『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】 作:いっかず
地母神の神殿、その一室。
差し込む朝陽は穏やかで、香炉から漂う清浄な香りは、ここが凄惨な戦場から遠く離れた聖域であることを告げていた。
女武闘家は、真っ白なシーツの上で静かに目を覚ました。
身体の傷は、高位の神官たちの奇跡によって塞がっている。あの日、真っ黒な絶望の中で自分を抱きしめてくれた少女――女神官が言った「生きてさえいればやり直せる」という言葉。彼女はそれを、暗闇の中のたった一つの道標として、必死に縋り付いていた。
(……やり直せる。……また、お日様の下で笑える日が来る)
そう自分に言い聞かせ、彼女は震える足で立ち上がる。
だが、その平穏な「昼」は、毎夜訪れる「夜」によって無慈悲に削り取られていった。
眠りにつけば、そこは常にあの洞窟だった。
鼻を突く汚泥の臭い。耳元で響く、ゴブリンたちの下卑た嘲笑。
数えきれない汚れた手が、自分の四肢を、髪を、肌を、内側までを蹂躙し、塗り潰していく。
「――っ、あ、が……はぁっ、はぁっ……!」
飛び起きると、額には脂汗が滲み、指先は感覚がなくなるほど凍りついている。
一度目を覚ませば、もう「神殿」という聖域は消え失せていた。
「……失礼しますね。傷の様子を見ましょう」
神殿の看護に当たる女性神官が、そっと彼女の肩に手を伸ばした。
その指先が、わずかに服の布越しに触れた瞬間。
「――っ!! やめてッ!!」
女武闘家は悲鳴を上げ、弾かれたように身を捩った。
身体が勝手に震え、喉の奥から酸っぱいものがせり上がる。神官が驚いて手を引いても、一度始まったパニックは収まらない。
(触らないで。来ないで。汚い。怖い。嫌だ、嫌だ嫌だ――!)
神官の手が、あの暗闇で自分を組み伏せたゴブリンたちの、湿った、硬い、汚れた爪のように感じられてしまう。
どれほど神殿の清らかな水で身を清めても、皮膚の裏側を何かが這いずり回っているような不快感が消えない。
彼女の心は、何かに「触れられる」という行為そのものを、生命の危機として拒絶するようになっていた。
神官たちが困惑しながら立ち去った後、彼女は独り、震える手で拳を握りしめた。
(……動かなきゃ。……私は、武闘家なんだから……)
彼女は震える足で床に立ち、かつて父に教わった「型」をなぞろうとした。
拳を固め、真っ直ぐに突き出す。
空気を切り裂く鋭い一撃。それは、白磁等級にしては類まれな、彼女の誇りだったはずの武術。
「……っ!?」
突き出した拳が、虚空で止まる。
頭の中に、あのホブゴブリンの醜悪な顔がフラッシュバックした。
自分の拳が奴の肉に触れた時の、あの嫌な、湿った感触。
自分の蹴りが受け止められ、そのまま組み伏せられた時の絶望。
「嫌……っ! 触らないで……!!」
彼女は自分の拳を汚物であるかのように見つめ、そのまま壁に激しくぶつけた。
ゴツ、という鈍い音が響くが、痛覚よりも先に「接触」への拒絶が勝り、彼女はその場に崩れ落ちた。
武闘家は、相手に触れなければ戦えない。
拳を叩き込み、相手の体温を感じる距離で命を奪い合う。それが彼女の生業であり、生きる証だった。
だが今の彼女にとって、それは「自ら不浄に触れに行く」という、耐えがたい自殺行為に等しい。
「……もう、できない……」
彼女は拳を握ろうとしたが、指先が痺れたように言うことを聞かない。
誰かと触れ合うことが死ぬよりも恐ろしくなった今の自分に、相手の懐に飛び込む勇気など、欠片も残っていなかった。
(私の誇りも……夢も……全部、あの暗闇に置いてきちゃった……)
武術は、彼女にとって生きる意味そのものだった。
それが失われた今、彼女に残ったのは、ただ「汚された」という消えない事実と、自分を救った者たちへの、申し訳なさと劣等感だけ。
「……ごめん、なさい……。……ごめんなさい……」
床に崩れ落ち、嗚咽を漏らす彼女の背中を、神官達はただ遠くから悲しげに見守ることしかできなかった。
助かったはずの命。
しかし、彼女の「冒険者」としての魂は、この清潔な病室の中で、静かに、そして完全に息絶えようとしていた。
療養室から漏れ聞こえる少女の悲鳴と、狂ったように水を被る音を、闇に溶け込むような黒い法衣を纏った男がじっと聞き入っていた。
男は手にした魔水晶に映し出される彼女の精神波形を眺め、悦悦とした表情で唇を歪めた。
「勇敢な娘だな。初対面で、たった数時間前に組んだだけの仲間のために、自らを盾にして地獄に踏みとどまるとは。その高潔な自己犠牲の精神、実に見事だ」
男の声は、湿った地下室の空気のように冷たく、粘りついていた。
「そして――接触恐怖症か。他者の肌が触れることを死よりも恐れる。拳と脚で語る武闘家にとっては、再起不能の致命傷……。いや、これこそが『絶望の完成』への入り口だ」
「閣下、こちらにおられましたか」
背後の闇から、男の部下が音もなく跪く。
「北方軍司令部より、例の戦略兵器開発――死神計画の進捗について、強い催促が来ております。『いつまで質の悪い不良品で茶を濁すつもりだ』と」
「フン、軍人共め。真の芸術を理解せぬ不作法な連中だ」
男は魔水晶を懐に収めると、ゆっくりと立ち上がった。その視線は、もはや地面を這う少女ではなく、その奥にある「未来の惨劇」を捉えていた。
「司令部に伝えておけ。次の実験に最適な、至高の『素材』を見つけた、とな」