『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】 作:いっかず
村外れの切り立った崖。眼下を流れる急流は、月明かりを跳ね返し、銀色の蛇のようにのたうち回っている。
女武闘家は、泥に汚れた裸足でその縁に立っていた。
ガタガタと震える手には、かつての想い人の形見である、折れた剣の破片が握りしめられている。
「……もう、嫌」
震える声が、風に掻き消される。
どれだけ川の水で肌を擦っても、あの洞窟で刻み込まれた悍ましい感触は消えなかった。村人たちが投げつけた「汚物」という言葉が、呪いのように全身を蝕んでいる。
(このまま……こんな汚れた身体で、生きたくない)
一歩、身を乗り出す。
冷たい夜風が、ボロボロになった服の隙間から、消えかけた生命の灯火を奪っていく。
「……何一つ、お父さんの教えを……守れなかった。ごめんなさい、父さん」
幼い頃、父に教わった拳の型。人を助けるために、弱きを守るためにと叩き込まれた誇り。それは、あの暗闇の中で無様に砕け散った。
人を守るどころか、自分一人守れず、仲間の死をただ見ていることしかできなかった。
「……ゴブリンを……甘く見ちゃいけなかったんだ」
後悔の念が、鉛のように心臓を重くする。
傲慢だった。自分たちは冒険者で、特別な存在なのだと信じていた。その慢心が、パーティーの全員を地獄へと叩き落とした。
脳裏に、あの洞窟で最後に見た光景が浮かぶ。
鉄兜の男に抱えられ、涙を流しながら自分を見つめていた、白磁の法衣の少女。
「……神官、ちゃん」
あの日、自分がもっと強ければ。
あの日、自分がもっと慎重であれば。
あの子に、あんな凄惨な光景を見せずに済んだはずなのに。
「……最後にあの子に、一言だけでも……謝りたかったな。……ごめんね、って」
もう、声は届かない。
彼女はゆっくりと瞳を閉じ、冷たい闇が渦巻く奈落へと、その身を投げ出した。
(冷たい……。でも、これでやっと……楽に――)
水面に叩きつけられる衝撃。肺から空気が押し出され、意識が急速に遠のいていく。
激流に飲み込まれ、泥の色をした闇へと沈んでいく中、彼女は初めて、わずかな安らぎを感じた。
だが、その魂が完全に消える直前。
暗い水底に沈みゆく彼女の身体を、何者かの「影」が掬い上げた。
再び意識が戻ったとき、そこは激しい雨音だけが響く、古びた地下聖堂の冷たい石床の上だった。薄暗い魔法灯の光に照らされて、一人の男が彼女を見下ろしていた。漆黒の法衣を纏い、不気味なほど穏やかな笑みを浮かべた男
「はじめまして、お嬢さん。私は司祭。……この世界で見捨てられ、救われなかった魂に、『意味』を与える者だ」
「……あ……、が……っ」
女武闘家は、震える指先で自らの喉を抑えた。吐き出されるのは、濁った水と、消え入るような喘ぎ声だけ。
「案ずることはない。君は、天使と見間違うばかりに美しい。……これほどまでに深く、重く、純粋な絶望を宿した魂に出会えるとは。ふふ、まだまだこの四方世界も捨てたものではないな」
司祭は跪き、泥と泥濘に汚れた彼女の頬を、壊れ物を扱うように優しくなぞった。その指先からは、体温を感じさせない冷気が伝わってくる。
「君のような美しい魂を、ただの泥の中で朽ち果てさせるのは、混沌の神への……いや、私への冒涜だ。……さあ、教えておくれ。君は何を望む?」
女武闘家は、焦点の合わない瞳を司祭に向けた。彼女の脳裏には、あの暗い洞窟の光景と、村人たちが投げつけた氷のような言葉が、呪いのように渦巻いている。
「……死を。……一刻も早い、死を。……あの悪夢と、この汚れた身体の苦しみから……解放して……。……お父さんや……あの子たちの元へ……。安らかな……眠りに、つかせて……」
それは、全てを奪われ、最後に残った僅かな誇りさえも捨て去った者の、心からの叫び。
だが、司祭はその願いを、慈悲深い微笑みと共に、残酷に否定した。
「本当に、それが心の底からの願いなのかい?」
司祭の顔が、彼女の耳元に近づく。囁かれる声は、毒のように甘い。
「勘違いしてはいけないよ。それはただの『諦め』だ。君は神に、安らぎを乞うているのではない。この不条理な現実に、ただ蓋をしたいだけだ」
司祭は、彼女の傷だらけの右手を強く握りしめた。
「私が聞きたいのはね、そんな諦めなどではない。君がその魂の最底層で……剥き出しの意志で、本当に望んでいることだ。……死ぬ前に、その手でやり残したことがあるのではないかな?」
「…………っ」
「本当に……。祈りながら、ただ消えたいのかね? 自分を汚したゴブリンを、自分を捨てた世界を……その拳で、粉々に粉砕したいとは思わないのか?」
司祭の言葉が、彼女の絶望の奥底に眠っていた「憎悪」という名の火種に、黒い火を灯した。
安らぎを願っていたはずの心が、一瞬、猛烈な熱を帯びて拍動する。
一人の少女が人間として死に、世界を拒絶する「死神」へと産み落とされるための、それが聖別の儀式であった。