『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】   作:いっかず

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第98話:光の彼方へ

崩壊した廃邸の最奥。臨界点の爆発は起きず、ただ静かな、あまりにも静かな朝の光が瓦礫の隙間から差し込んでいた。

 

自らの掌で自らの心臓を貫いた女武闘家は、真っ赤に染まった胸を押さえ、女神官の腕の中に力なく倒れ込んだ。彼女の瞳からは禍々しい曼荼羅の紋章が砂のように崩れ落ち、かつての、一点の曇りもない黒い瞳が戻っていた。

 

「……今まで、守ってくれてありがとう。不浄の指針」

 

彼女を孤独という檻に繋ぎ止めていた呪いが消えていく。それは彼女にとっての地獄であったが、同時に「誰も自分を傷つけさせない」ための、たった一つの、歪んだ杖でもあった。

 

「武闘家さん!! しっかりしてください、今すぐ……今すぐ治しますから!!」

 

女神官は狂ったように叫び、血に濡れた聖印を握りしめた。

 

「《いと慈悲深き地母神よ、どうかこの者の傷に、御手をお触れください》」

 

震える手から放たれる『小癒(ヒール)』の光。だが、自らの全存在を懸けた『拒絶』の一撃は、肉体だけでなく、司祭が刻んだ混沌の術式そのものを内部から破壊していた。光は彼女の傷口を滑り、虚しく空へと霧散していく。

 

「いいのよ……神官ちゃん……。これで、いいの」

 

女武闘家は、血の混じった吐息を漏らしながら、弱々しく首を振った。

 

「嫌です……! そんなの嫌ですッ!! せっかく、せっかく心を取り戻せたのに……! やっと、また『一緒に行きましょう』って言えるのに!!」

 

女神官の涙が、女武闘家の頬に落ちた。その温もりに、彼女は最期の力を振り絞り、女神官の小さな手を握り返した。

 

「……ずっと、貴方に謝りたかった。……あの日、ゴブリンを甘く見て……。ろくな準備も、覚悟もせずに……貴方を冒険に誘って……あんな怖い思いをさせて……ごめんなさい……」

 

「そんなこと……! 私は、そんなこと一度も恨んでなんて――」

 

「ううん。……私のせいよ。……私が、もっとちゃんと、ゴブリンスレイヤーさんみたいに慎重だったら。……あの子たちも、死なずに済んだかもしれないのに。……皆の未来を……壊さずに済んだのに……」

 

彼女の声は、次第に細く、掠れていく。

だが、その表情は「死神」と呼ばれていた時とは比べものにならないほど、穏やかで、誇らしげだった。

 

「……でも、良かった。……最期に、また貴方に触れることができて。……貴方が、綺麗なままでいてくれて。……本当に、良かった……」

 

彼女は、静かに傍らに立ち尽くす鉄兜の男――ゴブリンスレイヤーを見上げた。

 

「……ゴブリンスレイヤーさん。……あの日、あの暗い洞窟から、私たちを見つけて、助けてくれて……本当に、ありがとう……」

 

掠れた、けれど温かな声。

彼女の視界は既に霞み始めていたが、鉄兜の覗き窓から漏れる赤い眼光だけは、はっきりと見えていた。かつて憧れ、その背中を追い、そして狂気の中でその在り方を模倣しようとした、孤独な背中。

 

「……私は、貴方にはなれなかった。……貴方みたいに、強く……迷わず……ただゴブリンを殺し続けることなんて、私には……できなかった……」

 

自分もあのように無機質な殺戮者になれば、この痛みから逃げられると信じていた日々。

 

「……でも。……貴方は、私のようには、ならないで……」

 

彼女の細い指先が、ゴブリンスレイヤーの汚れきった革鎧に触れた。

 

「……復讐だけに……自分を、明け渡さないで。……貴方には、まだ……帰る場所が、あるのだから。……『おかえり』って、笑って待っててくれる……あの人が、いるのだから……」

 

「……ああ。分かっている」

 

女武闘家の視線は、更に女神官を囲む三人の冒険者たちへと向けられた。

一週間前、街の路地裏で殺し合おうとした相手。

今日、自分を止めるために命を懸けた、見知らぬ銀等級の強者たち。

 

「……そこの、森人さん……鉱人の、お爺さん……蜥蜴の、僧侶さん……」

 

震える声で呼びかけられ、妖精弓手たちは、言葉を失って彼女の傍らへと膝をついた。

 

「……ごめんなさい……。初対面……なのに……。あんなに、ひどいことばかり、して……」

 

「……何言ってるのよ、あんた」

 

妖精弓手は、こぼれ落ちそうになる涙を乱暴に拭い、笑みを作った。

「いいのよ、そんなの。私たちは冒険者だもの。……これくらい、いつものことなんだから」

 

「左様。貴殿の拳、見事なまでに重うございました。拙僧らも、良き修行をさせていただきましたぞ」

 

蜥蜴僧侶が数珠を鳴らし、深く、敬意を込めて頭を垂れる。鉱人道士もまた、髭を震わせながら、優しく彼女の細い手を見つめた。

 

「お主は……本当に強かった。儂らが束になっても敵わんほどにな。……お主の『武』、しかと心に刻んだぞ」

 

女武闘家は、安堵したように微笑んだ。

 

「……お願い……です。……これからも……」

 

彼女は最期の力を振り絞り、三人の目を真っ直ぐに見つめた。

 

「……これからも……あの子を……神官ちゃんを……守ってあげて、ください……」

 

自分は、守りきれなかった。

自分は、共に歩くことができなかった。

けれど、この人たちなら。自分よりも遥かに強い、本当の「冒険」を知る彼らなら、彼女をあのお日様の下へ連れて行ってくれる。

 

「……あの子は、泣き虫だけど……。誰よりも……優しくて……強い……冒険者だから……」

 

「――わかってる。わかってるわよ!」

 

妖精弓手が、彼女の手にそっと自分の手を重ねた。

「あんたの分まで、私たちが絶対にあの子を守るわ。……だから、安心していいのよ」

 

「……ありがとう。……良かった……」

 

女武闘家の視線の先。

崩壊した館の天井から、いつの間にか夜明けの光が差し込んでいた。

光の粒子の中に、三つの影が、優しく手を広げて立っていた。

 

「……あ……」

 

光の中に立っているのは、厳格だった父。

あの日、無念の死を遂げた青年剣士。

そして、共に夢を語り合った女魔法使い。

 

三人は悲しげな顔などしていなかった。

ただ、よく頑張ったねと労うように、三人が同時に、優しく、誇らしげに、彼女へと手を伸ばしている。

 

「……待ってて。……今、行くから」

 

女武闘家は、最後の一歩を踏み出すように、虚空へと手を伸ばした。

彼女が三人の手を取った瞬間、その表情からすべての苦悶と憎悪が消え、かつての、あの太陽のような笑顔が戻った。

 

伸ばした手が、女神官の膝の上に力なく落ちる。

「拒絶」を捨て、「愛」を取り戻した死神は、今、本当の意味で呪縛から解き放たれ、光の射す場所へと旅立っていった。

 

「……う、わあああああああんっ!!」

 

女神官の悲鳴のような泣き声が、静寂を取り戻した廃邸にいつまでも響き渡る。

その背後で、ゴブリンスレイヤーは静かに空を仰いだ。

 

そこには、一羽の鳥さえも飛ばない、どこまでも高く、どこまでも澄み渡った青空が広がっていた。

それは、死神が拒絶した世界の、それでも美しい、新しい一日の始まりだった。

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