『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】 作:いっかず
混沌の神を祀る、地下深くの祭壇。
そこには、川底から引き揚げられ、死を待つばかりだった「肉塊」――女武闘家が横たわっていた。
彼女の全身に刻まれた術式が、どす黒い魔力を吸い上げ、微かに脈動している。
「閣下。……失礼ながら、理解に苦しみますな」
司祭の背後で、実験の準備を進めていた部下が、冷淡な視線を実験台の上の少女に向けた。
「こんな女が、我らの偉大なる計画の何の役に立つのですか? たかがゴブリン如きに不覚を取り、無様に壊された白磁等級の落伍者でしょう。素材にするにしても、もっと適した高位の冒険者がいるはずだ」
司祭は、愛おしそうに少女の頬を撫でた。その指先が触れた瞬間、意識のないはずの彼女の身体が、嫌悪感からビクリと跳ねる。
「くく……。ゴブリンを甘く見るものではないぞ。あれはこの世界において、最も純粋な『悪意』の象徴だ。物理的な強さではない。尊厳を、魂を、一分一厘の容赦もなく磨り潰す底なしの悪意……。その汚泥にどっぷりと浸かり、絶望に魂まで焼かれた者だけが、辿り着ける境地がある」
司祭は立ち上がり、狂信的な光を宿した瞳を部下に向けた。
「忘れたか? あの至高神の愛し子……法と秩序の象徴たる『剣の乙女』ですら、かつては奴らの玩具にされたのだからな」
部下が息を呑む。水の街に君臨する大司教の、知る人ぞ知る忌まわしき過去。
「彼女は、その地獄を『光』の信仰で塗り潰し、英雄となった。……だが、この娘はどうだ? 故郷に裏切られ、愛する者の墓標の前で絶望し、自ら死を選んだ。光など、一筋も差し込んではいない」
司祭は、祭壇に置かれた禍々しい曼荼羅の紋章を、少女の瞳の上へと掲げた。
「私はね、この娘を我ら混沌側の『剣の乙女』に仕立て上げたいのだよ。光の乙女がゴブリンを恐れ、誰かに縋るのなら……この闇の乙女には、世界そのものを拒絶し、全てを滅ぼす『死神』になってもらう」
「成る程。あの大司教が小鬼の玩具から英雄へと至ったプロセスを、今度は混沌の理で再現しようというわけですか。この娘の中に沈殿した極限の恐怖と憎悪を、術式によって反転させ、我らのための力として利用すると……」
部下が納得したように頷く。しかし、司祭は低く、愉快そうに笑った。
「違うな。私は救済してやるのだよ。……見ていろ。彼女が目覚めた時、その瞳に映る世界は、どれほど美しく塗り潰されていることか」
司祭が呪文を唱えると、曼荼羅の紋章が少女の眼球へと沈み込み、凄まじい絶叫が地下聖堂に響き渡った。
「……ア、アガ……ッ、あ……!!」
彼女の喉から漏れるのは、もはや言葉ではなかった。
司祭が施しているのは、単なる肉体の強化ではない。彼女の脳に刻まれた「恐怖の記憶」を神経回路と直結させ、それを破壊的なエネルギーへと変換する、魂の再定義である。
「素晴らしい。見てみろ、このバイタルを。彼女の心臓は今、恐怖を感じるたびに通常の三倍の鼓動を刻んでいる。その拍動が、全身に混沌の魔力を送り込んでいるのだ」
司祭は悦に入った様子で、水晶球に映し出される彼女の精神波を観察する。
そこには、ループし続ける地獄の光景があった。
洞窟の暗闇。仲間の絶叫。自分を組み伏せる小鬼たちの、濡れた嫌な感触。
そして、救われた後に待っていた、村人たちの氷のような言葉。
『汚物』『恥晒し』『死ねばよかったのに』。
「……やめて……。もう、触らないで……。来ないで……!」
「そうだ、もっと拒絶しろ。世界を、他人を、光を! その拒絶こそが君の刃、君の盾となるのだ」
司祭が呪文の出力を上げると、彼女の瞳の奥で曼荼羅の模様が猛烈に回転を始めた。
【不浄の指針】の定着。
彼女の視神経は作り替えられ、脳は「自分を傷つける可能性のある者」を、すべて自動的に「ゴブリン」として識別するように強制される。
その時、あまりの苦痛に彼女の無意識が爆発した。
「……触るなあああああッ!!!」
カッ、と目を見開いた彼女の手が、無意識に近くにいた部下の方を向く。
その瞬間。
――ドォォォォォンッ!!
衝撃波が、物理的な質量を伴って放たれた。
実験台を固定していた鉄の枷が飴細工のように引き千切れ、部下は反応する間もなく数メートル後方の石壁まで吹き飛ばされ、血反吐を吐いて崩れ落ちた。
「なっ……!? 離れた場所にいた私に、何が……」
部下が呆然と自分の砕けた肋骨を抑える中、司祭は狂喜して拍手を送った。
「これだ! これだよ! 物理的な接触を一切拒む、究極の防衛本能。【拒絶掌】の覚醒だ。彼女は今、触れられる恐怖を『衝撃』として出力する能力を得た」
女武闘家は、荒い息をつきながらゆっくりと身体を起こした。
「……ここは、どこですか……? 司祭様……」
「救済の地だよ、私の可愛い死神。ようこそ。我らが『深淵なる拒絶の教団』へ。至高神の愚民どもは『邪教団』などと呼んでいるがね。君を汚した世界を、君が『掃除』するための場所だ」
彼女の意識は、混沌の魔力によって白濁し、過去と現在、人間と小鬼の区別が曖昧になっていく。
ただ一つ、魂の芯に刻み込まれた確信だけが、彼女を突き動かす。
(……汚い。みんな、汚い……。近づくものは、全部、殺さなきゃ……)
彼女が拳を握りしめると、周囲の空気がピリピリと震動し、石造りの床に細かな亀裂が走った。
かつて正義のために振るわれた拳は、今や、世界そのものを拒絶するための「凶器」へと再構築されたのだ。
司祭の歪んだ笑い声が、絶望の産声に重なり、地下聖堂にいつまでも響き渡っていた。