『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】 作:いっかず
地下最深部へ続く回廊は、冷気よりも鋭い「殺気」に満ちていた。
重厚な軍靴の音が響く中、鉄兜を被る前の、剥き出しの絶望を瞳に宿した女武闘家が、巨大な黒鉄の門――「絶望の檻」へと歩を進める。
その背後、観覧用の特設デッキには、北方軍の最高幹部たちが勢揃いしていた。
「……冥王も、ケルベロスすらも葬り去り、ついにここまで辿り着いたか」
第一師団長が、腕を組みながらその細い背中を見つめた。
「技の極致を、そして数の暴力を、ただの一振りで『掃除』してのけた。白磁の落伍者と蔑んでいた頃が、もはや前世のことのように思えるわ」
「……二十年前、我ら第二・第三師団が産み落としてしまった、最大の汚点」
第二師団長が、門の奥から漏れ出す禍々しい魔力を感知し、苦々しく吐き捨てた。
「神話の古龍を混沌で汚染し、制御を試みて失敗した、あの忌まわしき『邪竜』。……魔導の暴走が生んだあの怪物を、同じく絶望の暴走が生んだこの娘が裁く。……皮肉な因果だが、実験データとしてはこれ以上のものはない」
「あの封印を解くなど、正気の沙汰ではないぞッ!」
第三師団長が、激しい焦燥を隠せずに声を荒らげた。
彼の脳裏には、二十年前に自軍の翼竜たちが羽虫のように叩き落とされた光景が焼き付いている。
「もしも奴が敗れれば、今度こそ北の地は灰になる! 再び二十年前の惨劇を繰り返すつもりか!? 司令、今からでも中止を――」
「案ずるな、迅雷の」
影の中から、第四師団長が冷徹に割って入る。
「我が師団が心血を注いだ『滅龍の極毒』、そして司祭殿が施した『時空隔離術式』……保険は二重に掛かっている。……それに」
第四師団長は、門の前に辿り着いた女武闘家を指差した。
「……あの娘の『拒絶』は、既に邪竜すらも『餌』として喰らい尽くす領域に達している。司祭殿の理論が正しければ、な」
その議論を断ち切るように、中央に座す北方軍司令が立ち上がった。
彼の視線は、巨大な鉄扉の前に到達した少女――死神の背中に固定されていた。
自らの胸に刻まれた、邪竜による消えない傷跡が疼く。
「…………始めろ」
司令の声は、凍りついた湖面のように静かで、深く、重かった。
「……あの娘が邪竜を滅ぼした時こそが、我らの二十年の悪夢が晴れる瞬間だ。そして、王都の光が絶望という名の衝撃に飲み込まれる、終焉の合図となる」
重厚な鎖が巻き上がる音が、静寂を切り裂いた。
二十年の沈黙を破り、檻の向こう側から、世界を腐食させる「神話の咆哮」が漏れ出してきた。
「……行ってくるね、司祭様。……お父さん」
女武闘家は、誰にも聞こえない声で呟くと、黄金の光すら届かぬ「絶望の檻」の中へと足を踏み入れた。
静寂の中、魔法的に増幅された司祭の声が、天から降り注ぐ宣告のように響き渡った。
「――聞こえるかね、私の可愛い死神よ」
「今日、邪竜という『旧世代の絶望』は終わる。……質量を誇り、火を吹き、物理的な破壊を撒き散らすだけの、前時代の遺物。……それが、君という『新時代の絶望』に食い殺されることで、我々の真理は完成するのだよ」
司祭の声には、狂信的な悦楽が混じっていた。
「二十年前、軍勢を半壊させたあの大質量を。……君の、指先一つ触れさせぬという『純粋な拒絶』で、ただのゴミとして掃除してくれたまえ」
司祭が指を鳴らすと、扉を繋いでいた巨大な鎖が火花を散らしながら巻き上がった。
――――――ゴ、ゴゴゴゴゴ……ッ!!!
扉の隙間から溢れ出したのは、熱気ではない。
皮膚を腐食させ、理性を直接汚染する、どす黒い混沌の瘴気。そして、二十年の間、誰の手にも届かぬ闇に封じられてきた神話の怪物が、その四つの眼を爛々と輝かせて姿を現した。
空間そのものが震動し、隔離された檻の壁にヒビが入るほどの咆哮。
女武闘家の脳内に眠る「最も美しかった頃の記憶」がフラッシュバックする。
『いいか。拳は人を守るためにある。お前の拳なら、いつかドラゴンからも人を守ることができるようになるさ』
病床で微笑んでいた、厳格な父。
『へへ、約束だぜ。俺の剣とお前の拳なら、ドラゴンからだって村の皆を守れるさ。一緒に行こう、冒険者として!』
眩しい朝陽の中で手を差し出していた、あの青年剣士。
「…………、ぁ……」
女武闘家は頭を抱え、絶叫を押し殺した。
かつて愛した者たちの声が、いまは自分を呪う刃となって降り注ぐ。
その目の前で、巨大な鉄の門がゆっくりとせり上がり、神話の時代から抜け出してきたような絶望が這い出してきた。
――――――――グルゥゥゥゥォォォォォォッッ!!!
邪竜の咆哮が、地下空洞の空間そのものを物理的に震わせる。
立ち昇る混沌の瘴気。全ての生物をひれ伏させる圧倒的な「王」の威圧。
女武闘家の瞳に映る邪竜は、もはや生物ですらなかった。
(……ドラゴン。……これがお父さんや、アイツが言っていた……最強の怪物……)
足が震える。呼吸が止まる。
だが、その恐怖を塗り潰すように、瞳の中の曼荼羅――【不浄の指針】が、これまでにない邪悪な輝きを放ち、彼女の脳に「真実」を囁きかけた。
『――くくく、依代よ。何を神格化している』
脳髄を直接掴むような、重なり合う指針の声。
『見えるだろう? あの鱗の隙間から溢れ出す、ただ他者を蹂躙し、食らい尽くそうとする卑屈な渇望を。……目の前にいるのは神などではない。ただの、図体の大きな「ゴブリン」に過ぎぬのだよ』
指針の紋章が狂おしく回転し、彼女の視界を真っ赤に染め上げる。
邪竜の威厳ある姿が歪み、あの洞窟で自分を嘲笑っていた、緑色の醜悪なゴブリンの顔が幾重にも重なっていく。
『奴もまた、世界を汚す汚れの一つに過ぎん。……お前の純粋な拒絶で、その誇り高き魂ごと、塵にしてやれ……!!』
「……不浄。……掃除、しなきゃ」
女武闘家は、ゆっくりと掌を邪竜へと向けた。
神話の質量が、一人の少女を押し潰さんとばかりに前進を開始する。
混沌の竜王と、拒絶の死神。
二十年の時を超えた「絶望の世代交代」が、いま始まった。