『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】 作:いっかず
地下大闘技場の重厚な鉄扉が跳ね上がり、ゴブリンが飢えた獣のように溢れ出した。その汚濁に満ちた叫びと、吐き気を催す悪臭が広間を埋め尽くす。
観覧席の最上段、司祭は狂喜に瞳を爛々と輝かせ、拡声の術式に声を乗せた。
「――見ろ! あの大司教は英雄などと呼ばれているが、その実、小鬼一匹に怯え、震え続けるだけの『不良品(できそこない)』だ! 恐怖を克服できなかった、ただの敗北者よ!」
ゴブリンたちが、獲物である少女を囲み、下卑た笑みを浮かべて一斉に飛びかかる。その瞬間、司祭の咆哮が頂点に達した。
「だが、君は違う! その震えを全て破壊の衝撃へと変え、蹂躙して見せろ! 乗り越えて、完成するのだ。光の聖女を超える混沌の死神としてッ!!」
小鬼たちの汚れた指先が、彼女の肌に触れる。その、コンマ一秒手前。
「……消えなさい」
少女の唇から、温度のない言葉が零れた。
――――――――ドォォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!
かつてない、空間そのものを白紙に戻すような超高密度の衝撃波【拒絶掌】が放たれた。
百匹のゴブリンたちは、悲鳴を上げる暇さえ与えられなかった。肉体が爆ぜる音すら、衝撃波の轟音に呑み込まれ、一瞬にして闘技場は塵一つ残らない「真っ白な空白」へと塗り替えられた。
「……は、はは……やった。やったぞ!!」
司祭が立ち上がり、両手を天に掲げて狂ったように笑う。
「見たか、剣の乙女! これこそが、お前が一生逃げ回り続けた絶望を飼い慣らした姿だ! お前の、そして貴様らが信じる光の完全敗北だ!!」
だが、その勝利の勝ち鬨を、絶望的な悲鳴が遮った。
「……か、閣下! 逃げてくださいッ!!」
魔導端末を操作していた魔術師の部下が、椅子を蹴り飛ばして後退りながら叫んだ。その顔は、幽霊を見たかのように蒼白に強張っている。
「どうした、何を騒いでいる」
「彼女の瞳……【不浄の指針】が、我々を向いています!!」
「何だと……?」
司祭が眼下を見下ろすと、死神――女武闘家は、ゆっくりと、まるで精密な機械が標的を定めるような不気味な動作で、顔を上げていた。
その瞳の中で、曼荼羅の紋様が血の色に染まり、異常な速度で逆回転している。
「馬鹿な……! 『枷』はどうした!」
傍らにいた教団幹部が、魔術師の部下の胸ぐらを掴んで揺さぶる。
「我らへの反抗など、思考の段階で封じられているはずだろう! 精神支配の術式を最大出力にしろ!!」
「駄目です……『枷』は内側から破壊されています!!」
魔術師は、火花を吹く端末を指差して泣き叫んだ。
「彼女自身の『拒絶』が、自分を縛る術式そのものを『不浄な異物』と見なして……物理的に焼き切ってしまったんだ!! 彼女はもう、誰にも縛られない……!」
死神が、一歩、歩み出した。
彼女の視界。
そこに映るのは、自分を「最高傑作」と呼び、所有欲という名の汚らわしい劣情で観察し続けてきた、小鬼よりも醜悪な不浄の群れ。
「……ゴブリン、見つけた」
「ま、待て! 止まれ!! 私はお前の主だ! お前を救い上げた、お前の救世主だぞ……ッ!!」
司祭は震える手で懐から『転移の巻物(スクロール)』をむしり取った。
その直後。
――――――――――ドゴォォォォォォォォォォォォッッ!!!
教団の本拠地全体が、内側から膨れ上がった衝撃波によって、巨大な風船が破裂するように吹き飛んだ。
石造りの大聖堂が、山を削るほどの圧力で粉々に粉砕される。
「ぎ、あああああああッ!!?」
司祭は転移が発動するコンマ数秒の差で、衝撃の奔流に飲み込まれた。
凄まじい絶叫と共に、彼の右上半身が肩から斜めに削ぎ落とされ、血と魔肉を撒き散らしながら、彼は次元の狭間へと消え去った。
崩落する大聖堂。
土煙の中から、ボロボロの黒いフードを纏った一人の少女が、音もなく外の世界へと歩み出した。
その瞳の奥、曼荼羅の紋様――【不浄の指針】が、司祭という枷を失ったことで、より深く、より鋭く彼女の脳髄へとその根を伸ばし、歓喜の咆哮を上げた。
『――くくく、実に見事だ、依代よ。最早、我らを縛る「枷」はこの四方世界のどこにも存在せぬ。あの卑屈な飼い主も、お前を汚した小鬼共と同じく塵へと消えた』
脳内に直接響く声は、彼女自身の絶望を増幅し、歪めた鏡のような囁き。
『これこそがお前の望んだ真の自由……。さあ本当の「冒険」の始まりだ』
かつて父と歩いた野原。想い人と語り明かした夜道。それら全ての「生きた記憶」が、指針の放つ黒い魔力によって、殺戮の論理へと塗り潰されていく。
『これからお前が数えるのは、過ぎ去った日数でも、進んだ距離でもない。……お前の掌によって粉砕させた、不浄なるゴブリンの数だけだ』
指針は彼女の記憶の深淵に手を伸ばし、最も純粋だった頃の「光」を、どす黒い呪いへと上書きしていく。
『ゴブリンを殺せ。……それが、お前が誰よりも尊厳した父の最期の願いだ。不浄なき世界を、守るべき人々に見せたいと願った父のために、その拳を突き出せ』
「……お父、さん……」
『ゴブリンを殺せ。……それが、あの日お前の身代わりとなって散った、愛した男の絶叫だ。奴らの血で大地を染め上げぬ限り、彼の魂はあの洞窟の暗闇で、永久に小鬼共になぶられ続けるだろう』
彼女の瞳から、最後の一滴の涙が枯れ落ちた。曼荼羅が深紅に輝き、彼女の自意識を完全に塗り潰していく。
『ゴブリンを殺せ。……それが、卑劣な毒に倒れ、未来を奪われた友の祈りだ。お前は生き残った。生き残った者には、死者の無念を「掃除」する義務があるのだよ』
彼女の中に残っていた「幸せになりたかった少女」の残骸は、指針が紡ぐ「死者の偽りの意志」によって完全に磨り潰された。
「……ゴブリン、掃除。……一匹残らず」
死神は、辺境の街の方角へとゆっくりと歩み出した。
その歩みは、かつて英雄を夢見た冒険者の足取りではない。
世界という名の巨大な巣穴を、ただ虚無へと還すための、終わりのない巡礼。
不浄の指針が、歓喜に震えて回転を加速させる。
これから始まるのは、救済なき断罪の物語。
第三章:「慈悲の鍵」争奪戦編へ続く