『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】 作:いっかず
王都、至高神の神殿へと続く大通り。
空からは色とりどりの花びらが舞い落ち、民衆の地鳴りのような歓声が、石造りの街並みを震わせていた。
「勇者様! 救世主様万歳!!」
「王国の光! 英雄たちに神の加護を!!」
熱狂に包まれる中、白銀の馬に跨った勇者一行が、ゆっくりと凱旋行進を進めていた。先頭を行く勇者は、いつものように無邪気な笑顔で観衆に手を振り返しながら、ふと隣を歩く仲間に語りかけた。
「……なんだか、すごい歓迎だね。魔神王を倒した時以来だなあ、こんなにたくさんの人に迎えられるの。」
勇者の声は弾んでいたが、その瞳は時折、賑わう街並みを通り越し、遠い南の空を慈しむように見つめていた。
「……当然だ。今回の北方軍は、あの時以来の軍勢だった。」
剣聖が、愛刀の柄に手をかけたまま、厳かに応えた。彼女の右肩には、第三師団長との一騎打ちで負った傷がまだ残っている。
「北方軍の規律、数世代先を行く軍事技術、そしてあの守護旅団長の魔剣……。神の加護を受けたお前の光が無ければ、今ごろこの都は、地図から消えていた。……私も、自分の首が繋がっているのが不思議なほどだ。」
「ボクたちの力だけじゃないよ。」
勇者が柔らかく否定する。その視線に、フードを深く被った賢者の少女が、静かに頷いた。
「……ええ。この勝利の確率は本来、限りなく零に近かった。……北で私たちが時間を取られている間に、南の『死神』が王都へ到達していれば、防衛線は内側から崩壊していたはずです。」
賢者は、指先で浮遊する魔晶石を弄び、冷静な分析を続けた。
「あの司祭が描いた『絶望の盤面』。それをひっくり返したのは、私たちの聖剣でも魔法でもありません。……辺境の街で、誰にも称えられることなく戦った『彼ら』と……。そして、最期に自分の心を取り戻した、あの子自身の意志です。」
「…………。そうだね。」
勇者は、胸元に下げた小さな聖印をそっと握りしめた。
「あの子が、自分を信じてくれた仲間のために『死神』であることをやめてくれたから。……だからボクたちは、ここで笑っていられるんだ。」
「……行こう。陛下が待ってる。……終わったんだね、本当に。」
勇者の言葉を合図に、一行は光に満ちた神殿へと足を踏み入れた。
――神殿のバルコニーでは、大司教――剣の乙女が、黄金の天秤を手に一行を迎えていた。彼女の目隠しの下にある瞳もまた、勇者と同じ方向――一人の少女が眠る、南の丘を見つめていた。
「……もう、あの子の眠りを、誰にも邪魔させはしません」
隣で、南の空を見つめていた令嬢剣士が、祈るように胸元に手を当てて呟いた。
「ゴブリンも、教団も、そして北方軍も……。あの子を兵器として弄ぼうとした全ての『不浄』は、勇者様の光と、あの人たちの執念によって焼き払われました。あの子が最期に選んだ安らぎは、私が……商家の名にかけて、生涯守り抜いてみせます」
「ええ。そうですね……」
彼女は、自分と同じ地獄を味わいながら、より過酷な運命を背負わされた少女に思いを馳せる。自分を救ってくれた「彼」が、あの子の最後をも守り抜いたことに、深い安堵を感じていた。
その言葉を慈しむように聞き届け、剣の乙女は目隠しの下で、既にこの世にはいない「宿敵」へと意識を向けた。
「司祭……。貴方の負けですよ」
彼女の唇が、静かな、けれど断固たる勝利を刻んだ。
「貴方は絶望こそが魂の真理であり、拭い去ることのできない唯一の救済だと信じて疑わなかった。恐怖を支配し、全てを拒絶することだけが、この理不尽な世界で生き残る術なのだと」
剣の乙女は、かつて自分が救われたあの日の感触を思い出すように、自らの胸に手を当てた。
「けれど、貴方が『不純物』と切り捨てた人の温もり……。一人の少女が流した涙と、それを受け止めた仲間たちの抱擁が、貴方の築き上げた不浄の盤面を、根底から覆したのです。貴方がどれほど理を歪めようとも、人の心に灯る小さな火を消し去ることはできなかった」
彼女には分かっていた。司祭が造り上げた「死神」は、完璧な兵器だった。
しかし、司祭が「不合理」として排除し続けた「誰かを想う心」だけは、混沌の数式でも、拒絶の衝撃でも、決して消し去ることはできなかったのだ。
「絶望は力を生みますが、愛は奇跡を産む。……あの子は死神としてではなく、最後まで仲間を想う一人の『人間』として、貴方の呪縛を打ち破ったのです」
「……大司教様」
「行きましょう。……戦いは終わりました。これからは、あの子が守ったこの日常を、私たちが育んでいく番です」
「ええ……。そうですね」
凱旋の鐘の音が、王都の空に響き渡る。
それは勝利を祝う音であると同時に。
神々の遊戯の盤面から降り、安らかな眠りについた「一人の冒険者」に捧げる、最も清らかな鎮魂歌でもあった。
――辺境の街のあちこちでは、崩れた家屋の瓦礫を片付け、石畳を敷き直す音が響いていた。冒険者ギルドからの通達により、多くの冒険者が「復興支援」という名の依頼を受け、剣の代わりに槌や木材を握っていた。
「――ほれ、そっちはもっと右じゃ! 精霊たちがバランスが悪いと泣いておるぞ!」
鉱人道士が、埃にまみれた髭を揺らしながら、手にした図面を広げて声を張り上げました。彼は再建現場の「現場監督」として、その土木知識と地精の術をフル回転させていた。
「……ふぅ。ゴブリンを殺すのも一苦労じゃが、一度壊れた街を直すのはそれ以上の骨が折れるわい。のう、耳長の!」
「言われなくても分かってるわよ! ほら、そこの柱、固定したから!」
街灯のてっぺん、あるいは屋根の梁の上。妖精弓手が、重力を無視したような軽やかな身のこなしで飛び回り、高所の作業をこなしていた。彼女の背負った矢筒には、いまは矢ではなく、建材を固定するための特殊な楔が詰め込まれていた。
「もう、手が真っ黒になっちゃったじゃない。……あーあ、早く次の冒険に出たいわ。遺跡探索とか、風通しのいい場所へ!」
「……ですが、野伏殿。この街が再び形を取り戻していく様は、見ていて実に清々しいものにございますな」
蜥蜴僧侶が、担いでいた梁を所定の位置に下ろし、満足げに喉を鳴らしました。
「あの子が最後に護り抜いたこの『日常』を、我らがその手で繋ぎ止める。……これもまた、一つの『戦い』の形と言えましょう。……ああ、終わった後のチーズと火酒が今から楽しみでなりませんぞ」
「カカッ! 左様じゃな。この塔が直った暁には、一番上で最高の一杯を嗜もうではないか!」
鉱人道士が槌を振るい、石を叩く音が広場に響きます。
「……そうね。あの子も、どこかで見ているかもしれないしね」
妖精弓手は一瞬だけ手を止め、青く澄み渡った空を見上げました。
不浄な魔力は消え、いま街を満たしているのは、再生を願う人々の活気と、精霊たちの穏やかな歌声。
「――ほら、休んでる暇ないわよ! 暗くなる前に、その壁を終わらせなさいよね!」
三人の賑やかな掛け合いが、復興の槌音と共に街に溶け込んでいった。
――冒険者ギルド。
かつてない災厄が去った後のギルドのホールは、窓ガラスが割れ、壁には衝撃波の傷跡が生々しく残っていたが、そこには既に復興に向けて動き出す冒険者たちの活気が戻り始めていた。
「……ふぅ。一息つく間もないわね。まだまだ仕事は山積みよ。この一連の戦いで半壊した街を元に戻すまで、ギルドに休む暇なんてないわ」
監督官は、山のような被害報告書を片手に、呆れたように、けれどどこか晴れ晴れとした顔で呟いた。隣に立つ受付嬢は、ボロボロになったギルドのカウンターを愛おしそうに撫でながら、深く頷く。
「ええ。……北方軍の侵攻、吸血鬼の暗躍、そしてあの『死神』。……これだけの理不尽に同時に襲われて、この街が未だ地図から消えずに残っているなんて。……本当に、奇跡だと思います」
「……奇跡、か。ま、そうかもな」
カウンターに歩み寄ってきたのは、使い古された槍を肩に担いだ槍使いでした。彼の鎧には吸血鬼の眷属との激闘を物語る傷跡がいくつも刻まれていたが、その不敵な笑みは以前と変わっていなかった。
「受付さん。……不気味な連中はみんな北へ逃げるか灰になった。ギルド周辺の治安維持は俺たちが引き受けたぜ。……あの兜野郎にばかり、格好いいところをさせておくわけにはいかないからな」
「そうだな。俺たちも、この街の復興依頼を優先的に受けることにした」
重厚な鎧を軋ませながら、重戦士が槍使いの隣に並びました。
「戦士として、倒すべき敵はいなくなった。あとは、ここが俺たちの帰る場所であり続けるために……土運びでもなんでもやってやるさ」
「……魔法の、煤も……。……呪いの、残り香も……。……雨が、すべて……流してくれたわ……」
魔女が、紫煙をゆらりと吐き出しながら、空いた椅子に腰を下ろしました。
「街の、空気は……以前よりも……清らか……。不浄は、もう……いない……」
女騎士が、兜を脱ぎ、額の汗を拭いながら凛とした声を響かせる
「大司教様からは既に復興支援の物資が王都より発送されたと連絡があった。……あの子が命を懸けて守ったこの街を、二度と不浄に汚させはしない。……皆、行くぞ!」
「「「おおォォォッ!!!」」」
銀等級たちの号令に呼応して、白磁や黒曜の若手冒険者たちも、それぞれの道具を手に街へと飛び出していく。
「…………」
受付嬢は、賑わうホールを眺め、それから入り口の扉へと視線を向けた。
いつもなら、このタイミングで一人の男が戻ってくるはずであった。
「ゴブリンか」とだけ言いながら。
「……彼も、今は少しだけ休めているでしょうか」
「さあね。あいつのことだから、今頃また牧場の柵でも直しながら、ゴブリンの足跡を探してるんじゃないかしら?」
監督官が笑って、再びペンを走らせ始めた。
辺境の街。
神々に捨てられ、死神に拒絶されかけたその場所は。
いま、一人の少女が遺した「日常」という名の奇跡を抱いて、再び力強く呼吸し始めていた。
――復興の槌音が遠くに響く中、新しく整えられた小さな墓標の前で、ゴブリンスレイヤーと女神官。そして牛飼娘が静かに佇んでいた。
墓前には、女神官が供えた純白の蓮の花と、ゴブリンスレイヤーが置いた青年剣士の折れた剣の破片が、風に吹かれて寄り添うように並んでいた。
「……本当にお疲れ様、武闘家さん」
「……ええ。もう、悪い夢を見ることはありません。……みんな、待ってくれていますから」
「…………」
ゴブリンスレイヤーは、一人無言で墓石を見つめていた。
彼の脳裏には、始まりの洞窟と吸血鬼の館で交わされた、二つの対照的な声が未だに波紋のように残り続けている。
『――小鬼殺しよ。この四方世界から、ゴブリンがいなくなる日は、永遠にこないのだよ。……積み上げられた無関心のツケは、これからもどこかで絶望を産み、第二、第三の君や……あの娘が産まれることになるだろう。』
世界が巨大な「巣穴」である限り、悲劇は繰り返される。
それは、彼自身が誰よりも理解している、残酷なまでの「現実」であった。
しかし、その黒い予言を塗りつぶすように、最期の瞬間に彼女が遺した、掠れた声が響く。
『……ありがとう、ゴブリンスレイヤーさん。……貴方は、私のようには……ならないで。……復讐だけに、心を……支配されないで。……貴方には、まだ……。……「おかえり」と言ってくれる人が、いるんだから……』
「…………」
ゴブリンスレイヤーは、隣に立つ牛飼娘、そして錫杖を握る女神官の姿を、鉄兜の奥から見つめた。
司祭が言った「理不尽な現実」も、彼女が言った「切なる願い」も。
そのどちらもが、今の彼にとっては確かな真実であった。
(……ああ。……俺は、これからもゴブリンを殺すだろう)
彼は自らの右拳を、静かに握りしめた。
(……だが。……俺はもう、あの司祭の盤面には戻らない。……死神にも、ならない。……俺には、帰り道があるからだ)
「……ゴブリンスレイヤーさん?」
女神官が、彼の様子を心配そうに覗き込む。
ゴブリンスレイヤーは、ゆっくりと顔を上げ、地平線の向こうを見据えた。
「……行くぞ」
鉄兜の奥から、短く、静かな声が漏れる。
「あ、はい……。行きましょう、ゴブリンスレイヤーさん」
女神官が顔を上げ、涙を拭って微笑んだ。
「うん。お昼、牧場のみんなが待ってるよ。今日はパイを焼いたんだから」
牛飼娘が彼の腕を軽く叩き、歩き出す。
(ゴブリンはいなくならない。……第二、第三の死神も、また産まれるのかもしれない)
けれど。
自分を繋ぎ止めてくれる手が、ここにある。
あの日、自分が救い上げたはずの少女が、最期に命を懸けて自分に教えてくれた「帰り道」が、ここにある。
「…………ああ」
彼は一度だけ、青空に吸い込まれていく蓮の香りを背中に感じながら、迷いのない足取りで坂を下り始めた。
「ゴブリンか」
「もうっ! 今日くらいは別のことを考えてください!」
「……だが、いるかもしれない」
「あはは、変わらないね、君は」
賑やかな声が、丘の上に残された墓標を包み込む。
死神が拒絶した世界は、いま、一人の男を人間として暖かく迎え入れていた。
丘の上に咲く白い花が、風に揺れる。
それは、かつて「死神」と呼ばれた少女が取り戻した、一点の不浄もない安らぎの証であった。