『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】   作:いっかず

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第97話:再誕の白蓮

衝撃波が止まった。

死神を覆っていた、触れるもの全てを削り取る「拒絶」の力場が、女神官の細い腕に触れた瞬間、春の陽だまりに溶ける薄氷のように霧散していった。

 

「…………ぁ、……っ」

 

女武闘家の身体が、不自然なほど激しく震え出す。

数年間、誰にも触れさせなかった。司祭の実験台でも、断罪試験や吸血鬼との死闘でも、彼女の肌は「他者の体温」を拒み続けてきた。

だがいま、首筋に回された女神官の腕から、そして胸元に押し当てられた彼女の額から、熱いほどの「生」の温度が流れ込んでくる。

 

(……この、温もり……)

 

脳裏に、強烈な逆光と共に「あの日」の記憶が溢れ出した。

 

それは、カビと汚物にまみれた、始まりの洞窟の奥底。

仲間を失い、誇りを汚され、ただの「肉塊」として転がっていた自分を、鉄兜の男が救い上げた直後のこと。

 

放心状態の自分の身体を、いま目の前にいる少女が、やはり同じように強く、折れそうなほど強く抱きしめてくれた。

 

『……もう大丈夫ですから。……もう、大丈夫ですから……っ!』

 

あの時、頬に落ちた女神官の涙の熱さ。

泥だらけの自分を「汚い」とも「不浄」とも思わず、ただ生きていたことを神に感謝するように抱きしめてくれた、あの震える腕の感触。

 

(ああ……。そうだった……。私は……)

 

女武闘家の瞳から、曼荼羅の紋章がひび割れ、剥がれ落ちていく。

視界を覆っていた「不浄」のフィルターが消え、目の前で泣きじゃくりながら自分を抱きしめる、大切な仲間の顔がはっきりと映し出された。

 

(私は……あの時、もう救われていたんだ……。復讐なんてしなくても、死神になんてならなくても……。あの子が泣いてくれた瞬間に、私は……!)

 

黄金の輝きを放つ女神官の小さな腕が、絶望の鎧を纏った死神を、ありのままの温もりで強く、強く抱きしめた。

 

(…………間に合ったんだな。)

 

鉄兜の奥で、ゴブリンスレイヤーは静かに呟いた。

あの日、自分の姉には間に合わなかった。

あの日、この洞窟で彼女が壊されるのにも、間に合わなかった。

けれど、いま、一人の少女の必死の祈りが、神々が投げた最悪の出目を、最後の最後で食い止めていた。

 

「お願い……! 戻ってきて! あの子を……私たちの仲間を返してッ!!」

 

妖精弓手が、弓を握る手に力を込め、叫ぶように祈った。

彼女が愛した「冒険」は、誰かの命を奪うためのものではない。誰かと笑い、誰かを救い出すためのもの。その「正解」が、いま目の前で火花を散らしている。

 

「悲しき因果の巡りを、いまこそ断ち切る時。……神官殿、貴殿の慈悲こそが、この世の如何なる奇跡をも凌駕すると、拙僧は信じておりますぞ」

 

蜥蜴僧侶が数珠を激しく鳴らし、魂の救済を願う。

 

「神官娘……。お前の背中は、いつの間にかこんなにも大きくなっておったんじゃな。信じておるぞ」

 

鉱人道士は、自分たちが繋いできた「命」の重さを、女神官の小さな両肩に託した。

 

そして、瓦礫の影。

命のストックを使い果たし、死の恐怖に震えていたヴァンパイアロードさえも、醜悪な期待を込めてその抱擁を見つめていた。

 

(頼む……! 頼むぞ、神官の娘! その甘っちょろい愛とやらで、あの死神をただの無力な小娘に引き戻せッ! あの出鱈目な『拒絶』さえ消えれば、この場を切り抜けるのは容易い。……そうなれば、私は別の街へ逃げ延び、そこを新たな家畜小屋にして何度でも再起してやる……!)

 

善意、祈り、執念、そして卑劣な保身。

あらゆる思惑が交錯する中、女神官の温もりが、冷え切った死神の心を溶かそうとしたその刹那。

女武闘家の脳内で、ひび割れていたはずの曼荼羅が、これまでになく禍々しい漆黒の光を放って脈動した。

 

『――騙されるなッ!! その温もりは毒だ。お前を再び無力な獲物に戻すための、甘い毒に過ぎぬ!!』

 

「……ぁ、あ……」

 

女武闘家の身体が、女神官の腕の中で再び強張り始める。指針の声は、彼女が最も触れられたくない記憶の断層を、一歩ずつ、正確に踏みにじっていく。

 

『忘れたのか? 依代よ。あの日、あの洞窟で……お前が奴らに組み伏せられ、人生を終わらされていたその時。この娘は、お前を見捨てて逃げたのだぞ。 お前の犠牲の上に、自分だけが光の中へ逃げ帰ったのだ!!』

 

「……それは……私が、逃げろって……」

 

『それだけではない!!』

 

指針の叫びは、彼女の心の奥底に沈んでいた「孤独」という名の澱を、激しくかき回した。

 

『思い出せ。救出された後、地母神の神殿での地獄のような治療の日々を。お前は毎夜悪夢にうなされ、自分の身体を血が出るまで洗い続けていた。……その間、この娘が一度でも、お前の見舞いに来たことがあったか!?』

 

「っ……!!」

 

女神官の肩を抱きしめようとした女武闘家の指先が、止まった。

あの日。神殿の病室で、何度も、何度も扉の方を見つめていた記憶。

一番会いたかった、自分を肯定してほしかった仲間は、ついに一度も姿を現さなかった。

 

『お前が故郷の村で「汚物」と罵られ、石を投げられていた時。死ぬことすら許されず川底へ沈もうとしていた時。……この「仲間」は、どこで何をしていた!? どこに会いに行ったというのだ!?』

 

指針の紋章が、女武闘家の網膜に、自分を嘲笑う村人たちの顔と、美しく輝く装備を身に纏い、仲間に囲まれて笑う女神官の姿を並べて映し出す。

 

『今さら現れて「独りじゃない」だと? 滑稽極まりない! この娘は、お前が本当に助けを必要としていた時には、お前のことなど忘れ去っていたのだ! この抱擁は、自らの罪悪感を消すための「偽善」に過ぎぬ!!』

 

「…………違う……っ、違うわ……!!」

 

女武闘家は、頭を抱えて絶叫した。

女神官の温もりが、いまは焼けるような痛みとなって彼女を苛む。

 

指針の言うことは、紛れもない「事実」だった。

見捨てられた。

放置された。

忘れ去られていた。

 

その冷徹な論理が、女神官が差し出した「愛」を、再び「不浄な欺瞞」へと塗り替えようとしていた。

 

「……武闘家、さん……?」

 

女武闘家の脳内で、不浄の指針がどす黒い悦びに震え、最後の一押しとして「失敗」の記憶を突きつける。

 

『――そうとも、無意味だったのだ! あの魔術師の娘は結局救えず、あの小鬼殺しがトドメを刺したではないか! お前を置き去りにして得た結果が、仲間の死だ! この娘が歩んできた道は、死体の山の上に築かれた偽善の砂城なのだよッ!!』

 

「……違う。……黙りなさい、私の絶望」

 

彼女の唇から漏れたのは、死神の冷徹な宣告ではなく、あの日、高潔な志を持ってギルドの門を潜った一人の少女の声だった。

 

「……彼女は、自分だけが助かりたかったんじゃない。……あの子を救いたくて、私の言葉を信じてくれた。……あの子を独りにしないために、必死で外へ走ったのよ」

 

『何……!?』

 

「……そして彼女は、戻ってきた。……あんなに怖くて、足が動かないはずなのに……あの人を連れて、地獄の底にいた私を救いに戻ってきてくれた。……見捨てられたなんて、一度も思ったことはないわ!!」

 

女武闘家は、自分を抱きしめる女神官の細い肩に顔を埋め、涙を流しながら叫んだ。

 

「神殿に来てくれなかったのも……村に来れなかったのも……。……あの子が、私以上に傷ついていたからだって、今の私なら分かる。……自分だけが助かったことを、自分を責めて、合わせる顔がないって……あの子は泣いていたんだわ」

 

『戯言をッ! 都合のいい解釈で自分を騙すか!!』

 

「……あんなに怖い思いをしたのに。……冒険者なんて、辞めてしまいたかったはずなのに。……あの子は、あれからもずっとゴブリンに立ち向かって……私のような人を、二度と出さないように、ずっと誰かを救い続けてきた!」

 

彼女の脳裏に、女神官が歩んできたこの数年の軌跡が流れ込む。

傷つき、怯えながらも、それでも錫杖を離さず、鉄兜の男の隣で泥を啜りながら命を救い続けてきた少女の姿。

 

「神官ちゃんが……今も綺麗なままで、誰かのために祈り続けている。……それが、私があの日、命を懸けて彼女を逃がしたことの……たった一つの、最高の『報酬』だったんだわ!!」

 

女神官を抱きしめる女武闘家の背後に、一瞬だけ、あの日の洞窟で共に戦った青年剣士と女魔術師の姿が重った。二人は悲しげな顔などしていなかった。ただ、自分たちの分まで戦い、ここまで辿り着いた二人の少女を、誇らしげに見守っていた。

 

「……この温もりを不浄だなんて、もう言わせない。……この子は、私の……私たちの、自慢の仲間よッ!!!」

 

「……あ……、ああ……、武闘家、さん……」

 

その刹那。女武闘家の瞳の曼荼羅が、血を吐くような赤黒い光を放ち、高速で逆回転を始める。彼女の意志を無視して、混沌の術式が神経回路を強引にハックした。

 

『――不完全な欠陥品め。ならば、肉体だけで遂行せよッ!!』

 

「不浄の指針」は、依代である女武闘家が「情愛」という不純物に屈したことを悟り、その意志を完全に見限った。

 

「あ……が、あ、あああああッ!!!」

 

女武闘家の右腕が、自らの意志に反して跳ね上がる。その掌には、吸血鬼を二万回屠ったあの絶望的な破壊エネルギーが、一点に凝縮されていた。

標的は、自分を抱きしめている女神官の頭部。

 

『忘れたかァ!! あの暗闇を! 今までゴブリン共から受けた、あの吐き気を催す仕打ちを!! お前を汚し、踏みにじった世界を、なぜ拒絶せんッ!!』

 

指針の咆哮が、彼女の脳内で爆発する。

振り下ろされる必殺の『拒絶掌』。女神官は逃げない。ただ、友を信じて目を閉じ、その温もりを捧げ続けていた。

 

その直撃の寸前。

女武闘家の口から漏れたのは、指針のノイズを塗りつぶす、魂の底からの叫びだった。

 

「…………忘れてなんか、いないわよッ!!!」

 

その一言に、振り下ろされる腕が空中で激しく震え、止まった。

 

「忘れてなんかいない! 一瞬たりとも忘れたことなんてないわ! あの屈辱も、痛みも、絶望も……あいつらを、ゴブリン共を、今この瞬間だって一匹残らず皆殺しにしたいって、心の底から思ってるわよ!!」

 

『ならば殺せ! 目の前のゴブリンを、この世界を、全てを――』

 

「でもッ!!」

 

女武闘家は、歯が砕けるほど食いしばり、術式の支配を力ずくで押し返した。

 

「……でも、それ以上に! 私はあの子の隣で、もう一度笑いたかった! 誰かを憎む力なんかより、私は……私は、神官ちゃんの温もりの方が、ずっと、ずっと欲しかったのよぉぉぉッ!!!」

 

愛が、憎悪を上書きした。

「不浄」しか測れなかった指針の天秤が、一人の少女の「救いたい」という願いの重さに耐えかね、音を立てて崩壊していく。

 

『バ……カナ……。我らの、術式が……上書き……される……!?』

 

「さよなら、死神。……私の『武』は、不浄を殺すためじゃなく……大切な人を守るためにあるんだからッ!!」

 

女武闘家は、女神官の頭部へ向かっていた掌を、自らの胸元へと強引に引き寄せた。

 

「武闘家、さん……?」

 

女神官が目を開けた瞬間。

女武闘家は、穏やかな、あの日と同じ「白磁の冒険者」の笑顔を浮かべた。

 

「……ありがとう。……神官、ちゃん」

 

――――――――ドォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!

 

彼女の掌から放たれた最後の一撃――。

それは女神官ではなく、自分自身の心臓を、そして脳内に巣食う「不浄の指針」を、その核から粉砕した。

 

衝撃波が広間を白く染め上げる。

混沌の術式が霧散し、死神の呪縛が解けていく。

崩れ落ちる女武闘家の身体を、女神官が絶叫と共に抱き止めた。

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