『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】 作:いっかず
邪教団の本拠地。地下大聖堂には、かつてないほどの熱狂が渦巻いていた。
二十年前、北方軍を沈黙させた伝説の災厄「邪竜」が、ただ一人の少女の掌によって塵と化した。その歴史的な「勝利」に、教団員たちは勝利の美酒を酌み交わし、司祭の野望が現実となる瞬間を確信して、下卑た歓声を上げていた。
だが、その喧騒から切り離された暗い石室の隅で、女武闘家は返り血のない自らの掌をじっと見つめていた。その瞳の中で、曼荼羅の模様が不気味に、静かに脈動している。
『――忌々しい馬鹿騒ぎだ』
指針の、幾重にも重なった不快な声。
『依代よ、聞こえるか? この連中の声に含まれる「慢心」、救世主を気取る「傲慢」、そしてお前を道具として眺める「劣情」……。あの不潔なゴブリン共と、何ら変わらぬ汚泥の臭いだ』
女武闘家は答えず、自らの白く細い掌を見つめていた。
邪竜の息吹さえ押し戻し、神話を粉砕したこの手。彼女は震える声で、誰にともなく問いかけた。
「……少しは。少しはあの人に……近づけたかな」
彼女の基準は、常にあの暗闇の洞窟で自分を救い上げてくれた、無骨な銀等級の背中にあった。油断せず、驕らず、ただひたすらに小鬼を殺し続けていたあの人の領域に、自分は今、立っているのだろうか。
『――笑わせるな。あのような、泥にまみれて足掻くだけの銀等級など、とうの昔に追い越している』
指針の曼荼羅が、冷酷な輝きを放つ。
『思い出してみろ。あの男に、冥王の『無』を捉えられるか? ケルベロスの『不死』を断つことができるか? まして『神話』の邪竜を滅ぼすことなど、奴に万に一つでも可能だと思うか?』
「…………」
『奴がやっているのは、泥を這いずり回り、知恵を絞ってようやく一匹の害獣を仕留める「人間の営み」だ。……だが、今のお前が振るうのは、世界を掃除する「神の権能」。……あの男は、もはやお前の足元を這いずる虫に過ぎんのだよ』
指針の紋章が、誇らしげに明滅する。
だが、女武闘家は悲しげに首を振った。
「……違う。あの人は、大きな力なんかなくても、一回だって諦めなかった。油断もしなかった。……泥にまみれて、血を流して、それでもただの『人間』として、あの日、私を助けてくれた」
彼女の瞳から、最後の一滴かもしれない涙がこぼれ、床に落ちた。
「私は……私は怖かったから、この力に逃げただけ。……私は、まだ、あんな風に強くなんかなれていない」
彼女は、自分の中に残っている「恐怖」を自覚していた。
竜を殺せても、あの洞窟で刻まれた手の感触は消えない。
神話を越えても、あの下卑た笑い声の残響は耳から離れない。
「……まだ、『恐怖』の試験が残っている」
司祭が告げた、断罪の八段階、その最終章。
闘技場の奥に用意された「最後の檻」を見つめた。
彼女にとっての強さとは、邪竜を屠る破壊力ではなく、あの日の自分を壊した「恐怖」を完全に克服すること。
『……クク。良いだろう。……司祭の思惑など透けて見える。これまでの試験は、お前の出力を測るための「前座」に過ぎん。……最後の試練、お前の魂にトドメを刺しに来る標的……。間違いなく相手は、「奴等」だろうな』
不浄の指針が、期待に震えるように曼荼羅を回転させる。
「……掃除しなきゃ。……今度こそ、私の中の『震え』を、全部」
――邪教団作戦会議室
「閣下! 邪竜討伐の成功、心よりお祝い申し上げます! 伝説の災厄を、ただ一人の少女の『拒絶』が粉砕した……。これこそが、我ら混沌が至高神の理を上書きした瞬間ですな!」
「左様! もはや王都など落ちたも同然! 勇者が来ようが騎士団が並ぼうが、あの衝撃波の前では全てが無意味な塵となるでしょう!」
幹部たちの声は、野心と狂気に震えていた。彼らにとって、女武闘家はもはや実験体ではなく、自分たちを支配者の座へと押し上げる、生ける神の指先に見えていた。
「我が教団の、そして魔神王軍時代からの悲願がいよいよ……! 閣下、直ちに北方軍と連動し、王都への進軍を命じましょうぞ!」
しかし、狂乱に沸く幹部たちを余所に、中央の玉座に座る司祭は、冷徹な理知の瞳を一度も揺らさなかった。彼は自らの右腕を静かになぞり、低く、澱みのない声で場を制した。
「――ククク。喜びに沸く気持ちは分かるが、祝杯をあげるにはまだ早いよ、諸君」
司祭は立ち上がり、黒い法衣を翻して祭壇の奥に置かれた「最後の扉」を指差した。
「まだ……『最終試験』が残っているぞ」
「最終試験……? しかし閣下、邪竜を屠ったあの子に、これ以上何を試すというのですか?」
幹部たちが困惑して顔を見合わせる。司祭の瞳には、勝利への渇望を超えた、病的なまでの執念が宿っていた。
「……あの剣の乙女という『不良品』が、一生をかけても乗り越えられなかった壁。……英雄と呼ばれ、十年間光に縋りながらも、今なお目蓋の裏に焼き付いて離れぬ不浄の影」
司祭は、最後の一ページに「100」という数字が刻まれた実験日誌を愛おしそうに撫でた。
「竜を殺せても、恐怖を殺せなければ死神とは呼べん。……あの子には、己を壊した元凶――ゴブリンの群れを、無感情に、冷徹に、ただのゴミとして掃除してもらう。……その時、初めてあの大司教の魂は根底から否定され、私の死神は神をも凌駕するのだ」
「ゴブリン、百匹……」
「そうだ。絶望を力に変えたあの子が、自らのトラウマを蹂躙し、支配する瞬間を見届けようではないか」
司祭の歪んだ笑い声が大聖堂に反響し、信徒たちの歓声さえも冷たく凍りつかせた。
神話を超えた少女に用意された、最も卑小で、最も残酷な「仕上げ」。
それは、死神が「人間」としての最期の残滓を焼き切るための、血塗られた儀式であった。