『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】 作:いっかず
女武闘家が光の中に消え、廃邸の最奥に静寂が戻ったその瞬間。
重なり合う瓦礫の山がガラガラと崩れ、その影から、血に汚れた白い礼服を纏った男が這い出してきた。
ヴァンパイアロード。
二万あった命のストックを全て削り取られ、いまやその魂に灯る火は、風前の灯火となった最後の一機のみ。だが、その醜悪な自尊心だけは、霧散することなくそこに留まっていた。
「……クハハ。よくやったな、冒険者共。礼を言わねばならんな」
吸血鬼は、折れた脚を魔力で強引に繋ぎ合わせながら、よろよろと立ち上がった。その赤い瞳には、一人の少女が命を懸けて守り抜いた尊厳への敬意など、一片も存在しなかった。
「……おかげで、この私も首の皮一枚で繋がった。あのまま死神に掃除され続けていれば、今頃は私の千年の歴史も、ただの塵として消え去っていたところだ。実に愉快だよ、愛だの絆だのという不純物が、これほどまでに役に立つとはな」
彼は、女神官の腕の中で物言わぬ骸となった女武闘家を一瞥し、不快げに鼻を鳴らした。
「……フン、この街もしばらくは家畜小屋には使えんな。死神の衝撃で半分が更地になり、残った連中も恐怖で味を落としている。……去るとしよう。どこか別の、まだ『絶望』を知らぬ平和な街を……新たな獲物として選び直さねばならん」
吸血鬼は、自らの身体を霧に変え、夜明けの空へと逃げ延びようとした。
彼にとって、この一週間の惨劇も、司祭の執念も、そして女武闘家の死も。
すべては、自分が生き延びるための「都合の良い余興」に過ぎなかったのだ。
「……待て」
低く、地を這うような声が、吸血鬼の足を止めた。
鉄兜を被り直し、再び「小鬼殺し」としての貌を取り戻した男が、血に濡れた短剣を手に、静かに立ち上がっていた。
その隣では、妖精弓手が弓を引き絞り、鉱人道士が呪文の触媒を握りしめ、蜥蜴僧侶が竜牙刀を抜き放っていた。
「…………何だ? まだ何か用か、下等な人間よ。命を救ってやったのだ、そのままそこで泣きじゃくっているがいい」
「……お前の命は、あと、いくつだ」
ゴブリンスレイヤーの問いに、吸血鬼は嘲笑いながら答えた。
「……ッ、ハハ! まさか、この私を討つなどと冗談を言うつもりじゃなかろうな?」
ヴァンパイアロードは、足を止めて嘲笑った。
「身の程を知れ! 如何に残り一機とは言え、私は数世紀を生きる真祖だぞ! 七人の金等級を喰らい、死の理を統べるこの私を、お前たち如きのなまくら刀で殺せると思っているのかッ!!」
「……二万は無理だ」
ゴブリンスレイヤーが、低く、無機質な声を響かせた。
「だが。……一回なら、殺せる」
「……何だと?」
「あいつが、二万回殺して、お前をそこまで引き摺り下ろした。……あいつが掃除し残した最後の『ゴブリン』……」
ゴブリンスレイヤーが、銀の短剣を逆手に構えた。
「……俺たちが、片付ける」
「……クク、馬鹿め。死神との戦いで力を使い果たしたのはお互い様だ! 残り一機? それで十分よ。満身創痍の貴様ら『雑魚』など、指先一つでひねり潰して――」
「――そうは問屋が卸さないぜ、吸血鬼さんよ」
軽薄だが、確かな殺意を孕んだ声が静寂を切り裂いた。
「なっ……!?」
吸血鬼が振り向くより早く、一本の銀の長槍が風を切り、彼の足元の石畳を深く穿った。
「ゴブリンスレイヤー、随分と派手にやったじゃねえか。街の半分が更地だぜ」
瓦礫の山を飛び越え、不敵な笑みを浮かべて現れたのは槍使いだった。その背後には、大剣を肩に担いだ重戦士、凛とした佇まいの女騎士、そして煙管をくゆらせながら虚空を見つめる魔女が続いていた。
「……お前たちまで」
ゴブリンスレイヤーが短く応える。重戦士は吸血鬼を威圧するように一歩前に出た。
「受付嬢から聞いたぜ。もし、お前達が死神を止めることができたら……その後に這い出してくる『ゴブリン』にトドメを刺してくれ、とな。あいつ、泣きそうな顔で頼んできやがってな。断れるわけねえだろ」
「遅くなってすまない、ゴブリンスレイヤー」
女騎士が盾を構え、吸血鬼の退路を塞ぐように展開する。
「街道や街の各所に放たれた眷属どもの掃討に時間を取られた。……だが、これで最後の一匹のようだな」
「…………夜は、明けたわ」
魔女が煙管を仕舞い、その指先から白銀の魔力火花を散らせる。
「貴方の……隠れるための闇は……もう、どこにも、ない……」
槍使いが槍を抜き取り、穂先を吸血鬼の喉元へピタリと向けた。
「おい、ゴブリンスレイヤー。こいつのストック、あと『一機』なんだろ?」
ゴブリンスレイヤーは、血に濡れた鉄兜を一度だけ揺らした。
「……ああ。あと一回殺せば、二度と起き上がらない」
「なら決まりだ。……二万回もあの子に殺されて、まだ学習してねえのかよ。銀等級がこれだけ揃って、お前みたいな手負いの害獣を逃がすとでも思ったか?」
「…………ッ、貴様らァ!!」
ヴァンパイアロードの顔が、初めて恐怖と屈辱で歪んだ。
目の前にいるのは、彼が「家畜」と見下していた人間たち。しかし、彼らは一人一人がこの街の平和を背負う、歴戦の銀等級冒険者。
死神という名の天災によって、二万の命を全て削られ、防護の術式を剥ぎ取られた今。
彼が対峙しているのは、もはや「捕食される弱者」ではなく、「最後の一片を掃除しに来た処刑人」の群れであった。
「――愚かなッ! この私が本気で逃げられぬと思っているのか! 追えるものなら追ってみよ!!」
ヴァンパイアロードが叫び、その肉体が瞬時に輪郭を失う。物理攻撃を一切無効化し、隙間を縫って街の外へと逃走するための最終手段――『霧化』。
「……逃がさない」
背後で死神を抱いていた女神官が、震える足で立ち上がった。彼女の瞳には、友の命を弄ぼうとした怪物への、静かな、けれど決して揺るがない断罪の意志が宿っていた。
女神官は聖杖を高く掲げ、暁の空に届かんばかりの祈りを捧げる。
「《いと慈悲深き地母神よ、闇に迷えるわたしどもに、聖なる光をお恵みください》!!!」
「――『聖光(ホーリーライト)』!!!」
――――――――カッ!!!!!!
廃邸を埋め尽くした黄金の爆辞を上書きするように、一点の穢れもない純白の閃光が放たれた。地母神の奇跡は、逃げようとした不浄な霧を隅々まで焼き払い、吸血鬼の術を根底から強制解除させる。
「ぎ、あぁぁぁぁぁぁッ!? 目が、身体が……焼ける……ッ!!」
光に焼かれ、霧から実体へと無理やり引きずり戻されたヴァンパイアロード。
もはや、彼を守る命も、逃げるための影も、どこにも残されてはいなかった。
「――仕留めるぞッ!!」
重戦士の怒号が響く。
「《粘糸(スパイダーウェブ》!」
魔女の呪文が吸血鬼の四肢を粘着性の糸で縛り上げ。
「《石弾(ストーンブラスト)》!」
鉱人道士の放った石弾が吸血鬼の膝を砕く。
「これでおさらばよ、化け物ッ!!」
「拙僧の道、これにて不浄を断つ!」
妖精弓手の矢が左目を貫き、蜥蜴僧侶の竜牙刀が右腕を斬り飛ばす。
さらに女騎士の盾による強烈な一撃が吸血鬼の姿勢を崩し、そこへ槍使いの神速の連撃が胸部をズタズタに切り刻んだ。
「が、はっ……、ぁ……。な……ぜ……。この、私が……!!」
ヴァンパイアロードが膝を突き、崩れ落ちる。
その喉元へ、一歩、音もなく近づいたのは鉄兜の男だった。
ゴブリンスレイヤーは、吸血鬼が二万回の死を経て最後に行き着いたその絶望を、慈悲もなく見下ろした。
「……二万一回目だ。……あいつの掃除、これで終わりだ」
銀の短剣が、吸血鬼の心臓を、寸分の狂いもなく貫通した。
「…………ガッ…………!!!」
ヴァンパイアロードは断末魔を上げる暇もなく、その肉体を灰へと変え、夜明けの風に吹かれて霧散していった。
百年以上にわたり王国の影で君臨し、数多の英雄を喰らってきた伝説の怪物の、あまりにも徹底した、無機質な「精算」の瞬間であった。
静寂。
戦いの熱気が去った後、廃邸の向こうから本物の太陽が顔を出した。
黄金の陽光が、ボロボロになった銀等級の冒険者たちを、そして静かに眠る一人の少女を、優しく照らし出す。
「……終わったわね」
妖精弓手がポツリと呟いた。
槍使いや重戦士たちは、言葉を交わすことなく、ただその朝陽を眩しそうに見つめていた。
ゴブリンスレイヤーは血のついた短剣を拭い、鞘に収めた。
それから、女神官の元へと歩み寄り、彼女の肩をそっと叩いた。
「……行くぞ。……あいつを、連れて帰る」
「…………はい。…………はい!」
女神官は涙を拭い、微笑んだ。
不浄は消え、世界は再び「日常」という名の遊戯を開始しようとしていた。
一人の少女が守り抜いた、このあまりにも不器用で、美しい朝。
冒険者の誇りを胸に、彼らは一歩、安らぎの待つ場所へと歩み出した。