『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】   作:いっかず

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第30話:第五次戦闘試験―不可視の冥王―(後編)

地下闘技場を支配するのは、生物の存在を否定するかのような完全な静寂。

観覧席では司祭が冷笑を浮かべ、その傍らで北方軍の師団長たちが、何も映らぬ砂の舞台を凝視している。

 

だが、その「無」の空間には、かつて北方軍第四師団の頂点に立ち、今は教団の『試作二号』へと堕とされた男――冥王が潜んでいた。

 

(……司祭め。この『枷』さえなければ、真っ先に貴様を地獄に送ってやるものを……)

 

透明化した状態の冥王は、石造りの手摺りに指をかける司祭の背中を、憎悪の籠もった眼差しで射抜いていた。しかし、脳内に刻まれた絶対的な命令が、彼の右腕を強引に標的――闘技場の中央に立つ少女へと向けさせる。

 

冥王は視線を落とし、女武闘家を観察した。

かつての彼女が持っていたはずの、白磁等級らしい瑞々しさは微塵もない。そこに立っているのは、ボロボロの漆黒の衣を纏い、ただ「不浄」を検知するためだけに研ぎ澄まされた、剥き出しの神経の塊。

 

(……貴様の言った通りになったな、司祭)

 

冥王は音もなく、一歩を踏み出す。

熱も、音も、匂いも発しない彼の歩み。通常、どれほど感覚を研ぎ澄ませた武人であっても、心臓を貫かれるその瞬間まで彼の接近に気づくことはない。

 

(この娘は……もはや人の領域にはいない。……私が、そして軍が最も恐れていた『理不尽』そのものだ……)

 

冥王の脳裏に、二十年前の『災厄』の光景が過った。

理屈が通じず、知略が届かず、ただ存在しているだけで周囲を破壊し、消去する神話の怪物。

目の前の少女は、その神話の怪物を「人」という小さな器に凝縮したような、あまりにも不吉な完成形に見えた。

 

(……救いはないな。この娘を産み落とした時点で、世界は終わっている)

 

冥王は、決死の覚悟で彼女の背後へと回り込んだ。

死角。

あの日、彼女から全てを奪い、彼女を死神へと変えた、最も不浄な場所。

冥王は透明な右手を伸ばし、彼女のうなじへと指先を突き出した。

 

接触まで、あと数センチ。

 

「――二度と」

 

女武闘家の声が、静寂を切り裂いた。

 

「二度と……後ろを取らせたりなんか、しないッ!!!」

 

(……!?)

 

冥王は目を見開いた。

自分の存在は消えている。殺意も、音も、空気の揺らぎさえも。

それなのに、彼女は振り返りもせず、ピンポイントで「自分の座標」に向けて右掌を突き出したのだ。

 

彼女の瞳の曼荼羅が、彼が「殺そう」と決めた瞬間にその魂に生じた一滴の『汚れ』を暗闇の中の灯火のように捉えていた。

 

―――ドォォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!

 

「…………見事だ」

 

冥王の透明化が、内側からの衝撃によって粉々に砕け散った。

壁に叩きつけられ、心臓を止めるための自身の毒が逆流するのを感じながら、冥王は最期に、その「理不尽」な一撃を讃えるように口元を歪めた。

 

(司祭……。私は、貴様の枷を破ることは叶わなかったが……)

 

崩れ落ちる視界の中で、冥王は確信した。

 

(この娘は……。この『死神』は、いつか必ず……お前という不浄さえも……)

 

塵となって消えゆく冥王の残影。

五感を超え、心象の汚れを断罪する力が、いま完全に定着した

 

北方軍司令部の将帥たちが陣取る特別観覧席は、かつてないほどの寒気と、重苦しい静寂に支配されていた。

眼下の闘技場では、跡形もなく粉砕された「冥王」の残滓が、雨のように降り注いでいた。

 

「……冥王を葬ったか」

 

北方軍司令の声は、低く、そして微かに震えていた。

彼はかつて、冥王が演習で一個大隊を全滅させた際も表情を変えなかった男だ。だが、今目の前で起きた「理不尽」は、彼の軍人としての常識を根底から突き崩していた。

 

「……我が師団、最強の影が」

 

第四師団長が、手摺りを握りしめたまま、うめき声を漏らした。

「冥王の『無』は、存在そのものを世界から切り離す極致。視覚にも魔力探知にも映らぬはずの彼を、あの娘は……『見ることさえせず』に消し去った」

 

「……これで」

司令は、闘技場から静かに立ち去る女武闘家の背中を見据えた。

その歩みには、冥王という「かつての英雄」を殺したことへの感慨など、欠片も残っていなかった。

 

「……勇者、そして大司教(剣の乙女)に並ぶ、三番目の『例外』が、我らの手によって産み落とされたわけだ」

 

司令の脳裏には、二十年前の『災厄』の記憶が蘇っていた。

人知を超え、軍隊を無に帰す理不尽。

 

「……司祭。次は、誰を出すつもりだ。……冥王すら屠ったこの『死神』の喉を、誰が潤せると言うのだ」

 

司令の問いに、傍らで狂気的な満足感に浸っていた司祭が、ゆっくりと顔を上げた。

 

「クク……、お楽しみはこれからですよ、司令。……次は、個の技ではなく、『数と絆』の絶望を掃除していただきましょう」

 

司祭は、次の試験項目の羊皮紙を広げた。

 

「第六次戦闘試験。標的は――『三頭の猟犬(ケルベロス)』。……死を分かち合うことで不死を得た、我が教団の不敗の魔人たちです」

 

「……あの三つ子を出すか。いよいよ後には引けぬな」

 

司令は、自らの古傷を強く押さえた。

一人の少女を「神」へと至らせるための断罪の階梯。

それは今、北方軍十二万の軍事力をさえも無価値なものに変えようとしていた。

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