『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】 作:いっかず
剣の乙女の指先が、記録の後半部に差し掛かった時、そこには一人の少女が「人間」を辞め、「死神」へと昇華していくための、血塗られた戦績が整然と並んでいた。
『第一次試験:鉄烏盗賊団。……完勝。害意を持つ人間をゴブリンと定義。認識の反転に成功』
『第二次試験:鉄甲トロール。……完勝。質量の暴力を衝撃波が凌駕。装甲ごと霧散せり』
『第三次試験:闇人。……完勝。概念的な加護を拒絶の意志が上書き。理の破壊を確認』
剣の乙女は、胸元をかきむしるような苦しさに襲われた。
一段階ごとに、少女の「人間としての心」が破壊の力へと変換されていく。
『第四次試験:ビホルダー。……完勝。解呪の邪眼を拒絶が突破。魔導の法則、彼女には通用せず』
剣の乙女の指が震え、頁をめくる速度が鈍る。そこから先に記された名は、かつて世界を揺るがし、多くの英雄たちの命を奪ってきた「絶望」そのものだった。
『第五次試験:冥王 完勝。……最強の暗殺者、その「無」を看破。背後を取られる恐怖を爆辞に変え、隠密の理を葬る』
剣の乙女は、その名を見て息を呑んだ。
「……冥王。貴方までもが……。あの『無』の技ですら、あの子の悲鳴には届かなかったのですね……」
『第六次試験:ケルベロス。……完勝。三位一体の命脈を同時に切断。数の暴力、再生の術式、共に無価値なり』
そして。
彼女は、最後の一行を読み上げる直前で、呼吸を忘れた。
『第七次試験:邪竜 完勝。……二十年前、北方軍を壊滅せしめた神話の災厄。その混沌の息吹を押し戻し、質量ごと圧殺。もはや、この四方世界に、彼女を退け得る武力は勇者以外に存在せぬことを証明。完成まであと一歩なり』
剣の乙女は、最後の一枚をめくる勇気が持てず、しばらくの間、胸元を押さえて喘いでいた。
邪竜。かつて北方を壊滅させ、彼女自身もその影に畏怖を覚えたあの古き災厄。
「……馬鹿な。……あり得ません。あの伝説の『災厄』すら……。かつて北方軍が全力を以てしても封印が精一杯だったあの怪物を……一人の少女が、たった一人で……?」
彼女には視えた。
竜を殺して誇る英雄の姿ではない。
ただ独り、誰の手も握らず、誰の熱も受け入れず、万物を塵に変えながら泣き叫んでいる少女の、あまりにも深い孤独の深淵が。
震える指先が、その日誌の最後の一頁をめくった。
そこには、これまでの伝説的な魔物や暗殺者の名とは対照的な、あまりにも卑小で、けれどこの世界で最も根源的な「悪意」の数え歌が記されていた。
『最終試験:ゴブリン百匹』
剣の乙女の息が止まる。
邪竜を屠り、神話の域に達した死神に、なぜ今更、最弱の小鬼をぶつけるのか。その後に続く司祭の狂気的な筆跡が、答えを突きつけていた。
『――戦闘力の試験は既に完了した。最後に行うのは、魂の完成である。あの大司教が十年の歳月をかけても乗り越えられなかった壁、「恐怖」を、この娘に蹂躙させ、支配させるのだ』
『聖女が恐怖に震え、光の下で泣き喚く間、我が死神は絶望を衝撃に変え、不浄の根源をゴミのように掃除してみせる。その時、どちらが真に「恐怖」に打ち勝ったか、天上の神々と王都の民に知らしめることになろう』
「……司祭。貴方は……貴方は、何ということを……っ」
剣の乙女は、日誌を抱きしめるようにして、その場に泣き崩れた。
司祭の執念
それは王都を落とすことでも、世界を混沌に染めることでもなかった。
ただ、自分を否定し、至高神の光を嘲笑うために――自分と同じ傷を負った一人の少女を、地獄の底まで引き摺り下ろしたのだ。
「……確かに。……確かに、私は、恐怖を克服できなかった……」
彼女は自らの肩を抱き、闇の中で一人、激しく震えた。
今でも夜は怖い。小鬼の足音が聞こえる気がして、眠れない。あの方がいなければ、自分は一歩も前へ進めない、脆い人間のまま。
「私は……不良品かもしれません。……でも、あの子に……こんな悲しい『正解』を押し付けるなんて……!!」
だが、彼女には分かっていた。
司祭が「克服」と呼ぶその行為の正体が。
恐怖を感じぬように心を殺し、近づく者全てを粉砕するその力が、どれほど残酷な「孤独」であるかを。
「あの子をこんなに独りぼっちにして、誰の温もりも届かない場所に突き落として……。それが『克服』だなんて、そんな悲しい間違い、私は認めません……!」
日誌の最後には、臨界点を突破しようとする術式の奔流が、紙を焦がすような黒い染みとなって残っていた。
剣の乙女は、その染みにそっと手を触れた。
自分を否定するために産み落とされた、鏡の中の自分。
その少女を救うことが、自分自身の過去を救うことに繋がると、彼女は本能で理解していた。
「急がなければ……。あの子が、本当に『死神』として完成して、取り返しがつかなくなる前に……」