『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】 作:いっかず
辺境の街、第二街区の廃倉庫。雨音だけが屋根を叩く暗がりの中で、北方軍第四師団第二密偵連隊・第一中隊の百名が、音もなく息を潜めていた。
先ほど魔導通信を通じて届いた、大隊主力五百名の「消滅」という報。それは、感情抑制訓練を受けた彼らにとっても、背筋を凍らせるに十分な絶望であった。
「……中隊長。主力との信号、完全に途絶しました。我々以外、誰も残っていません」
通信兵の声は、術式で抑え込まれてなお、微かに震えていた。中隊長は無言で自らの漆黒の剣を抜き、刃に映る自分の冷徹な眼差しを見つめた。
「案ずるな。……いや、案ずる心そのものを捨てろ」
中隊長の声が、静まり返った倉庫に響く。
「我々第一中隊は、最初からこの街の土となる覚悟で潜入したはずだ。主力が消えた今、我々の任務の重みは数倍に膨れ上がったに過ぎん」
彼は部下たち一人一人の顔を見渡した。皆、感情を殺した「虚無」の瞳をしていたが、その奥には軍人としての凄まじい矜持が燃えていた。
「いいか。我等のみで司祭殿を見つけ出し、地母神の娘を確保する。そして死神に『枷』を嵌め直すのだ。」
中隊長は、地図上の「ある地点」へと続くルートを指差した。
「司祭殿が用意した新たな枷……神官の娘という『鍵』さえ手に入れば、あの化け物を再び我らの猟犬に戻せる。そうなれば、北の勇者とて南からの衝撃に背後を晒すことになるだろう」
彼は一歩、雨の降りしきる外へと踏み出した。
「北方軍十二万の命運は、今や諸君ら一個中隊の肩にかかっている。 ここで我らがしくじれば、我が軍は敗走し、故郷は勇者の光に焼かれるだろう。……感情を殺せ。石になれ。死神の指針を欺き、王都陥落の最後の一手を指すぞ」
「「「はっ!!」」」
百の影が、音もなく倉庫から消えた。
彼らはもはや、勝利を信じる戦士ではない。
自分たちが生み出した「世界の終わり」を再び檻に閉じ込めるためだけに動く、沈黙の部品であった。
――ゴブリンスレイヤー1党は水飛沫を上げながら、昨日「行商人」とすれ違った場所へと急行していた。周囲の商店は全て戸を閉ざし、逃げ遅れた猫一匹いない、不自然なほどの静寂が路地を満たしている。
「……昨日、あの人と遭遇したのはこの場所でしたね」
女神官が足を止め、周囲を見渡した。昨日、自分が親切心から声をかけたあの場所。今となっては、その記憶さえも司祭が仕掛けた不気味な糸のように感じられた。
「石畳が泣いとるわい。ただの雨のせいじゃあない。不浄な術と死の残り香が、この辺り一帯にこびりついておる」
鉱人道士が杖の先で地面を叩き、顔をしかめた。土の精霊たちが、この場所に留まる「澱み」を嫌がって逃げ出している。
「拙僧の鼻にも、あの御仁が放っていた腐臭が届き申す。傷を負った獣は、より深く、より湿った闇を好むもの……」
蜥蜴僧侶が鋭い眼光で周囲の建物を射抜く。彼の舌が僅かに空気を捉え、微かな「死の気配」を追跡していた。
「全く、気味悪いわね! 拠点を吹き飛ばされて右半身を失いながら、しぶとく街に潜り込んでるなんて……。執念深さだけは、本物のゴブリン並みじゃないの」
妖精弓手が小刀を抜き、屋根の上から不意打ちがないか耳をぴくつかせる。
「……奴が潜むとしたら、地下だ」
ゴブリンスレイヤーが、路地の突き当たりにある古びた鉄格子の扉――地下水道の遺構へと続く入り口を指差した。
「重傷を負い、追っ手を撒き、かつ『掃除』の進捗を観測できる場所。……ゴブリンの巣と同じだ。入り組んでいて、人間が寄り付かない暗がりを選ぶ」
彼は鉄格子の錆びた鎖を検分し、それが僅かに新しく動かされた形跡を見逃さなかった。
「ここだ。奴はこの下で、あいつを再び縛る準備をしている」
「中には、北の密偵たちもいるのでしょうか……」
「……いるだろう。だが、ゴブリンを殺すのと手順は変わらん。……行くぞ」
ゴブリンスレイヤーが扉を蹴り開けようとした、その刹那。
背後の闇から、先ほどまでの雨音を掻き消すような「無音の殺気」が一行を包み込んだ。
「――来るわッ!」
妖精弓手が叫ぶ。彼女の鋭い耳は、降りしきる雨音の「隙間」を縫って迫る、無機質な軍靴の響きを捉えていた。
闇の中から、にじみ出るように黒い影たちが現れる。
北方軍第四師団第二密偵連隊、第一中隊。
感情抑制訓練を受けた精鋭たちが、一切の殺気を漏らさず、機械的な正確さで一行を包囲していた。
「……何という静寂の重圧。殺意すらも凍りついている。これは、ただの暗殺者の類ではありませぬな」
蜥蜴僧侶が重厚な法輪を構え、低く唸る。彼のような感覚の鋭い武人にとって、殺気がないということは、相手の動きを予測する手掛かりが絶たれていることを意味していた。
「地を這うような、嫌な静けさじゃ……。精霊(ノーム)たちが怯えて潜りおったわい。意思のない人形が剣を振るうとは、このことか」
鉱人道士が杖を握り締め、周囲の「無」の包囲網を睨み据える。
「……神官の娘。お前には我々と共に来てもらう」
包囲網の先頭に立つ兵士が、感情の起伏が一切ない、透き通るほどに冷酷な声で宣告した。
「拒否は許されん。我等北方軍十二万の命運は、お前の持つ『慈悲』にかかっているのだ」
「どういう意味……ですか?」
女神官は聖杖を胸に抱き、震える声で問い返した。兵士は答えない。代わりに、隣に立つゴブリンスレイヤーが、鉄兜の奥で赤い眼光を細めた。
「……成る程。枷を嵌め直す『切り札』か」
「……左様だ、小鬼殺し。司祭殿の言葉によれば、その神官の娘の祈りだけは、死神の『不浄の指針』が唯一検知できぬ空白であるという。……あの娘を再び我らの猟犬として繋ぎ止めるには、その娘の肉体を媒介にするのが最も効率的だ」
「道具にするために……あの子を、またあんな地獄に引き戻すために、私を連れて行くと言うんですか……!?」
女神官の瞳に、激しい怒りが宿る。
自分を助けてくれた友の心を、再び軍隊という名の「不浄」で縛り上げる。そのために自分の慈悲が利用されるなど、断じて許せることではなかった。
「……断る」
ゴブリンスレイヤーが静かに剣を引き抜いた。
「交渉の余地はない。……死にたくなければ、退け」
「……感情的な判断だ。実に合理的ではないな」
第一中隊の兵士たちが一斉に抜剣する。
雨に濡れた白刃が、月光を吸い込んで鈍く光った。
「確保せよ。抵抗する者は――部位欠損を厭わず、無力化しろ」
号令と共に、沈黙の軍勢が牙を剥いた。
感情を殺した刃が、一党の急所を的確に、そして一切の躊躇なく突き刺しにくる。
救済か、支配か。
雨の路地裏で、言葉なき死闘が幕を開けた。