『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】 作:いっかず
調整槽から引き揚げられ、濡れた漆黒の衣を身に纏った女武闘家は、冷たい石床に膝をついていた。全身の神経が混沌の魔力に焼かれ、指先一つ動かすのにも激痛が走る。
そんな彼女の前に、司祭がゆっくりと歩み寄り、慈悲深い神のようにその視線を降ろした。
「よく耐えたね。君の肉体は、今や既存の冒険者とは一線を画す、至高の『拒絶』を宿す器へと生まれ変わった」
司祭は彼女の顔を優しく、けれど逃がさぬように両手で包み込んだ。
「だが、異能はあくまで種に過ぎない。それを大輪の花へと咲かせるには、相応の『水』が必要だ。……そこでだ。君のために、八つの試練を用意してある」
「……試練……」
彼女の微かな呟きに、司祭は悦悦として頷く。
司祭は懐から、一冊の黒い装丁の記録簿を取り出し、彼女の目の前でゆっくりと広げた。
「これらは君の魂を研ぎ澄ませ、この世界の不浄を効率よく掃除するためのステップだ。一段階ずつ、君の中にある『人間』という名の脆弱さを、衝撃波で粉砕してゆくのだよ」
司祭は、指先でその項目を一つずつなぞっていく。
「まずは第一の試練、『人』。害意を持つ同族を殺すことで、指針の精度を測る。
第二の試練、『獣』。圧倒的な質量を拒絶し、物理の壁を越える。
第三の試練、『理』。神が与えた加護や法則を、自らの定義で上書きする。
第四の試練、『魔』。理を操る魔導さえも、不浄として霧散させる」
女武闘家は、司祭の言葉を一つも漏らさぬよう、静かに聞き入っていた。
「そして後半だ。
第五の試練、『無』。五感で捉えられぬ死を、指針で看破する。
第六の試練、『不死』。連携し、蘇り続ける軍勢を、一息に掃除する。
第七の試練、『神話』。かつて一国を滅ぼしかけた災厄を、その掌で捩じ伏せる」
「…………」
「……そして最後だ。第八の試練、『恐怖』。君がかつて敗北し、君を壊したあの根源を、塵として踏みつぶすことで……君は真に、神へと羽化するのだ」
女武闘家は、司祭の言葉を黙って聞きながら、自分の中に冷たく澱んでいく何かを感じていた。
『人』を殺し、『獣』を砕き、『神話』を屠り、最後には『恐怖』を消し去る。
そうすれば、自分はあの人のように――あの鉄兜の男のように、何にも揺らがぬ存在になれるのだろうか。
(……強く、ならなきゃ。……もう二度と、あんな思いをしないために。……あの人のように、ゴブリンを掃除する装置に……)
「さあ、まずは休養を取りたまえ。明朝、最初の試練――『人』の掃除から始めてもらおう」
司祭は満足げに微笑むと、彼女を残して調整室を後にした。
静寂が戻った部屋。しかし、その背中には形容しがたい不快な寒気が走っていた。
(……違う)
彼女は心の奥底で、かつて自分を抱きしめた「本物の父」の手を思い出していた。
父の手は、武道家らしく節くれだっていて、硬かった。けれど、そこには陽だまりのような、言葉にしなくても伝わる確かな「熱」があった。
だが自分に語りかけてきたあの男の声には、その熱が、一滴も混じっていない。
(あの人の声……。優しいけれど、どこか遠い。……まるで、あの洞窟を吹き抜ける、冷たい風の音みたいだ……)
その刹那
「……ッ、が、あぁ……ッ!!」
実験台の上で、女武闘家は突如として脳を割られるような激痛に襲われた。
視界が真っ赤に明滅する。網膜の裏側で、司祭が刻み込んだ混沌の術式が、彼女自身の「ゴブリンへの恐怖」という負のエネルギーを吸い上げ、急速に熱を帯びていく。
やがて、彼女の瞳の中で曼荼羅の紋様が、カチリ、と音を立てるようにして初めて自律的な回転を始めた。
(……何……これ……? 目の中に、何か……いる……)
視界が変質していく。壁の染み、空気の揺らぎ、それら全てが「不純なもの」と「そうでないもの」に色分けされて映る。
その時、耳からではなく、頭蓋の芯から響くような「声」がした。
『――ようやく、目覚めたか。愛らしき依代よ』
「……誰!? 誰なの……どこにいるの!?」
彼女は必死に周囲を見渡すが、部屋には誰もいない。声は、彼女の思考そのものに混ざり合うようにして、再び響いた。
『我は……【不浄の指針】。お前が世界を拒むために産み落とした、断罪の目だ。お前の心臓の鼓動と共にあり、お前の憎悪を羅針盤とする者……即ち、お前自身だよ』
「私……自身……?」
『然り。……お前が二度と汚されぬよう、近付く不浄を指し示す標だ』
女武闘家は自らの瞳を覆った。掌から伝わるのは、自分の体温。だが、脳内に響く声は、自分自身のものとは思えぬほどに冷酷で、透き通っていた。
『……一つ、忠告しておこう。……依代よ。あまり、あの男を信用しないことだ』
「え……? 司祭様は……私を救ってくれた人なのに……」
指針の紋章が、不快そうに鋭く回転する。
『救済だと? クク……笑わせるな。我には視えるぞ。あの男の魂から立ち昇る、ドロドロとした醜悪な「独占欲」という名の不浄が。……奴にとって、お前は救うべき人間ではない。自らの私怨を晴らすための、高価な「部品」に過ぎんのだ』
「そんなこと……っ」
『信じるか信じないかは、お前次第だ。……だが、いずれ分かる時が来る。お前が「試練」を越えるたび、我らの力は増し、あの男の「枷」は脆くなっていく。……自由を掴むのは、お前か、我らか……。あるいは……』
声はそこで、霧が晴れるように消えていった。
後に残されたのは、瞳の奥で静かに回り続ける曼荼羅の微かな熱と、司祭の「温もりなき声」に対する、消し去れない違和感。
女武闘家は、暗闇の中で自らの拳を強く握りしめた。
自分の中に産まれた、もう一つの意志。
それが救いなのか、それともさらなる地獄への誘いなのか。
彼女の断罪試験は、この「内なる怪物」との対話から、真に幕を開けることとなった