『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】   作:いっかず

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第105話:救済の転進―聖剣、南へ―

北方軍本陣、中央。

幾重もの防衛線を突破し、ついに一行の目前には、巨大な魔獣の皮で組まれた司令部大天幕がその姿を現した。立ち込める黒い瘴気を、勇者が手にする聖剣の余光が切り裂いていく。

 

「……見えたぞ! あの黒い大天幕が司令部だ!」

 

剣聖が愛刀を構え、鋭い踏み込みを見る。その瞳には、1月におよぶ激戦に終止符を打たんとする、烈火の如き闘志が宿っていた。

 

「油断しないでください。深淵守護旅団長を倒したとはいえ、本陣にはまだ北方軍司令、そして第ニ、第四師団長が残っています。彼らはいずれも二十年前の『邪竜』を生き延び、この軍を再建した歴戦の強者……。最期の足掻きはこれまでの比ではないはずです」

 

フードの下、賢者が冷徹に警告を発した。彼女の魔晶石は、天幕の中から放たれる、極限まで圧縮された混沌の魔力反応を捉えていた。

 

「……大丈夫。これで、本当に最後の戦いだ」

 

勇者が聖剣を正眼に構え、天幕の入り口へと一歩を踏み出した、まさにその瞬間。一行の足元に、王都の紋章を描いた巨大な魔導通信陣が展開され、強制的な通信が割り込んできた。

 

『――聞こえるか、勇者よ。国王である』

 

重厚で、けれど切迫した国王の声が、戦場の寒風を貫いて響いた。

 

「陛下……!? 司令部の攻略は今まさに――」

 

『……司令部の攻略は、現時刻を以て中止せよ。全速力を以て、直ちに南方……あの辺境の街へ転進せよ!!』

 

「なっ……何故です!? あと一歩、あと一歩でこの戦争は終わるというのに!!! 今ここで司令を逃がせば、北方軍は再び力を蓄えて戻ってきます! これまでの犠牲を無駄にしないためにも、今ここで根を断たなければ……!!」

 

剣聖が驚愕と憤りを露わに叫ぶ。しかし、国王の声には、それを塗り替えるほどの「不浄への忌避感」が籠もっていた。

 

『……第二師団第四呪詛旅団が、軍令を破って南下を開始した。奴らは北の敗北など眼中にない。……死神が自害し、人の心を取り戻して逝ったその亡骸を、屍肉喰らいの素材として略奪しに向かっているのだ!』

 

「っ……!!」

 

勇者の瞳が、驚愕に揺れた。

 

『勇者よ……。戦の勝敗は既に決した。だが、一人の少女が命を賭して守り抜いた「人間としての誇り」が、不浄な術師たちの手に落ちようとしている。……あの子の眠りを、地獄の続きに変えさせてはならん。大司教の……そして、あの子を守り抜いた冒険者たちの願いだ。……救ってやってくれ、あの子を!!』

 

勇者は、すぐ目の前にある「北方軍司令部」を見つめた。

いまここで踏み込めば、軍事的な完全勝利が手に入る。

だが、その間に、安らぎを得たはずの一人の少女が、再び地獄へと引きずり戻される。

 

「………………わかった」

 

勇者は、目の前にそびえ立つ敵本陣に背を向けた。

 

「勇者様!?」

驚く賢者。しかし、勇者の瞳には、もはや戦場への未練など一片も残っていなかった。

 

「……あいつらは、逃がしてもまたボクが斬ればいい。……でも、あの子の眠りは、今守らなきゃ……二度と取り戻せないんだ」

 

黄金の残光が、天を衝くように反転した。

北方軍司令部という「勝利」に背を向け、一人の少女の「尊厳」を守るために。

白金等級の奇跡が、今度は南の地平へと向かって、雷鳴の如く走り出す。

 

「……待ってて、武闘家さん。今度は、ボクが間に合ってみせるからッ!!!」

 

勇者一党の転進。

それは、一国の勝利よりも一人の少女の尊厳を選んだ、白金等級としての、そして「冒険者」としての誇り高き選択であった。

 

――北方軍司令部、中央大天幕。

内部には幾重もの防御結界が張られ、生き残った親衛隊と将帥たちが、死罪を覚悟した面持ちで武器を構えていた。外からは、深淵守護旅団を磨り潰した勇者の黄金の波動が、天幕を物理的に震わせながら迫りくる。

 

もはや、軍略も、罠も、数も意味をなさない。

彼らが待っているのは、死神による「世界の掃除」か、あるいは勇者の聖剣による「完全な消滅」か。そのどちらかであった。

 

「――来るぞ。各員、最後の一秒まで混沌の意地を見せよ!!」

 

第四師団長が影の刃を抜き放ち、入り口を睨み据えた、まさにその時。

 

「……? 勇者が……、突如として足を止めた?」

 

師団長の、影を通じた超感覚が「消失」を捉えた。天幕のすぐ外まで肉薄していたはずの、あの太陽のような殺気が、霧が晴れるように霧散したのだ。

 

「馬鹿な……ッ!? 勝利を目前にして、奴らが退く理由などどこにある!」

 

参謀が信じられぬという顔で叫ぶ。だが、傍らで魔導計を凝視していた第二師団長が、戦慄と共にその「理由」を読み取った。

 

「……空間転移の発動を確認。指向性は、南。……勇者の一党、本陣攻略を放棄し、全速で辺境の街へ向かいました」

 

「南だと……? なぜだ、あと数秒で我らの首が獲れたというのに!」

 

第二師団長は、苦渋に満ちた表情で北方軍司令を見上げた。

 

「……第四呪詛旅団です。あの屍肉喰らい共の放つ『不浄な執念』が、ついに勇者の逆鱗に触れたのでしょう。……王都の連中、我らへのトドメよりも、死神の遺体の尊厳を優先したというわけですな」

 

「…………」

 

司令は、抜いていた剣をゆっくりと鞘に収めた。

その瞳には、助かった安堵ではなく、ライバルであった王都の統治者に対する、複雑な感情が宿っていた。

 

「……そうか。国王も、あの愚か者共の暴挙を無視できなかったか」

 

司令は自嘲気味に、けれど鋭く、敗残兵たちを見渡した。

 

「一人の少女の安らぎを守ることは、戦争の勝利よりも重い『出目』だったというわけか。……司祭が遺した死神の価値が、よもや我らの命を救う囮になるとはな」

 

司令は、軍帽を深く被り直した。

 

「――この機を逃すな。全軍、現時刻を以て完全に離脱せよ! 第四呪詛旅団を勇者への供物とし、我らは北の聖域へと帰還する!」

 

「はっ!!」

 

最強の光が南へ走り、最悪の不浄がその光に焼かれるための時間を稼ぐ。

北方軍の将帥たちは、自分たちが産み落とした「死神」という悲劇の幕引きを、ただ一人の少女の「眠り」に委ね、雪嵐の向こう側へと姿を消した。

 

理不尽な救済と、合理的な敗走。

北方の戦場は、一人の少女の尊厳が世界を動かしたという奇跡の余韻だけを残し、静かに、そしてあまりにも虚しく終焉を迎えた。

 

 

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