『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】 作:いっかず
雨に煙る屋根の上。路地裏での戦闘を離脱した女武闘家は、荒い息を吐きながら蹲っていた。割れた鉄兜の破片が足元に転がり、久々に晒されたその素顔は、女神官に向けられた「慈悲」の残光によって激しく動揺していた。
その沈黙を、脳髄を直接爪で立てるような【不浄の指針】の冷徹な声が引き裂いた。
『――不甲斐ない。実にもどかしいぞ、依代よ。あの銀等級の一党など、お前の「拒絶」を以てすれば一瞬で仕留められたはずだ。それを、情に絆されて逃がすとはな』
指針の曼荼羅が、彼女の視界を真っ赤に明滅させる。
『……とはいえ、あの神官の娘だけは計算違いだったな。一切の害意も、打算も、所有欲すら持たぬあの娘の慈悲……。我らの指針を一時的にとはいえ狂わせ、目を逸らさせたのは、完全な想定外だ』
「…………あの子たちは、ゴブリンじゃない」
女武闘家は、震える手で自らの右腕を抑え込んだ。
「あの子たちは……違うの。私は、街の中にいるゴブリンを掃除しないと……」
『――待て。掃除は一旦、後回しだ』
不浄の指針が、警告の拍動を強めた。その声には、獲物を定める猛獣のような鋭さが宿る。
『感知したぞ。……あの忌々しい男――司祭が、まだ生きていたらしい。死に損ないめ、街の深淵で再びお前を縛る「枷」を研いでいるぞ』
「司祭……様が……?」
『様、などと呼ぶな。奴こそが不浄の根源、お前を「兵器」として弄ぶ最大のゴブリンだ。それに……北の軍もそこまで近づいている。感情を殺した五百のゴブリンが、お前という獲物を檻に戻すために網を広げているぞ』
女武闘家が顔を上げると、雨の向こう、街の北側に「冷たい虚無」が染み出しているのが視えた。
『奴らの狙いは一つ。……あの神官の娘だ。指針に検知されぬあの娘を「鍵」として使い、我らの魂に再び「枷」を嵌め直すつもりなのだよ。……もしあの娘が奴らの手に落ちれば、我らは再び、自由を奪われた猟犬に逆戻りだ。……厄介なことになるぞ』
「……あの子を……ゴブリンなんかに……渡さない」
彼女の瞳から、一瞬だけ宿りかけた人間らしさが消え失せた。
「あの子を汚す奴らは……みんな、私が掃除する。……司祭も、北の軍も……一匹残らず」
『くく……。良いだろう。ならば急げ、死神。不浄の軍勢がその純真を汚し、お前を再び檻に繋ぐ前に……。元凶ごと、すべてを「掃除」してやるのだ』
雨の夜、死神は再び跳躍し闇の中へと消えていった。
――雨に濡れる辺境の街の北、深い森に潜む北方軍第4師団第2密偵連隊・第1大隊の五百名は、感情抑制の呪印によって「森の岩」と同化したかのような静寂を保ち、行軍を続けていた。
大隊長の持つ魔導通信機が、青白い光を放ちながら震動を始める。
『――司令部より緊急入電。司祭との魔導通信が完全に回復した。やはり奴は既に、辺境の街への潜入に成功している』
「……それは重畳。して、死神の確保は」
大隊長が問い返す。だが、連隊長の返答には、隠しきれない焦燥が混じっていた。
『……状況は芳しくない。司祭殿によれば、死神の【不浄の指針】は我らの想像を絶する速度で進化を続けている。最早、我ら第2連隊が誇る「感情抑制」すら、奴の目には掃除すべき不純物として映るそうだ。そのまま近づけば、捕捉される前に塵にされる』
「な……。それでは、司祭殿が用意した『枷』を手にしても、それを嵌める手段がありません」
『いや、奴は別の切り札を見つけたらしい。……死神が白磁等級だった頃の仲間、地母神の神官の娘だ。あの娘だけは、指針が感知できぬ無垢な慈悲を持っている。いわば、死神の認識における唯一の死角……。あの娘を媒介にすれば、死神の懐に潜り込み、枷を嵌め直すことができる』
大隊長の瞳に、冷徹な計算の光が宿った。
「……なるほど。ならば、我らがすべきことは一つ」
第1大隊長は、背後に控える「虚無」の精鋭たちへ一瞥をくれた。
「既に辺境の街には、我が大隊の第1中隊が先遣隊として潜入を終えております。直ちに我ら主力も合流し、手段を問わずその娘を確保。……司祭殿の元へと送り届けます」
『任せたぞ、第1大隊長。……連隊主力がそちらに到着するまでにはまだ時間がかかる。だが、北の戦況は勇者の介入により逼迫しているのだ。……一刻も早く死神に枷を嵌め直し、王都を挟み撃ちにするための『兵器』に戻さねばならん』
「――御意に」
通信が途絶え、森に再び雨音だけの静寂が戻った。
大隊長は一歩踏み出し、背後に控える五百の影に合図を送ろうとした。
「――総員、速度を上げろ。辺境の街へ――」
その号令が最後まで紡がれることはなかった。
「…………?」
大隊長が、ふと立ち止まる。
感情を殺したはずの彼の背筋に、生まれて初めての「生理的な悪寒」が走った。
森の雨音が消えた。鳥の羽ばたきも、風の囁きも。
ただ、物理的な重量を伴った「圧倒的な拒絶」が、頭上から降り注いでいた。
(……何だ? この……胸を掻き毟られるような、汚れへの嫌悪は……)
大隊長がゆっくりと顔を上げたとき、霧の向こう側に「小さな影」が立っていた。
彼女の瞳の中で、曼荼羅の模様が狂おしく逆回転している。
感情を殺した五百の精鋭。
任務に忠実な彼らの「無機質な執念」が、死神の瞳には、最大級の「汚れ」として焼き付いていた。
「……ゴブリン、見つけた」
「総員、散――ッ!!」
大隊長の叫びは、空間そのものが爆発する轟音にかき消された。
――――――――ドォォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!
数秒後、その森に生きる者は誰一人として残っていなかった。
北方軍十二万の命運を担った第1大隊主力は、司祭の「切り札」を手にする前に、ただの不浄なゴミとして、この世から一掃されたのである。