『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】 作:いっかず
豪雨がカーテンのように視界を遮り、叩きつける水音が周囲の音を塗り潰していく。
第3小隊の誘導に抗えず、泥を跳ね上げて走り続けた女神官とゴブリンスレイヤー。
不意に視界が開けたその場所で、女神官は息を呑み、足の震えを止めることができなくなった。
「……っ! この道、この……岩の形……! この道を進んだ先には……!!」
女神官の脳裏に、降りしきる雨を突き抜けて、あの日見た「絶望」の光景が鮮烈に蘇る。
松明の火に照らされた、濡れた岩壁。
仲間の悲鳴。
そして、自分を逃がすために盾となった彼女の最後の叫び。
「…………あの場所か」
鉄兜の奥から、ゴブリンスレイヤーが低く、押し殺したような声を漏らした。
彼にとっても、ここは始まりの場所だ。
白磁の少女を背負い、泣きじゃくる神官の娘の手を引いて歩き出した、あの忌まわしき巣穴。
「クク……。その通りだよ」
洞窟の入り口。暗闇の中から、松明の火に照らされて黒衣の男がゆっくりと姿を現した。
その背後には、一切の物音を立てずに控える黒装束の兵士たちが、石像のように立ち並んでいる。
「……あの日、君たちが初めて出会い、命を繋ぎ止めた場所。そして――」
男は自らの崩れかけた右半身を誇示するように一歩前に出た。
「……私の最高傑作、あの『死神』が、世界を拒むための産声を上げた……聖なる誕生の地だよ」
男の歪んだ瞳が、恐怖に震える女神官をねっとりと見つめる。
「ここ以上に相応しい舞台はあるまい? 君たちが救ったつもりでいた命が、いまや世界を更地にする。その責任を、あの日と同じこの場所で果たしてもらわねばならないのだからな」
男は、まるで旧友に再会したかのような、落ち着いた、それでいて神経を逆なでするような柔らかな声で微笑みかけた。
「――やあ、昨日ぶりだね。慈悲深い地母神の娘。そして小鬼殺し」
「……やはり、貴方だったんですね」
女神官の声は怒りと悲しみで震えていた。昨日、街の通りで「怪我をした行商人」として助けた男の面影が、いま目の前にいる怪物の輪郭と重なる。
「クク……。あの時は助かったよ。薬草の処置が実に見事だった。……やはり君は慈悲深い。あの子……死神を、最後まで救いたいと願うその心が、手に取るように分かるよ」
「……あの娘が身を投げる前に、村へ現れたという行商人も、お前だったわけか」
ゴブリンスレイヤーが、鉄兜の覗き窓から赤い眼光を放ち、男を射抜く。
「流石はゴブリン退治のみで銀等級に上り詰めた男だ。いい嗅覚だね。」
男は自らの崩れた肩を撫で、悦楽に顔を歪めた。
「改めまして。私が、深淵なる拒絶の教団を統べる『司祭』だ。私のことは、あの大司教から聞いているだろう? ……あの『不良品』は今頃、王都で私の死神に震えて泣いているのかな?」
「……! 大司教様を、そんな風に言わないでくださいッ!!」
女神官の叫びが洞窟の入り口に響く。しかし、司祭は鼻で笑い、その言葉を無慈悲に撥ね退けた。
「事実だろう? 君たちは、力なき鋼鉄等級や銀等級でありながら、泥を啜り、必死にゴブリンに立ち向かい続けている。……だというのに、君たちより遥かに大きな力を持ちながら、あの女はどうだ? 過去の恐怖から逃げ回り、聖域の奥で震えているだけではないか」
司祭の瞳に、狂気的な選民意識が宿る。
「ゴブリンへの恐怖から目を背けず、戦い続ける君たち。あるいは、その恐怖を完全に支配し、衝撃へと変えた私の『死神』こそが、この不浄な世界における真実の英雄なのだよ。光に縋るだけの敗北者などではない」
「…………」
鉄兜の奥で、ゴブリンスレイヤーはただ無機質な視線を司祭に向けていた。賞賛も蔑みも、彼の心を一分も揺らすことはない。
「……英雄など、どうでもいい。俺はただ、ゴブリンを殺すだけだ」
「クク……、優しいな、小鬼殺し。以前、水の街であの女が真実を隠蔽したせいで、君たちは危うく死にかけたというのに。自分たちを騙し、盾にした女をなお庇うか」
司祭は、自らの喉元をなぞり、女神官へと視線を移した。
「……まあそう目くじらを立てないでくれたまえ。別に君たちとここで無益な争いをするつもりはないのだよ。私はただ、平和的な『解決』を望んでいるだけだ」
「……貴方たちが、この十年間どれほど残酷なことをしてきたか分かっているんですか!?」
女神官が、叩きつけるような怒声を上げた。彼女の瞳からは、悔しさと怒りの涙が溢れ出そうになっていた。
「たくさんの人の命と心を弄んで……あの子を、あんな悲しい姿に変えておいて! よくそんなことが言えますね!!」
「クク……。心外だな、地母神の娘」
司祭は自らの左胸に手を当て、芝居がかった溜息をつく。
「私はね、彼女に『権利』と『力』を与えてやっただけなのだよ。……思い出してみたまえ。あの日、この洞窟で……ゴブリンに組み伏せられ、涙を流すことしかできなかった、あの無力な彼女を。私は彼女を、その絶望の深淵から救い出し、神にも等しい、何者にも汚されぬ存在へと引き上げてやったのだ」
司祭の瞳に、狂信的な光が宿る。
「感謝こそされ、恨まれる筋合いはないはずだ。……ただ、少しだけ困ったことが起きてしまってね」
司祭は自らの手首に刻まれた、今は反応しない「枷」の紋章を忌々しげに一瞥した。
「私の最高傑作は、少々……『掃除』に熱中しすぎてしまったようだ。このままでは世界すべてが不浄として磨り潰されてしまう。……そこでだ、地母神の娘」
司祭は、まるで恋人に囁くような甘い声で、女神官に詰め寄った。
「私の知識と、君の持つその不純物のない『慈悲』を合わせれば、彼女の指針を欺き、もう一度『枷』を嵌め直すことができる。……彼女を暴走から救い、この街を、世界を守るために……。君の美しい慈悲を、私に貸してはくれないかね?」