『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】 作:いっかず
肉の巨像、ゴルゴタの鼓動が激しさを増す。五千の術師の残留思念が不協和音を奏でる中、勇者が聖剣を正面に構え、その輝きを一点に収束させた。
「……何をする気だ? 言ったはずだぞ、斬撃は無意味。この肉の厚みは、貴様の剣撃が中枢に届く前に全ての運動エネルギーを飲み干す」
操縦席の第四呪詛旅団長が、嘲笑と共に魔水晶を覗き込む。
「成る程。剣が通らぬのなら奇跡か。治癒の奇跡はアンデットにとってはこの世で最も忌まわしき劇薬……。白金等級の出力で叩き込めば、外装を溶かせるかもしれんな」
ゴルゴタの表面にある数万の口が、一斉に不気味な笑みの形に歪んだ。
「だが忘れたか!! 我がゴルゴタには五千の魔術師の魂が組み込まれている! 貴様が奇跡を練り上げる間に、この数万の口が奏でる『対抗詠唱』で術式を内側から崩壊させてしまえば……貴様の光など、ただの眩しいだけの霧に過ぎん!!」
旅団長が骨の杖を振り下ろすと、ゴルゴタの全身から、空気を直接腐らせるような不浄な「ハミング」が響き始めた。それは勇者の祈りをかき消し、神との対話を遮断するための、地獄の不協和音。
「さあ、祈ってみせろッ!! その祈りごと、絶望の合唱で塗り潰してやるッ!!」
しかし。
黄金の光の中に立つ勇者は、呪文を唱えることすらしなかった。
彼女が聖剣を握りしめると、聖剣の刀身が透明な「熱」を帯びて揺らぎ始める。
「……あんたは、本当に何も分かってないんだね」
勇者の瞳が黄金に染まり、彼女の周囲から「音」が消失した。
対抗詠唱の不協和音が届かない。いや、彼女の存在そのものが、不浄な音を拒絶していた。
「…………え?」
旅団長の顔が、驚愕に引き攣った。
ゴルゴダが放った渾身の不協和音が、勇者の周囲数メートルで、まるで清らかな水に落ちた墨のように、一瞬で浄化され、消えていく。
「馬鹿な……数万人の詠唱だぞ!? 何故、干渉すらできないッ!!」
「……あんたは、生贄にした五千人の部下や、数万の死人の声を無理やり重ねて、ボクを止めようとしているけど。……ボクの聖剣にはね、あんたが数えたものよりずっとたくさんの人の『願い』が乗ってるんだ」
「何だと……?」
「この1ヶ月、北方軍の恐怖に耐えながら、誰かを信じて祈った王都の人たちの声。……ボクを信じて送り出してくれた、国王陛下や大司教様、騎士団の人たちの想い。……そして最後に自分を許して、誰かの温もりを選んで眠りについた……あの子の、たった一つの『願い』も」
勇者の背後に、黄金の光が集束し、巨大な天秤の幻影が浮かび上がった。
「あんたの『絶望』の数なんて、ボクたちが積み上げてきた『希望』の数には……全然届かないんだよ!!」
聖剣が引き抜かれた瞬間、戦場から全ての「音」が消え去った。
「――『福音の夜明け』!!!」
――――――――――――――――カッ!!!!!!!!
丘の麓から地平線の彼方まで。
辺境の街を覆っていた闇の全てを、黄金の極光が飲み込んだ。
それは破壊の熱ではない。
死者に安らぎを与え、不浄を本来の土へと還し、冒涜された魂を強制的に「成仏」させる、理不尽なまでの慈悲の奔流。
「なっ……!? バ、カナ……!? 私の詠唱が、術式が……消える……消えていくッ!? 奇跡ですらない、これは……これは『理』そのものの改変かッ!!?」
黄金の輝きがゴルゴタを内側から食い破り、天を衝く光の柱となった。
肉の壁を構成していた数万の死者たちの魂がどす黒い呪縛から解き放たれ、柔らかな光の粒子となって空へと舞い上がっていく。
「……もうお休み。そんな奴の盾になる必要は、どこにもないんだ」
勇者の静かな、けれど慈悲に満ちた声が響く。彼女が聖剣を振るうたび、苦悶に満ちていた「叫喚」は、静かな祈りの旋律へと書き換えられていった。
「……閉じ込められていた魂が、皆……空へ帰っていく」
女神官は、その光景を涙ながらに見つめていた。
それは死神が求めていた「安らぎ」を、もっと多くの犠牲者たちへ分け与えるような、圧倒的な救済の光であった。
「……綺麗。……あんなに、あんなに怖かった場所が……」
牛飼娘は、震える手を自らの胸元で組み、祈りを捧げました。
不浄な死の臭いは消え、丘の上には、朝露に濡れた草原のような清々しい香りが戻っていた。
「これが……これこそが、本物の白金等級の力なのですね」
受付嬢は、ギルドの記録にも残らぬであろう、人知を超えた神の業をその目に焼き付けていた。
「あんな奇跡……千年の時を生きるエルフの伝承にだって、見たことも聞いたこともないわ……」
妖精弓手は、弓を握る力を抜き、呆然と光の柱を見つめた。それは、魔導でも奇跡でもない、神々の遊戯の盤面そのものを「愛」で塗り潰すような、理不尽なまでの優しさ。
「……術式も、因果も、全てを飛び越えおったわい。……あっぱれじゃ」
鉱人道士が、酒袋を置いて深く頭を垂れた。
「南無。……これぞ正しき引導。迷える魂を無理やり繋ぎ止めていた不浄の鎖が、一瞬で溶けていく……。見事でございますな」
蜥蜴僧侶が、深く頭を垂れ、去りゆく魂たちへ祈りを捧げた。
その光の奔流の中、ゴブリンスレイヤーだけは、じっと巨像の「中枢」を見つめていた。
盾となっていた魂が去り、剥き出しになった絶望の核。
「ありえん……!! ありえんぞッ!! 我がゴルゴタが……! 数万のアンデッドによる完璧な同期が、なぜ解ける! なぜ崩壊していくのだッ!!!」
肉の繭の最深部で、第四呪詛旅団長が発狂したように叫び声を上げる。
衝撃をゴムのように吸収していたはずの屍肉は、勇者の光に触れた端から「生きた肉」としての執着を捨て、ただの灰へと還っていく。
物理的な切断ではなく、存在の意義そのものを救済されたことで、不死の要塞は音を立てて自壊し始めた。
その時、彼の目の前に浮かぶ通信用の魔導水晶が、禍々しい紫の光を放って強制起動した。
『――愚かな男だな、第四呪詛旅団長』
水晶に映し出されたのは、既に北への撤退を完了しつつある、第二師団長の冷徹な貌だった。
「し、師団長!? 誤解です! 私は、私はただ、大戦で失った我が師団の戦力を補填するために、死神の遺体を回収しようと――」
『黙れ』
第二師団長の声には、助けを求める部下への憐れみなど、塵ほども混じっていなかった。
『貴様……死神の閲兵式の折に、私が言ったことを忘れたか? 「死体回収の妄想など捨てろ」とな。……あの娘の衝撃は、死霊術如きで御せる力ではないと教えたはずだ。……にも関わらず、貴様は私の警告を無視し、軍令を破り、我が師団の恥を晒した。』
「そ、それは……私はただ、軍の再興を想って……!」
『最早、貴様に「冥府呪詛師団」を名乗る資格はない。……北方軍の軍籍は、現時刻を以て剥奪した。貴様はただの、死肉を漁る不浄な野犬に過ぎん』
第二師団長は、水晶の向こうで旅団長を包囲している黄金の光――勇者の一党へと視線を向けた。
『本来ならば、私自ら軍法会議にかけて処刑するところだが……。幸いにも、貴様の目の前には最高の執行人がいる。……手間が省けたよ』
「ま、待ってください! 師団長! お助け――」
『さらばだ。……地獄で、あの司祭にでも再会するがいい』
プツリ、と魔力が断たれ、通信が途絶した。
「……あ、あ……、あぁ……」
「……師団長にも見捨てられたか」
剣聖が、折れた刀の代わりに予備の剣を抜き、冷ややかに旅団長を見下ろした。
「戦友を見捨てて逃げた報だな。……貴様には、墓標すら似合わん」
「計算通りの、自業自得です」
賢者も、フードの奥で不快げに目を細めた。
「貴方の積み上げた『死』は、すべて勇者様の光で清められました。……もう、貴方を守る肉の壁はどこにもありませんよ」
「あ、あぁ……。あ、ああああああ……!!」
旅団長が絶望に顔を歪め、後ずさる。
その目の前には、黄金の輝きを纏った勇者が、一切の迷いなく聖剣を振り上げて立っていた。
「ボクの聖剣はね、戦う人の想いは受け止めるけど。……あんたみたいな、仲間の犠牲を笑って、死者の安らぎを汚すヤツだけは……一秒だって、この世界に置いておきたくないんだ」
「ひ、ひぃ……ッ! くるな! 来るなぁぁぁぁッ!!」
旅団長が逃げ出そうと背を向けた、その刹那
勇者が聖剣を振り抜いた。
轟音も、衝撃波もなく。
ただ、一筋の黄金の閃光が旅団長の肉体を通り過ぎた瞬間、彼の存在そのものが、因果の彼方へと消し飛ばされた。
悲鳴を上げる暇も。
痛みを感じる時間さえも。
命を軽んじ、死を冒涜し続けた死霊術師は、ただの一片の灰も残さず、この世から完全に「消去」された。
勇者は静かに剣を鞘に収め、丘の上の墓標に向かって、小さく手を振った。
「……もう大丈夫。本当におやすみ、武闘家さん」
――粉々に砕け散った第四呪詛旅団長の魔導水晶。しかし、その破片からは、未だに北方の司令部へと繋がる微かな魔力の波動が、不気味なノイズとなって漏れ出していた。
女神官はその破片を拾い上げ、真っ直ぐに、その向こう側にいるであろう「北の支配者たち」へと語りかけた。
「……聞こえてるんでしょう。北の軍の将軍たち」
水晶の向こう側、北方の冷たい司令部で。北方軍司令は、自らの古傷をなぞりながら、水晶に映る小さな少女の姿を凝視した。
『……司祭が「切り札」と呼んだ、鍵の娘か』
司令の声は重く、敗北を認めた者の静寂を湛えていた。
「貴方たちの野望は、これで完全に潰えました」
『……ああ。分かっている』
司令の横で、第二師団長が淡々と、自嘲気味に応えた。
『司祭は死に、死神は安らかな眠りにつき……。軍令を破って死肉を漁りに向かった、あの愚か者共も、今しがた全滅を確認した。……我らが二十年かけて積み上げた『絶望の集大成』は、何一つとして実を結ばなかったというわけだ』
女神官は、背後にそびえる墓標――白い蓮の花に包まれた女武闘家の眠る場所を、慈しむように一瞥した。
「あの子は、貴方たちの『道具』としては死にませんでした。彼女は最後に、自分を汚した世界を許して、大好きな人たちの温もりを選んだんです。……貴方たちが二十年かけて積み上げた絶望の数式は、たった一人の女の子の心に、負けたんですよ」
女神官の瞳に、強い光が宿る。
「あの子が最後に選んだのは、世界への拒絶でも、貴方たちが望んだ殺戮でもありませんでした。……ただ、誰かの温もりを信じて、一人の人間として眠りにつくこと。……貴方たちの理不尽な魔術も、軍隊の力も、そのたった一つの『願い』には届かなかったんです」
『…………』
「貴方たちが積み上げた二十年の執念も、あの子を傷つけたすべての計画も、いま、ただの灰になりました。……これ以上、誰の心も貴方たちの駒にはさせない!」
女神官の宣告に、北方軍の将帥たちは沈黙した。
通信の向こう側で、第一迅雷旅団長が悔しげに奥歯を噛み締め、第三鋼鉄旅団長が静かに目を閉じた。
『……認めよう。我らの完敗だ。……一人の少女を救うための執念が、一国を滅ぼすための軍略を上回った。……影に潜む我らですら、その「光」の重さまでは計算しきれなかったようだ』
第四師団長が静かに溜息をつき、司令は、通信水晶に指をかけた。
『……勇者に伝えておくがいい。……我が北方軍は、現時刻を以て全作戦を破棄し、北の深淵へと還る。……次に会う時がいつになるかは分からんが、その時まで、その『平和』を精々大事に守り続けることだ』
「……ええ。私たちは、何度でもゴブリンを殺し、何度でも、明日を守り抜きます」
女神官が聖杖を水晶に軽く当てると、通信水晶はその役目を終えたかのように砕け散った。
「…………」
ゴブリンスレイヤーが歩み寄り、女神官の肩に手を置いた。
空を見上げれば、そこには勇者がもたらした黄金の夜明けが、どこまでも高く、どこまでも澄み渡っていた。
北の軍靴は遠ざかり、司祭の執念は灰に還り、死霊の王は消滅した。
後に残ったのは、ただ一人の少女の安らかな眠りと、彼女を守り抜いた不器用な仲間たちの絆だけ。
悲劇を種火に燃え上がった北方戦線はここに静かに幕を下ろした。
次回最終回です