『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】 作:いっかず
北方戦線、北方軍総司令部。
その場所を支配していたのは、勝利への渇望でも敗北の恐怖でもなく、ただ「神話の完成」を待つ異常な静寂であった。卓上には、南方の辺境の街から送られてくる魔力波形を映し出す水晶球が据えられ、そこには臨界点へ向かって脈動を早める不吉な赤黒い光が満ちていた。
「……予定時刻だな」
北方軍司令が、自身の古傷をなぞりながら重く口を開いた。
「死神が臨界点を迎えたか。……あの娘の瞳が、世界すべてを『ゴブリン』と定義したか」
その問いに答えるように、影の中から第四師団長が歩み出た。彼が手にした報告書は、魔導通信のノイズに濡れている。
「……南方の観測班より入電。……いえ、司令。死神が臨界に達することはありませんでした」
「何だと? 司祭が言ったタイムリミットを過ぎたはずだぞ」
第四師団長は一瞬言葉を切り、感情を押し殺した声で告げた。
「……死神は、死亡しました。臨界反応、および生命反応の完全な消失を確認」
「な……ッ!? 馬鹿なッ!!」
傍らにいた参謀が、机を叩いて絶叫した。
「あの化け物を一体誰が! 勇者は未だに北で深淵守護旅団と切り結んでいるのだぞ! 聖剣の届かぬ場所で、あの『絶望の拒絶』をねじ伏せられる存在など、この四方世界にいるはずがない!!」
「……死神とぶつかっていた、あの怪物か?」
第一迅雷旅団長が、空戦の常識をなぞるように推測を口にした。
「二万の命を持つという吸血鬼……。奴が死に物狂いで、相打ちにでも持ち込んだというのか?」
「いいや、それもあり得んな」
第二師団長が、冷徹に水晶の数値を解析する。
「記録を見ろ。吸血鬼は一方的に磨り潰されていた。……あれは武力で殺せるものではない。神が定めた『拒絶』という理を、さらに上回る『理不尽』をぶつけない限り、彼女の檻は壊せないはずだ。……勇者以外に、そんなことが可能な者など……」
重苦しい困惑が広間を包む中。
ただ一人、軍人としての「規律」と「魂の格」を見つめていた第三鋼鉄旅団長が、静かに南の空を仰いだ。
「…………あの、地母神の娘か」
「何だと、第三鋼鉄旅団長?」
「司祭が最後に執着した『鍵』。……あの日、あの洞窟で、彼女を見捨てずに救い出したという、あの小さな神官だ。……彼女の抱擁だけが、死神の指針に検知されなかった。……不浄な破壊ではなく、無垢な『情愛』という毒が、死神というシステムを内側から自壊させたのだ。……それ以外に、説明がつくまい」
旅団長の言葉に、司令部は凍りついたような沈黙に陥った。
十二万の軍勢も、二十年の執念も、神話の邪竜も。
それらすべてが跪いた「死神」を終わらせたのが、武器すら持たぬ一人の少女の「温もり」であったという事実に。
「…………」
司令はゆっくりと椅子に深く腰掛けた。
「……司祭の負けだ。……そして、我らの負けだ。……あの娘は、死神として世界を呪う道ではなく。……一人の人間として、仲間の腕の中で死ぬことを……自ら選び取ったのか」
北方軍司令部にとって、それは「戦略兵器の喪失」という敗北の報せであったが、一人の武人である彼らの心の奥底には、敗北への屈辱よりも、一人の少女が最後に見せた「意地」に対する、奇妙な敬意が宿っていた。
「……あの娘が自害したことで、南方の脅威は消えた。だが同時に、勇者の一党が南に引き返す望みも、これで完全に潰えたな」
北方軍司令は、卓上に広げられた地図から、死神を象徴する黒い駒を静かに取り除いた。彼の計算では、南が炎上すれば勇者は王都を守るために撤退するはずだった。だが、少女が選んだ「死」という名の救済が、最強の駒をこの北の戦場に繋ぎ止めてしまったのだ。
「……各師団、現状を包み隠さず報告せよ。もはや虚偽の戦果で飾る余裕はない」
司令の低く、重苦しい呟きが天幕の空気を凍らせる。彼は顔を上げ、残された将帥たちを鋭い眼光で射抜いた。
「……王都にて孤立し、内部工作を続けていた第三密偵連隊が……大司教の手によって全滅しました。王都の門が内側から開く可能性は、零となりました」
第四師団長の声には、もはや焦りすら残っていない。
「制空権も失われました。残存するワイバーンは500足らず。第三迅雷旅団は、補給路の断絶によりワーグの食糧が尽き……飢えた獣たちが味方の兵を食らい始めております」
第一迅雷旅団長が、折れた鞭を握りしめて報告を繋ぐ。
「度重なる遅延戦闘により我が旅団の騎兵は半数を喪失。殿の第四鋼鉄旅団も弾薬を使い果たしました。陣形を維持できず、現在、組織的な退却を開始しております」
第三鋼鉄旅団長の言葉は、北方軍の誇りであった「鋼鉄の盾」が砕けたことを意味していた。
「深淵守護旅団に、我が師団の全魔力を投じて支援を行っておりますが……。勇者の聖剣が放つ余波を相殺し続けるには、術は残り二日分が限界です」
第二師団長が、冷徹な数値を突きつける。
「……よく持ちこたえてくれた。各師団の奮戦には感謝する」
司令は自らの古傷をなぞり、天を仰いだ。
「だが、まだ時間が足りん。全軍を北の深淵へ逃がし、組織を再編するには、あと三日の時間が必要だ」
その刹那、深淵守護旅団の伝令兵が天幕の中に飛び込み、死の宣告に等しい報告を上げた。
「――報告! 第2守護連隊長、戦死! 旅団の損耗率は既に5割を突破しました!」
「……旅団長は、どうした」
北方軍司令の声は、冬の枯れ木のように乾いていた。
「はっ……! 旅団長は未だ勇者と交戦中ですが、聖剣の出力に徐々に押され始めております。閣下よりの言付けによれば……『後半刻が限界』とのこと!」
「……あの、空間そのものを断つ『無量大数』ですら、光の化身を斬り伏せられぬとはな」
第二師団長が、信じられぬという風に震える手で魔導書を閉じた。
「早急に救援を送らねば守護旅団は全滅だ。そうなれば、丸裸になったこの司令部は……防壁もなしに、あの勇者の光に直接焼かれることになるぞ」
司令は地図を見つめたが、盤上に残された「黒い駒」は数えるほどしかない。
「しかし閣下! もはや勇者の一党を足止めできる戦力など、我が軍には残されておりません! 予備兵力も、魔獣も、すべて使い果たしました! 物理的に不可能なのです!!」
参謀が悲鳴のような声を上げた、その時だった。
天幕の入り口を、死臭を孕んだ冷たい風が吹き抜け、一人の男が影の中から音もなく現れた。
「――ククク。嘆くことはありますまい。参謀殿」
顔色の悪い肌、不気味に発光する緑の瞳。
現れたのは、第二師団第四呪詛旅団長。
彼の率いる五千名の死霊術師たちは、北方軍において「掃除屋」あるいは「墓荒らし」と蔑まれ、その残忍さと命を冒涜する戦術ゆえに、味方であるはずの第一師団や第三師団の武人たちからも忌み嫌われていた。
「第四呪詛旅団長か……。貴公、配置を離れてここで何を企んでいる」
北方軍司令が、嫌悪感を隠さず低い声で問う。
「企むとは人聞きの悪い。私はただ、軍人としての責務を果たそうとしているだけですよ」
旅団長は骨のように白い指先で、自身の持つ不浄な杖をなぞった。その緑色の瞳には、戦友の死を悼む色など微塵もなく、ただ「素材」の山を前にした職人のようなぎらついた光が宿っている。
「……勇者一党を足止めするための戦力がない? 予備兵力が尽きた? お言葉ですが閣下、それは『生きた兵』に限った話でしょう」
その手に握られた不浄な杖が、死者の魂を弄ぶかのように不気味な光を放った。
「この1ヶ月の激戦で、王都の平原には数万の死体が積み上がっております。我が軍の巨兵、魔獣、暗黒騎士……。そして、王都の騎士共。……それら全てを、我ら五千の術師が繋ぎ合わせれば、黄金の光さえも飲み込む『不落の肉壁』が完成します」
「……死体を、弄ぶというのか」
第三鋼鉄旅団長が激昂し、軍刀の柄に手をかけた。
「我らが戦友を、誇り高き戦士たちを、貴様の操り人形にするというのかッ! 許さぬぞ!!」
「誇り? クク、そんなもので勇者の剣が止まるのかね?」
第四呪詛旅団長は、冷笑を浮かべて暗黒騎士をあざ笑った。
「死んだ者は文句を言いませんよ。……彼らは死してなお、北方軍のために、我が司令閣下の退路のために戦い続けられる。それこそが戦士の本望というものではありませんか?」
「きさま……ッ!」
「やめろ、第三鋼鉄旅団長」
司令の重苦しい一喝が、その場の殺気を抑え込んだ。
「…………四半刻だ。深淵守護旅団長が力尽きる前に、それだけの時間を稼げるか」
「クク……。十五分どころか、数時間は稼いで見せましょう……救済を説く勇者が、かつての王都の騎士達が悲鳴を上げて積み重なった『肉の壁』を、果たして躊躇なく斬り捨てられるか……。見ものではありませんか」
司令は、卓上に広げられた「全軍撤退」の図面を血の滲むような思いで見つめ、重く、苦渋に満ちた決断を下した。
「……致し方あるまい。死者の力を借りてでも、生きている兵を北へ逃がさねばならん」
司令の震える言葉を受け、その直属の上官である第二師団長が、氷のような眼差しを第四呪詛旅団長へと向けた。
「任せたぞ、第四呪詛旅団長。……これより戦場全域の死体を貴公の術式で起動させ、勇者一党に対する『肉の壁』を構築せよ。我が軍の命運は、ひとえに貴公らの術にかかっている」
「……クク、御意に。地獄の住人を増やすのは、我らの最も得意とするところでございます」
「……主力の撤退が完了次第、深淵守護旅団を収容し、貴公らも速やかに引き揚げよ。無駄死にはするな。……いいな」
第二師団長の冷徹な厳命に、第四呪詛旅団長は深く、恭しく頭を垂れました。
「心得ております。……全ては北方軍の再起のために」
――司令部天幕の外。
天幕を離れ、自軍の陣地へと戻る道すがら。第四呪詛旅団長の足取りは、敗色濃厚な軍の将校とは思えぬほどに軽く、弾んでいた。背後に控える第一死霊連隊長が、不審げに声を潜めて問いかける。
「……旅団長。直ちに全アンデッドを前線へ? 予定通り、深淵守護旅団の援護に向かうのではないのですか?」
その問いに、旅団長は足を止め、月光の下で醜く口端を吊り上げる。
「――援護? クク、ハハハハッ!! 馬鹿を言え。誰がそんな無益な死に損ないを助けに行くものか」
「な……!? しかし、師団長閣下からは軍令が……」
「最早、この戦などどうでもいい。……勝とうが負けようが、北方軍がどうなろうが知ったことか」
旅団長は懐から、司祭から横流しされた「女武闘家の解剖記録」を愛おしそうに取り出し、その紙面を舌でなぞった。
「北の空を焼く勇者に、使い古しの死体をぶつけたところで、一秒の時間稼ぎにもならん。……だが、南はどうだ? ついにあの『死神』が果てたのだぞ。司祭さえも制御しきれなかった、神話の破壊力を宿したあの肉体……。今なら、無防備なままあの街に転がっている」
旅団長の瞳に、暗緑色の狂気が宿る。
「目指すは、辺境の街だ。……勇者がこの北のゴミ共を焼いている間に、我らは南へ飛び、最高の至宝を回収する。……あの娘さえ手に入れば、我らは北方軍などという枠を超え、世界を統べる死の軍団を築けるのだ!」
「…………!!」
第一死霊連隊長は、そのあまりにも巨大な背信に戦慄したが、既にその魂は旅団長の呪縛の中にあった。
「……全大隊に伝令。……北の戦場には、動ける最低限のゾンビだけを残せ。本隊はこれより、全速力で南下を開始する。……目指すは、辺境の街。死神の眠る、不浄の揺り籠だ!!」
北方軍の「殿」を任されたはずの五千の死霊術師たちは、戦友を見捨て、軍令を破り、ただ己の強欲だけを道標にして、夜の闇へと消えていった。