『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】   作:いっかず

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第63話:更地の救済 ―死神の行進―

司祭は自らの右半身から滴る黒い魔力を厭うこともせず、一歩、また一歩と女神官へ歩み寄った。その瞳は獲物を追い詰める蛇のように、彼女の心の「隙間」を正確に射抜いている。

 

「……忘れてはいけないよ、地母神の娘。君が今、その綺麗な、一点の曇りもない白の法衣を纏い……銀等級という頼もしい仲間に囲まれながら、未来を信じて笑っていられるのは、一体どうしてだと思う?」

 

司祭の言葉が、雨音を突き抜けて女神官の耳にねっとりと絡みつく。

 

「あの日……この、暗く湿った洞窟で。彼女が君の代わりに、ゴブリン共に立ち向かったからだ。君を逃がすためだけに、奴らの無惨な『性玩具』となって、その身を挺して時間を稼いだ……。今の君の幸福は、彼女が引き受けた地獄の上に成り立っているのだよ」

 

「……あ、あ……」

 

女神官の脳裏に、あの日最後に見た女武闘家の姿がフラッシュバックした。

悲鳴、引き裂かれる衣服、そして自分を逃がそうと絶叫していた彼女の瞳。

押し殺していた罪悪感が、司祭の言葉という毒によって、一気に溢れ出す。

 

「彼女を止めること……彼女をこの苦しみから解放してやることこそが、生き残ってしまった君にできる、唯一の『贖罪』ではないのか?」

 

「……違うッ!!」

 

女神官は、震える手で杖を強く握り直し、叫び返した。

 

「貴方たちは……あの子を、また王都を攻め落とすための道具に戻すつもりでしょう!? 自分たちの戦争のために、あの子をもう一度檻に閉じ込める……そんなことのために、私の気持ちを利用しないで! 貴方たちの片棒を担ぐなんて、絶対にしません!」

 

その断固たる拒絶に、司祭は驚くこともなく、ただ深く、溜息をついた。

 

「やれやれ。君はまだ、事態の深刻さが理解できていないようだね」

 

司祭は冷笑を浮かべ、視線を遠く北の方角へと向けた。

 

「私が言っているのは、北方戦線の勝敗や王都の陥落といった瑣末な話ではない。……『世界』そのものの終わりの話をしているのだよ」

 

「……世界の、終わり?」

 

司祭は再び女神官に手を差し伸べた。

 

「そうだ、地母神の娘。あの死神に刻んだ『不浄の指針』は、いまや私の調整を離れ、神の領域へと羽化しようとしている。臨界点まで、あとわずかだ」

 

司祭は血の混じった唾を吐き捨て、震える指で虚空に円を描いた。

 

「そうなれば……彼女の瞳に映る全ての生命は、例外なく『掃除すべきゴブリン』として再定義される。……只人も、鉱人も、森人も、圃人も、獣人も……そして、我ら混沌の眷属さえもね」

 

「……っ」

 

女神官の喉が、恐怖で鳴った。司祭の言葉は、単なる脅しではなく、冷徹な魔導的予測として彼女の心に突き刺さる。

 

「彼女がその掌を向けるだけで……理も、軍勢も、城壁も……この四方世界のすべては、音もなく更地へと変わるだろう。彼女の拒絶は、もはやこの世界の誰にも止められない。……そう、作り主である私にさえもだ」

 

司祭は、残された左手で、女神官の震える肩を指差した。

 

「最早、この四方世界を救えるのは……君しかいないのだよ、地母神の娘」

 

「何を……何を言っているんですか……?」

 

司祭は自身の右半身を蝕む混沌の痛みをこらえるように、低く、しかし確信に満ちた声で女神官へと言葉を重ねる。

 

「……今はまだ、私の調整が及んでいる。だから、彼女の『不浄の指針』が指し示す標的は、ゴブリンや、明白な害意を持つ悪人に留まっているのだ。彼女の心に辛うじて残る『正義』という名の残骸を、私が繋ぎ止めているからね」

 

司祭はそこで一度言葉を切り、歪んだ笑みを深めた。

 

「だが、一週間後にはその枷は外れる。……そうなれば、彼女の瞳に何が映ると思う?」

 

「……やめて」

 

女神官は震える手で耳を塞ごうとした。だが、司祭の掠れた声は、雨音を突き抜けて直接脳髄に響いてくる。

 

「純粋な子供が、ただの好奇心で彼女を見つめる視線。……それが『不浄の指針』には、この洞窟で彼女を輪姦したゴブリンどもの、下卑た目線と寸分違わぬものとして映るのだ」

 

「そんなっ……!!」

 

「彼女にとって、向けられる『関心』はすべて『侵略』であり、注がれる『視線』はすべて『陵辱』へと変換される。脳に直接、あの日の激痛と絶望が再生されるのだよ。……そうなった彼女がどう動くか、想像に難くないだろう?」

 

司祭は一歩、泥を跳ね上げて距離を詰める。

 

「彼女は、ただ目が合っただけの子供の首を、反射的に消し飛ばすようになる。それが彼女にとっての『自衛』なのだからな。……善意も、悪意の区別も、もはや存在しない。世界そのものが、彼女を壊したあのゴブリンの巣穴と地続きになるのだ」

 

女神官は、あまりの悍ましさに声も出せず、ただ激しく首を振った。

助けを求めて見つめる瞳さえも、彼女を苛む刃になる。これ以上の孤独、これ以上の残酷があるだろうか。

 

「……想像してみたまえ。そんな死神が、あの辺境の街に入ればどうなる?」

 

司祭は陶酔したように両腕を広げ、雨に濡れる辺境の街の方角を指し示した。その瞳には、これから訪れるであろう破滅の光景が、まるで完成された芸術品であるかのように映っていた。

 

「彼女の通った後には、動くものは何一つ残らない。阿鼻叫喚の地獄すら、彼女の放つ拒絶の前には一瞬の静寂へと変えられる。一日だ……。わずか一日で、『ゴブリン』がいなくなった、完璧に清潔な――死の街と化すだろうね」

 

司祭は、女神官の震える瞳を覗き込み、残酷な予言を続ける。

 

「そして、それは地獄の一丁目に過ぎない。彼女の『指針』は止まらない。一度掃除を始めれば、全生命が消えるまでその歩みは加速し続ける。……私の計算では、あの街を皮切りに、一月以内にこの南方だけでも百を下らない『巣穴』が更地と化す」

 

「……百の……」

 

女神官の口唇が戦慄に震えた。

司祭が「街」を「巣穴」と呼び、「人々」を「ゴブリン」と呼ぶたびに、彼女の愛した世界が汚泥の中に沈められていくような感覚。

 

「いずれは『勇者』が彼女を殺すだろう。あの天から選ばれた黄金の光……白金等級の奇跡ならば、あの子の『拒絶』を打ち破れるかもしれない。……だが、それまでに一体幾つの『巣穴』が消え、何匹の『ゴブリン』……いや、君たちの言う『無辜の人間』が死ぬことになるかな?」

 

司祭は、女神官の目の前に、自身の震える左手を突き出した。

 

「勇者が到着するのは、全てが灰になった後だ。……その時、勇者の聖剣に貫かれて死ぬあの子は、果たして救われるのかね? 彼女は自分の手が愛する人々を殺したことも知らぬまま、ただ世界を呪い、孤独な化け物として討たれるのだ。……それが、君の望む結末か?」

 

「…………っ!!」

 

「あの子を救えるのは、勇者の剣ではない。……私の『枷』を嵌め直すことができる、君のその小さな掌だけなのだ。……さあ、選びたまえ。世界を見捨てるか、あの子を再び私の檻へ戻し、この最悪の出目を書き換えるか」

 

司祭の言葉は、逃げ場のない檻となって女神官を包囲した。

彼女が守ろうとしている一人の少女の命。それが、数万の他人の命と、世界そのものの存亡を天秤にかけられていた。

 

雨に打たれ、視界が滲む。

女神官の背後で、ゴブリンスレイヤーの鉄兜の覗き窓が、かつてないほど鋭く赤い光を放った。

 

 

 

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