『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】 作:いっかず
辺境の街を覆っていた赤黒い絶望の雲は去り、雲間から差し込む柔らかな陽光が、半壊した石畳を照らしていた。避難先から戻り始めた住民たちは、瓦礫を片付け、あるいは再会を喜び合い、街には少しずつ「日常」の音が戻りつつあった。
辺境の街を一望できる、陽当たりの良い静かな丘。
そこでは、戦いを終えた一党が、静かに横たわる女武闘家の亡骸を囲んでいた。
「……ここなら、お日様がよく当たりますね」
女神官が、新しく仕立て直された白い修道服に身を包んだ女武闘家の遺体を見つめ、静かに呟いた。死神の禍々しい気配はもうどこにもない。そこに横たわっているのは、あの日、笑顔で彼女を誘った時と同じ、一人のうら若き冒険者の姿だった。
「そうね。ここは風通しもいいし、街もよく見える。……あの子、最期に自分の命を懸けて街を守ったんだもの。これくらいの特等席、当然よね」
妖精弓手が、風に長い耳を遊ばせながら頷く。彼女は精霊たちがこの丘を祝福しているのを感じ取っていた。
「……みんな、本当にお疲れ様」
温かい水筒を持ってきた牛飼娘が、泥に汚れた仲間たちに寄り添う。彼女は知っている。彼らが守り抜いたのが、単なる街ではなく、一人の少女の「魂の尊厳」であったことを。
「……穴は掘り終えたぞ。土の精霊も、彼女を受け入れる準備はできとるようじゃ」
鉱人道士が、自らの手で掘り進めた埋葬の地を杖で指し示した。彼は、彼女に刻まれた呪いが完全に消え、ただの清らかな魂に戻ったことを、土の感触を通じて確信していた。
「感謝いたします。……拙僧が、古の理に則り、丁重に祈りを捧げましょうぞ。魂が迷わず、黄金の草原へと辿り着けるように」
蜥蜴僧侶が数珠を鳴らし、重厚な祈りの声を響かせ始めた。
ゴブリンスレイヤーは、少し離れた場所で、静かに彼女の傍らに跪いた。
彼は懐から、ボロボロになった布に包まれた「折れた剣の破片」を取り出した。あの日、彼女が大切に握りしめ、自分を地獄に繋ぎ止める呪いとして使っていた、青年剣士の形見。
「…………」
彼はその破片を、彼女の拳の隣に、そっと置いた。
「……もう、握りしめる必要はない」
鉄兜の奥で、赤い眼光が穏やかに揺れる。
「これからは……仲間に、直接持っていってやればいい」
女神官は、彼女が最期に咲かせた「人の心」を象徴するように、純白の蓮の花をその胸元に供えた。
「……地母神様の元で、今度こそ、安らかに眠ってください……もう何も怖がらなくていいんですよ……」
女神官の祈りが風に溶けていく。一党が、静かに土を被せようとした、その時
「――大変です! ゴブリンスレイヤーさん!! 皆さん!!」
丘の麓から、息を切らせ、血相を変えた受付嬢が駆け上がってきた。彼女の手には、ギルド本部から届いたばかりの緊急書簡が握りしめられていた。
「ギルド本部より緊急入電です! 北方軍の一個旅団が、この街に向かって急速に進軍中。既に街の目と鼻の先まで迫っています!」
「そんな……!? 第二密偵連隊は、既に北へ撤退したはずです!」
女神官が叫び声を上げる。主力が去った今、なぜ新たな軍勢が。受付嬢は忌々しげに、その「最悪の正体」を口にした。
「第四呪詛旅団……! 第二師団に属する、死霊術師たちの専門部隊です!」
「……第二密偵連隊とは、また別の意味で最悪の連中ね」
妖精弓手が、吐き気を催すような表情で耳を伏せた。
「噂に聞く屍肉喰らい共か。彼奴ら、死者の尊厳を弄び、その肉体と無念を素材として弄り回すことを至上の喜びとする外道共じゃ。北方の戦場でも、味方の死体さえも駒として使い潰していた連中よ」
鉱人道士が瓢箪を強く握りしめ、地面を叩いた。
「左様。魂の巡りを汚し、骨と肉を兵器として繋ぎ合わせる……まさに冥府の不浄にございますな。武人の道からは最も遠い連中です」
蜥蜴僧侶が鋭い眼光で南下する影を捉える。
一党の視線が、再び静かに眠る女武闘家の亡骸へと集まった。
「……そうか。奴らは、あの娘の『遺体』を回収に来たのか」
「…………!!」
女神官の肩が、激しい怒りで震え出した。
「……そんな。そんなの、許せません……! ようやく……ようやくあの子は静かな眠りにつけたばかりなのに! 北方軍は死んでなお彼女を食い物にする気ですか……ッ!」
「……司令部の意向ですか? 命を絶った彼女を死霊術で無理やり引き戻し、アンデッドの『死神』として、再度王都を強襲させるつもりなのですかな」
蜥蜴僧侶が、重厚な声を響かせる。彼の目は、既に北の空に渦巻く不浄な雲を捉えていた。しかし、受付嬢は首を横に振った。
「いいえ。どうやら旅団長の独断専行のようです。第二師団の本隊を含む北方軍の主力は、既に全速で北の最果てへと撤退しています。第一師団の残党や深淵守護旅団が、自らの血を流して司令部の退却路を必死に守っているというのに……」
受付嬢は、報告書を持つ手を怒りで震わせた。
「あの死霊術師たちは、死地で戦う味方を見捨て、自分たちの『研究素材』……あの子の遺体を回収するために、勝手に戦列を離脱してこの街へ向かっているのです。彼らにとって、戦友の命よりも、死神の遺体の方が価値があるというのでしょう」
「……自分たちの仲間が、命懸けで戦っているのに……?」
牛飼娘が、信じられないものを見るような目で呟いた。彼女にとって、帰る場所を守り、仲間を想うことは当たり前のこと。それを踏みにじる行為は、何よりも理解しがたい非道であった。
「味方を見捨てて死体漁りだなんて……。北方軍にもプライドのある連中がいたけど、あいつらだけは別物ね。反吐が出るわ」
妖精弓手が、不快げに弓の弦を強く弾いた。
「……フン、小鬼共と同じじゃ。彼奴らには仲間意識などありゃあせん。あるのは、目の前の肉を、目の前の利を奪い合う『強欲』だけよ。どれほど大層な軍服を着ていようが、中身はあの緑の獣共と変わらんわい」
鉱人道士が地面を強く踏みしめ、髭を震わせて吐き捨てた。
「……旅団の戦力は?」
ゴブリンスレイヤーは、抜いたばかりの短剣の刃を月光にかざし、淡々と問いかけた。その声に動揺はなく、ただ「標的」の数を測る冷徹さだけが宿っている。
「…腐っても、北方軍第二師団の一翼です。」
受付嬢が、魔導端末に表示される膨大な魔力反応を凝視しながら、絶望的な数値を口にした。
「…死霊術師が五千名。そして彼らが使役するアンデッドの軍勢は……少なくとも一万以上。いえ、進軍しながら付近の死体を取り込んでいるなら、その数倍に膨れ上がっている可能性もあります」
「冗談じゃないわよ。……一万以上のアンデッドに、五千の魔導師だなんて。いくらこの街の冒険者をかき集めたところで、どうにかできる相手じゃないわ」
妖精弓手が弓を強く握りしめ、冷や汗を拭う。銀等級の腕前であっても、万を超える「死なない軍勢」を正面から受け止めるのは、自殺行為に等しい。
「王都からの援軍は……? 騎士団の人たちは来てくれないの?」
牛飼娘が、一党を案じて受付嬢に縋る。だが、返ってきたのは残酷な現実だった。
「……無理です。王都軍の各騎士団は、北方の主戦線での激戦でボロボロです。負傷者の収容だけで手一杯で、南へ回せる兵力は一兵たりとも残っていません」
「ククク……。その通り。お前たちに勝ち目など、最初から存在せぬのだよ」
不意に、霧の中から複数の声が重なり合ったような、不快な高笑いが響き渡った。
空間が歪み、一人の男の幻影が空中に浮かび上がる。青白い肌に、骨のように白い法衣を纏い、無数の髑髏をあしらった杖を携えた男。
「………貴方が第四呪詛旅団長ですか」
女神官が、怒りに燃える瞳でその幻影を射抜いた。
「クク……。旅団長、か。よしてくれ。私は既に、あんな敗残兵共の群れからは離脱した。今の私は北方軍の一将官などではない。……死を統べる『死者の王』だ」
旅団長は骨の杖で女神官を指し示し、嘲笑うような声を響かせた。
「お前が司祭の言っていた『鍵の娘』だな。死神の心を溶かしたという、無垢なる慈悲の持ち主……。お前には心から感謝するぞ」
「感謝……ですって?」
「ああ。もし当初の予定通り王都での決戦が強行され、あの『死神』が勇者の聖剣に討たれていたら……死体の回収など絶望的だった。あの眩しすぎる光に焼かれれば、肉体も術式も一片の塵すら残さず浄化されていただろうからな」
「…………っ!」
「だがお前が、司祭の申し出を断り、あの娘の心を取り戻させ……自害に追い込んでくれたおかげで! 混沌の魔力と絶望が純粋に凝縮された、史上最強の『死体』を、五体満足な状態で手にできるのだ。お前の『慈悲』が、私のために最高の素材を磨き上げてくれたというわけだ。クハハハハッ!!」
「…………」
女神官の肩が、激しく震え始めた。
悲しみではない。
それは、死者の尊厳を泥で汚し、友の最期の決断さえも「好都合」と笑い飛ばす、この目の前の怪物たちに対する、魂の底からの拒絶。
「……貴方たちは。……貴方たちは、本当に……最低です」
女神官は、錫杖を握りしめ、立ち上がった。
「彼女は……武闘家さんは、誰かの道具になるために、あの日戦ったんじゃない。……貴方みたいな人たちのために、自分の心臓を貫いたんじゃないッ!!あの子がどれだけ苦しんで安らぎを得たと思っているんですか!!」
「安らぎ? クク、死者にそんなものは不要だ。あれほどの『拒絶』を宿した肉体、腐らせるにはあまりに惜しい。……私の手で、永遠に戦い続ける無敵の屍へと再誕させてやるのが、死霊術師としての最大の慈悲というものだ」
旅団長の幻影が、不気味に腕を広げた。
その瞬間、辺境の街の全方位から、不気味な紫色の魔力の煙が立ち昇った。
街を囲む森から、街道から、そして川の向こうから。生者の体温を憎む死者たちの軍勢――第四呪詛旅団のアンデッドたちが、地平線を埋め尽くすほどの数で這い出してきた。
「無駄な足掻きはやめろ。……既に辺境の街は、我が死霊軍によって完全に包囲された。私は無益な殺生は望まん。……大人しくその『死神』の遺体を引き渡せ。そうすれば、我らは即座に兵を引き上げよう」
旅団長は、獲物をいたぶるような笑みを浮かべ、最後通牒を突きつけた。
「だが、もし拒むというのなら……。この街の住民諸共、我が死霊軍の輝かしい一員に加えてやる。……逃げ場はないぞ、冒険者ども」
丘の上。墓標を守るように立つ一党。
女神官は、腕の中の友の遺体を、震える腕で強く抱きしめた。
妖精弓手は絶望的な数を前にして唇を噛み、蜥蜴僧侶と鉱人道士は武器を構え直す。
その静寂を、鉄兜の奥から響く、いつも通りの、あまりにも短い言葉が断ち切った。
「――断る」
「…………何だと?」
旅団長の声に、怒りよりも先に困惑が混じった。
「断る。……あいつはもう、お前たちの道具ではない。」
「……させません。これ以上、彼女を……あの子の心を、汚させたりなんて絶対にさせない!」
「クク……、ハハハハハッ!! 愚か者め!! たった数人の冒険者が、数万の死を相手に何ができるというのだ!!」
旅団長が、狂ったように杖を振り下ろした。
「殺せッ!! 生者を磨り潰し、死神の肉体を手に入れろ!! この街を、永遠に夜が明けぬ『墓場』に変えてやるのだッ!!!」
「「「オォォォォォォォォッ!!!」」」
数万のアンデッドが、唸り声を上げて一斉に突撃を開始した。
圧倒的な死の波が、街の門を、そして丘の上の小さな聖域を飲み込もうとした、その時――。
――――――――ドォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!
突如として、天を覆っていた暗緑色の死雲が、巨大な光の断層によって真っ二つに引き裂かれた。
「なっ……!? 上空から魔力反応!? 結界が破られただと!?」
旅団長が驚愕に天を仰いだ瞬間、黄金の雷鳴が丘の麓を直撃した。
衝撃波だけで最前列のアンデット数百体が塵となって霧散し、戦場に眩いばかりの「太陽」が舞い降りた。
「――そうだよ。その通りだ!」
光の粒子が舞い散る中。
背中に黄金の翼を広げ、手にした聖剣で不浄を焼き払いながら、一人の少女が立っていた。
白金等級冒険者――勇者。
北方の戦場を終わらせた本物の「奇跡」が、一人の少女の安らかな眠りを守るために、この丘へと降臨した。
「……死んでなお、彼女を汚そうとするの? そんなこと……ボクが、この聖剣が、絶対に許さない!」
勇者の瞳に、烈火の如き正義の怒りが宿る。
死霊の王と、神の愛し子。
真の最終決戦が、いま幕を開けた。