『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】 作:いっかず
大闘技場の控室。鉄格子の向こうからは、既に運び込まれた百匹のゴブリンたちの、吐き気を催すような卑屈な鳴き声と、獣じみた体臭が漂ってきていた。
女武闘家は、暗闇の中で自らの拳を見つめていた。その指先は、止めることのできない激しい震えに支配されている。
「……おかしいな」
掠れた声が、冷たい石壁に反跳する。
「……冥王の『無』にも、ケルベロスの『不死』にも、あの邪竜のブレスにさえ、私の『拒絶』は負けなかった。これまで戦ってきた相手は、あいつらなんか足元にも及ばないくらい強かったはずなのに……。なのに、どうしてこんなに震えが止まらないの……」
脳裏に、あの日の暗闇が鮮烈に蘇る。
神話の怪物を屠る力を得てもなお、彼女の魂に刻まれた「最初の地獄」は、癒えるどころか、より鮮明にその牙を研いでいた。
「大司教様も、同じだったんだ……。どんなに強くなって、英雄なんて呼ばれるようになっても。あの洞窟で刻まれた恐怖だけは……死ぬまで消すことはできないんだわ……」
絶望に沈もうとする彼女の意識に、瞳の曼荼羅が焼けるような熱を持って語りかけてきた。
『――違うぞ、依代よ』
脳髄を直接かき回すような、【不浄の指針】の冷徹な声。
『司祭の妄言に賛同する気はないが……お前は、あの女とは違う。お前が今感じているその震えは、決して「弱さ」などではない』
「……違う……?」
『それは、お前の魂がその不浄な存在そのものを、細胞レベルで、存在の根源から「拒絶」している証拠だ。……大司教は恐怖に震えて立ち止まり、誰かが扉を開けてくれるのを待つしかなかった。だが、お前は違う』
指針の紋章が、彼女の視界を真っ赤に塗りつぶしていく。
『お前はその震えを、その生理的な嫌悪を、そのまま「衝撃」に変える術を、この八段階の地獄で手に入れたのだ。……震えが激しければ激しいほど、お前の「拒絶」は神の理すらも容易く粉砕するだろう』
指針の声は、もはや彼女を励ます騎士のようでもあった。
『あの大司教が一生をかけても越えられなかった壁を、我らは今日、この瞬間に越えることができる。……恐怖を支配下に置くのではない。恐怖そのものを「滅びの力」へと昇華させるのだ』
「…………」
彼女の震えが、次第に細かな「振動」へと変わっていく。
それは恐怖によるものではなく、掌から放たれる『拒絶掌』の出力を極限まで高めるための、魂の共鳴。
「……そうね。私はあの方みたいに、誰かに守ってもらうことは選ばない」
彼女の瞳から、最後の一片の「救済への期待」が消え失せた。
「私は……私を壊した全てを、この手で掃除する。……それだけが、私の生きる理由だから」
『――準備は整ったな。さあ、始めようか。不浄なる百の悲鳴を、我等の再誕の産声とする儀式を』
扉が開き、死神は迷いなく、最も忌まわしきゴブリンたちの群れの中へと足を踏み出した。
闘技場を見下ろす観覧席では最後の仕上げを見届けようとする熱狂的な空気が満ちていた。しかし、観測室の魔導端末を監視していた魔術師の部下だけは、脂汗を流しながら司祭の足元に縋り付いていた。
「――閣下! 何卒、何卒ご再考を!!」
魔術師の叫びは、震える喉を突き抜けて静寂を切り裂いた。
「この数値を見てください! 百匹もの小鬼が一斉に放つ、剥き出しの害意と劣情……その負のエネルギーの総量は、あの子の脳内に寄生する『不浄の指針』の許容量を遥かに超えてしまいます! 処理しきれぬ絶望が逆流すれば、彼女の自我は完全に壊れ、制御不能の暴走を招きますぞ!」
「くどいぞ。既に決まったことだ」
司祭は、手元の魔導書を閉じることもせず、冷淡に言い放った。彼の瞳には、自らの理論が「聖女」を打ち負かす結末への、狂信的な期待だけが宿っている。
「ならば、せめて! せめて会場を『絶望の檻』に移すべきです! 万一暴走が起きた際、即座に扉を閉じ、彼女を異空間へ放逐できるように!」
「……忘れたのか。あの時空隔離術式は膨大な魔力を消費する。一ヶ月に一度しか起動できぬのだよ。数日前に、あの邪竜との試験に使ったばかりだ。……北方軍の攻勢は既に始まっているのだぞ? 今さら一ヶ月も待てるはずがなかろう」
司祭は、足元の部下をゴミを見るような目で見下ろし、鼻で笑った。
「しかし、それではあまりにも危険すぎます! あの娘の脳内では、我々の設計にない『未知の自我』が……!」
「案ずるな。私の調整は完璧だ」
司祭は自らの左手首に刻まれた銀色の紋章を撫で、陶酔したように呟いた。
「前にも言ったはずだ。彼女の神経系に直結した『枷』がある以上、我らへの反抗など、思考の段階で封じられている。……あの子が手を向けるのは、不浄なる小鬼と、不浄なる世界だけだ」
司祭の瞳には、勝利への渇望だけが宿っていた。
部下の魔術師が看破した「システムの暴走」も、自我が肥大化した指針の「殺意」も。
全ては、大司教への復讐という名の甘美な毒に溺れた司祭の耳には、届かなかった。
「……さあ、始めようか。不浄を、この世の『理』から消し去るための聖戦を」
司祭が合図のレバーに手をかける。
暗い檻の向こう側で、百匹の小鬼たちの眼が、獲物である少女を捉えてギラリと光った。
神々の遊戯盤の上で、最悪の出目が確定した瞬間だった。