『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】 作:いっかず
豪雨が洞窟の入り口を激しく叩き、飛沫が鉄兜を濡らす。司祭の差し出した手は、誘惑の蛇のように静かに止まっていた。だが、ゴブリンスレイヤーの口から漏れた言葉は、司祭が最も予期せぬ「侮蔑」であった
「……お前の言うことは、ゴブリンの理屈だ」
「……何?」
司祭の顔から、余裕の笑みが消える。代わりに浮かんだのは、理解しがたいものを見る困惑だった。
「ゴブリンは、目的のために他者を踏みにじる。弱者の痛みを利用し、命を啜り、自分たちの『巣穴』を広げることだけを考える。……お前がやっていることは、それと同じだ」
鉄兜の奥で、男はあの日、地獄から救い出したはずの少女の震えを思い出していた。
「彼女の悲鳴を燃料にし、彼女の絶望を兵器に変え、それを正解だと嘯く。……自分の復讐のために道具として使い潰す。……それは、俺が殺してきたゴブリンのやり方と何ら変わりはない」
ゴブリンスレイヤーは、一歩。重い金属音を立てて踏み込んだ。
「例えお前の『枷』で彼女を道具にし、この世のゴブリンを根絶したとしても……」
鉄兜の奥で、赤い眼光が断罪の火を灯す。
「そこに残るのは、お前が支配する別の不浄な『巣穴』だけだ。そして、その時……俺自身もお前と同じ『ゴブリン』に成り果てていることになる」
「…………」
「俺は、お前と同じにはならない。どれほど効率が悪かろうと、俺は俺のやり方で奴らを殺す」
ゴブリンスレイヤーの、鉄兜の奥から響く地を這うような声。
司祭の瞳に宿っていた偽りの慈悲が、一瞬で冷酷な光へと塗り替えられた。
「……後悔することになるよ、小鬼殺し」
司祭は、喉元の剣を無視して一歩踏み出し、鉄兜を覗き込む。
「どうやって彼女を止めるつもりだ? あの街の、いや、この四方世界の冒険者を総動員した所で、今の彼女には指一本触れることもできないのだよ。物理的な力も、魔導の知恵も、彼女が『不浄』と断じた瞬間にすべては塵に帰す」
司祭の口端が吊り上がる。
「君はゴブリン以外に興味はないだろうが、二十年前のあの『邪竜』を知らないとは言わせないぞ。かつて北方軍を壊滅させ、世界を震撼させたあの伝説の災厄……。今の彼女は、それをただの不浄なゴミとして『掃除』してのけたのだよ」
「……っ!!」
背後で女神官が息を呑む。神話の怪物を凌駕する力。それを自分たちの知っている「彼女」が持たされているという残酷な事実。
「君一人の矮小な正義感のために、これから彼女の手で奪われる何十万という無辜の命を、全て道連れにするつもりか? 救えるはずの未来を、君の個人的な執念で踏みにじる……。それこそが、君の言う『ゴブリンの理屈』ではないかね?」
司祭の言葉が、激しい雨音と共に女神官の心に重くのしかかる。
論理では、司祭が正しい。
死神となった彼女を「兵器」に戻せば、少なくとも今ここにある全滅の危機は回避できる。
だが、ゴブリンスレイヤーの赤い眼光に、迷いは一切なかった。
「……あいつを道具にはさせない。……それは、ゴブリンを殺すことよりも重要なことだ」
降りしきる雨が、女神官の白い法衣を泥で汚していく。司祭はゴブリンスレイヤーの喉元にある短剣を冷笑で見つめ、視線をゆっくりと、傍らで震える女神官へと移した。
「……地母神の娘。君はどうするつもりだ? まさか、この狂人の身勝手な矜持に付き合うつもりかね?」
司祭の声は、湿り気を帯びた誘惑となって彼女の耳に滑り込む。
「君が私の『枷』を手に取り、あの子を抱きしめれば済む話だ。それだけで、君たちの愛するこの街も、無数の無辜の命も救われるのだぞ? 犠牲になるのは……既に壊れているあの子一人の『自由』だけだ。これほど割に合った慈悲が、他にあるかね?」
「…………」
女神官は、泥を跳ね上げる風の中で、真っ直ぐに司祭を見つめ返した。その瞳からは、もはや恐怖の色は消え、透き通るような、けれど鋭い決意の光が宿っていた。
「……私も、貴方の『鍵』なんかには……絶対になりません!」
「ほう?」
「貴方は、あの子を救うために慈悲を貸せと言いました。でも、貴方の言っている『救い』は、あの子を一生暗い檻に閉じ込めて、利用し続けることじゃないですか! それは……あの日、この洞窟で、ゴブリンたちがしたことと、一体何が違うんですか!?」
司祭の顔から、わずかに笑みが消える。女神官は錫杖を強く地面に突き立て、魂を絞り出すように叫んだ。
「私はあの子を救いたい! でも、貴方の道具にして救うんじゃない! 私は……武闘家さんの『心』を取り戻したいんです! 誰にも触れさせないために衝撃を放っているあの子の、その震える手を……今度こそ、私が握りしめるために、私はここに来たんです!!」
彼女の叫びが、雨音を切り裂いて洞窟の奥まで響き渡った。
それは、司祭が計算していた「慈悲」という名の部品ではなく、一人の人間が友に捧げる「愛」という名の叛逆であった。
「……やれやれ。交渉決裂かな。ならば仕方がない。私は君たちに、最良の結末を提示したはずなのだがね」
司祭は深く、芝居がかった溜息をつくと、その冷酷な瞳をゴブリンスレイヤーに向けた。
「第二連隊の諸君。この狂人を始末して、地母神の娘を確保したまえ。……傷つけるなと言いたいが、抵抗が激しければ少々手荒でも構わん。命さえ繋ぎ止めておけば、『鍵』としての役目は果たせるからね」
司祭の背後の闇から、感情を凍結させた第二小隊の精鋭たちが音もなく躍り出た。
殺気も、躊躇もない。ただ「排除」と「確保」という命令に従うだけの精密な機械のような動き。
「……っ、《いと慈悲深き地母神よ――》」
「下がっていろ!」
ゴブリンスレイヤーが即座に短剣を抜き、女神官を背後に庇う。
兵士たちの動きには一分の乱れもない。殺気も闘気も漏らさぬ彼らの刃は、雨の幕を割いて、最短距離でゴブリンスレイヤーの急所へと吸い込まれていく。
絶体絶命。
数と技術の暴力が二人を磨り潰そうとした、その瞬間――。
―――――――ドドドドドドドドォォォォォォンッ!!!
落雷ですら生温い、空間そのものを爆砕するような凄まじい衝撃が、二人の周囲に円形に叩きつけられた。
「な……っ!?」
「ガ、あぁぁぁ……ッ!!」
襲いかかっていた第二小隊の兵士たちが、不可視の壁に弾き飛ばされ、木の葉のように荒野へと散っていく。感情を殺していたはずの彼らの口から、衝撃に耐えかねた苦悶の呻きが漏れた。
爆風と土煙が、激しい雨に洗われていく。
女神官とゴブリンスレイヤーの目の前、抉れた大地の中央に、一人の影が立っていた。
黒いフードを激しくなびかせ、曼荼羅の瞳を爛々と輝かせた少女。
その両掌からは、未だに空間を歪めるほどの「拒絶」の残光が漏れ出している。
「な……、馬鹿なッ!!」
司祭が驚愕に顔を歪ませ、後ずさる。
「どうしてここにいる! お前はまだ街の中で、不浄なゴミ共を掃除しているはずだろう!? 私の計算では、お前がここへ辿り着くにはまだ――」
司祭の困惑を、フードの奥から漏れる「掠れた声」が遮った。
それはあの日、この場所で途絶えたはずの、一人の少女の、弱々しくも確かな意思だった。
「……良かった。……間に合って」
死神の手が、微かに震えていた。
指針が捉える司祭の野望、北方軍の殺意。
それら全てを、自分を救った二人に触れさせないために。
死神の衝撃が、今、自分を産み落とした創造主へと牙を剥いた。