 

そう、眠るだけ。

 

でも、これが一番難しい。

 

ベッドに上がって、布団をかぶって、一人の頃には出来たことが…いつの間にか、できなくなっていた。

 

朝のゼーリエときたら、まったく起きやしなくて、揺さぶったって、非力な僕の力では、根を張ったような彼女のことをどうこうできやしないのだ。

 

でも、夜の僕ときたら、ゼーリエが傍にいてくれないと、この子の体温を感じていないと、貴女と足を絡ませていないと、怖くて眠れやしないのだ。

 

いったい何が怖いのか。

 

そんなことは、決まっているのだ。

 

自分と彼女の周りばかりが、定かならず。

 

定まらぬ、見通せぬ未来を恐れて、いつか、この幸せを喪うんじゃないかと不安なのだ。

 

世界が壊れるはずはない。

 

だってゼーリエがいる。

 

でも、もしも彼女がいなくなったならば?

 

他のすべての未来を見通せても、僕は自分と貴女の未来だけは見通すことができないのだ。

 

それは、僕の不安を完全に否定してくれるものが、何一つないということなのだ。

 

布団を被って、ゼーリエに抱きしめてもらえると、それは今だけは、まったく脅威がないとでも言うように。

 

僕の杞憂を諫めるように、柔らかく、優しく、温かくて、好い匂いがするのだ。

 

「おやすみ、ゼーリエ」

 

僕は言う。

 

「おやすみ、ヴァイター」

 

自分よりも小さなゼーリエに縋る僕の、なんと見苦しく、情けないことか!

 

それでも、ゼーリエの言葉に安心している僕がいるのだ。

 

何の保証にもならないその一言が、どんな魔法よりも、どんな薬よりも強い効果を持つのだ。

 

「おやすみ、ヴァイター」

 

「だいじょうぶ、大丈夫だ。私は一緒にいるよ」

 

「知っているだろう?朝、貴方が最初に見るのは私で。私が最初に見るのは、貴方なんだ」

 

「これまでだって、ずっと変わらずそうだっただろう。なら…この先もずっとそうに違いないさ」

 

「それでいいと、それがいいと、そうなるような世界にしたのは、他ならぬ私たちじゃないか」

 

「変わらない明日が、代えのない明日が、必ず、誰の元にも訪れるようにと、当たり前が、当たり前に訪れるようにと」

 

「貴方も、私も願った。そして、貴方と私がそれを叶えたんだ」

 

「だから…嗚呼、可愛いヴァイター、私の大事な人、愛おしい坊や…貴方が不安に思う事なんて何一つもありはしないんだ」

 

「怯えないで。誰も、貴方を責めはしない。誰にも、貴方を責めさせはしないよ」

 

「私が、いるから」

 

「だからお休み、ヴァイター」

 

「明日の朝も、きっと私は寝坊して、きっと寝癖も酷いだろうな…」

 

「おやすみなさい…私のヴァイター」

 

「…」

 

「……」

 

「………」

 

「嗚呼、月が綺麗だ…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…。

 

風が冷たくて、どうにもいけないな。

 

朝日を待っている間、寂しくてさ。

 

夜は静かで寂しいし、夜の終わりもどこか居場所がなくってさ。

 

昼の終わりなんか、いっそ怖いくらいで。

 

なにか、僕らのちっぽけな力じゃ動かせない、そういう大きなものに吞み込まれるみたいな感覚。

 

どうにかなんないのかな、どうにもならないのかな。

 

耳鳴りがして、石を蹴って、気づかない内に蟻んこを踏んづけちゃってたりしててさ、なんか。

 

なんだか、泣きたくなっちゃうよな。

 

酷いことをしたかな、僕ら、ひどい奴なんかな、なんて。

 

晩御飯のコロッケが冷めちゃってて、しょんぼりして、味噌汁が温かくて喜んじゃったりして、味噌汁のちっちゃい豆腐が熱くて、それで舌を火傷したりね。

 

誰にも酷いことを言われてもいないのに、自分以外のすべてが敵に見えたり。

 

すれ違う誰も彼もが、僕らの悪口を囁いているような気になる時もあるだろう。

 

けど、そんなに深刻な気持ちを抱えて、怯えていたっていうのに、あったかいお風呂に入ると綺麗さっぱり忘れちゃったり。

 

かと思えば、湯上りにアイスを齧りながら、昼間に受けたさりげない仕打ちに憤慨してさ。

 

なにやした。

 

なんだかなぁ。

 

ちょっと早い時間に月が見えて、まだ夜でもないのに、嘘みたいにくっきり見えて。

 

家路を速足で急ぐのも忘れて、なんか、なんも、考えることもなくて、ぼんやり見上げていたりしてね。

 

こういう時さ、詩の一つでも浮かんだらな。

 

ま、僕らにそういう時があるってことは、たぶん、胸に思い浮かんだ偉そうな誰かにだって、そういう瞬間はあるんだろうぜ。

 

断言したっていいよ、どんな英雄も、勇者も、賢者だって、どんな偉い人だって、人生に一度はおならをしているし、鼻だってほじったことがあるんだぜ。

 

しょうもないことしてたって構わない。

 

たまにやる気を出して、頑張れたり、頑張れなかったり、それで十分じゃんか。

 

他所ん家の犬とか赤ちゃんの動画で泣いてみたり、呆れるくらいつまらない映画に人生の万分の一を浪費されて腹を立てたりさ。

 

無為万歳、そう言っちゃいたいんだよ。

 

有意義を強いられるなんて御免さ。

 

だってそうだろう?

 

そのために、僕らは争いを許容してきたんじゃないのか?

 

競争を正当化してきたんじゃないのか?

 

この水を煮詰めれば塩が採れる。

 

そう言われ続けて、一体どれだけ鍋を焼く炎に薪を焚べ続けてきたことだろう。

 

この近道に見せかけた遠回りに、意味はあるのだろうか。

 

恐らく、あるにはあるんだろうな。

 

確かに、塩は採れるだろう。

 

だが、鍋の水は今や溢れんばかりだ。

 

底は、見えない。

 

とはいえ、この小さな鍋で、果たしてどれだけの塩が採れるというのだろうか。

 

足りるとは、到底、思われない。

 

火は強くなるばかりだが、塩が採れる気配もなく、薪の残りは不確かで、おまけに、この鍋で採れる塩が全員へ満足に行き渡るようにも思えない。

 

土器製の鍋は、今やステンレスになっている。

 

火も、ただの焚火から持ち運び可能なガスコンロになっている。

 

だが、水は変わらない。

 

水が蒸発する温度も変わらない。

 

蒸発する水の量ばかりが増えている。

 

悲鳴を上げながら、手の届かない、逢いに行くこともできない場所へと、列をなして去っていくばかりだ。

 

塩は、どこだ。

 

 

 

…。

 

 

 

だというのに、塩は一向に採れない。

 

果たして、塩が採れるのは何時のことになるのか。

 

その時、僕たちの周りには、次の塩を採るのに必要な薪を得るのに十分な森林は残されているのか。

 

いや、そもそも、薪を割り、炎を絶やさずに見守る誰かは、まだそこにいるのか。

 

君は、まだそこにいるのか。

 

君は…

 

 

 

 

 

 

 

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