『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】 作:いっかず
遡ること二十年前。
極北の地を統べる北方軍は、四方世界の軍事バランスを根底から覆さんとする、狂気的な野心に燃えていた。
当時、彼らが王都攻略の決定打として心血を注いでいたのが、第二師団(冥府呪詛師団)の禁忌魔術と、第三師団(迅雷翼竜師団)の竜族制御技術を融合させた人造の戦略兵器――【邪竜(ケイオス・ドラゴン)】の開発であった。
彼らが「素体」として選んだのは、永久凍土の最奥、数千年の時を経て氷の棺に封じられていた巨大な古龍であった。神話の時代から生き永らえ、ただ静かに眠りについていたその高潔な種。それは本来、人の子が触れてはならぬ「生ける歴史」そのものであった。
しかし、野心に目を焼かれた北方軍は、その不可侵の聖域を土足で踏み荒らした。
「――準備は整った。これより最終接続を開始する」
極北の氷層を穿って造られた地下実験場。
そこには、全身を魔鋼のボルトで固定され、何重もの魔力鎖に繋がれた巨大な古龍が横たわっていた。その眼は混沌の魔力によって濁り、喉の奥からは不気味な黒紫の光が漏れ出している。
「――全術式、正常。魔力注入率、九十パーセント。……いよいよだ。我らは今日、至高神の定めた理を塗り替える」
第二師団の軍の魔導師たちはその清らかな鱗に呪詛の術式を刻み込み、第三師団の操手たちはその強靭な神経に魔力の「枷」を打ち込んだ。
彼らは信じて疑わなかった。この古龍を混沌の泥に染め、意のままに操る傀儡へと仕立て上げれば、至高神の加護厚き王都とて、一夜にして灰燼に帰すであろうと。
だが、運命のダイスは、彼らの傲慢を粉砕する「致命的な失敗」を指し示した。
「……ま、待て! 魔力圧が逆流している! 拘束術式、臨界突破!!」
「馬鹿な! 竜の自我を消去したはずだ! なぜ抗って――」
――――――――グルゥゥゥゥ、オォォォォォォッッ!!!
空を、大地を、そしてそこにいた者たちの魂を直接握りつぶすような、凄まじい咆哮。
次の瞬間、何重にも張り巡らされた「不壊」の結界が、内側から弾けるガラスのように粉々に砕け散った。
「邪竜が……邪竜が暴走したぞ!! 制御不能だ!!」
「拘束術式を最大出力にしろ! 早く……早く引き戻すんだ!!」
悲鳴にも似た命令が飛び交うが、もはや遅すぎた。
物理的な質量を超えた「混沌」を注ぎ込まれた怪物は、自らを縛る全ての理を拒絶し、文字通りの『天災』へと変貌を遂げていた。
暗紫色の『混沌の息吹(ケイオス・ブレス)』が一閃する。
それは炎ではなく、存在を無へと還す腐食の奔流。
一瞬前まで誇らしげに計器を操作していた魔導師たちも、堅牢を誇った観測塔も、その余波に触れただけで泥のように溶け、蒸発していった。
後に「北方の落日」と呼ばれることになる、一週間に及ぶ惨劇の幕が上がった瞬間であった。
「魔力炉、限界突破! 第二師団の封印術式、全層剥離していきますッ!」
総本部の指令室に、悲鳴に近い絶叫が響き渡った。中央の巨大な監視水晶が、黒紫の閃光と共に粉々に砕け散る。破片が将校たちの顔を切り裂くが、彼らはその痛みを感じる余裕すらなかった。
「馬鹿な……。数千の魔導師が編み上げた『枷』だぞ!? 如何に古の竜とは言え、これほど容易く――」
将軍の一人が最後まで言い切る前に、本部の足元から地響きが突き上げた。地下深奥に封じられていたはずの邪竜が、咆哮一つで数千トンの土砂と石壁を押し上げたのだ。
「――逃げろ! ここはもう終わりだッ!!」
退避命令が飛ぶが、あまりにも遅すぎた。
崩落する天井。そして、裂け目から差し込んだのは日光ではなく、すべてを腐食させ、因果を捻じ曲げる「混沌の息吹(ケイオス・ブレス)」の残光だった。
北方軍の頭脳であった参謀たち、数多の戦場を生き抜いた歴戦の将軍たちが、その紫の霧に触れた瞬間に断末魔すら上げられず、黒い炭となって崩れ落ちていく。
王都を落とすはずだった「知恵」の城は、わずか数分で、主たちの骸を埋める巨大な墓標へと変わった。
一方、隠密の卵たちを育てる第四師団の宿舎。そこには、まだ初陣も経験していない少年たちが、逃げ場のない恐怖に晒されていた。
「――緊急事態だ! 装備を捨てろ! 全員、裏の森へ走れッ!!」
教官が血相を変えて廊下を走り抜ける。窓の外では、空を覆う翼が太陽を遮り、巨大な影が宿舎を飲み込もうとしていた。
「皆、諦めるな! 影になるんだ! 闇に溶けて、奴の目から逃れるんだ!!」
一人の訓練生――後の「冥王」が、泣き叫ぶ仲間たちの手を引き、必死に声を張り上げた。彼は誰よりも軍を、そして共に競い合った戦友たちを愛していた。
だが、逃げ惑う彼らの頭上で、邪竜が再び咆吼した。
その「圧」だけで宿舎の窓ガラスは全て粉砕され、多くの少年たちが衝撃波で壁に叩きつけられた。
「……あ、ああ……」
冥王の目の前で、昨日まで将来の夢を語り合っていた親友が、邪竜が振り下ろした「爪」の風圧だけで肉片へと変わった。
救いたかった手。守りたかった絆。それらすべてが、理不尽な暴力の前に無慈悲に粉砕されていく。
(……嫌だ。見つかりたくない……!)
彼は瓦礫の影、光の届かない隅へと自らの身体を押し込んだ。
(消えてしまいたい。……この怪物に見つからない場所に。世界から、最初からいなかったみたいに、消えてしまいたい……!!)
冥王はこの時、瓦礫の隙間にうずくまりながら、自らの存在が世界から消えることを、心臓が止まるほどの恐怖と共に願った。その「見つかりたくない」という極限の生存本能が、皮肉にも彼に【完全透明化】という異能の種を植え付けることになる。
宿舎が崩れ、少年たちの悲鳴が波音にかき消されていく。
北方軍の未来を担うはずだった数千の若芽。
その大半が、自分たちが誇った「混沌」という名の業火に焼かれ、一晩にしてその歴史から抹消されたのである。
北方の空に、終わりのない夜が訪れようとしていた。