『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】   作:いっかず

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第67話:絶望と誓いの境界

司祭が消滅し、立ち昇る白煙が夜風に流されていく。かつて「始まりの洞窟」があった場所は、今や月光を虚しく反射する、滑らかで巨大な虚無のクレーターとなっていた。

 

その縁に立つ女武闘家は、力なく垂れ下がった自らの掌を凝視していた。

彼女の瞳の曼荼羅――【不浄の指針】は、勝利を確信した悍ましい歓喜を、直接彼女の脳髄へ叩きつけていた。

 

『――ククク、ハハハハッ!! 実に愉快だ、依代よ! これで我らに「枷」を嵌め直す術は、この四方世界から永久に失われたのだ!』

 

指針の曼荼羅が、持ち主の脳を焼くような熱を帯びて回転する。

 

『……だが、何を躊躇っている? 目の前の二人を見ろ。お前を救ったつもりでいるあの男と、お前の犠牲の上に生き長らえたあの神官の娘……。奴等を生かしておけば、お前の心にはいつまでも「迷い」という不純物が残る。それでは、お前は不完全な死神のままだぞ』

 

「…………」

 

死神の掌が、微かに震える。指針は逃さずその揺らぎを突き、殺戮を促す。

 

『今ここで、最後の一片まで掃除してしまえ。そうすればお前は、真の意味で「自由」になれる。……さあ、掌を向けろ。拒絶を叫べ!』

 

しかし、死神は動かなかった。

女神官の涙で濡れた瞳が、彼女の術式を激しく乱していた。

害意も劣情も検知できない「無垢な悲しみ」。それが指針にとっての致命的なノイズとなり、自動発動の術式を強引に足止めしている。

 

『……ふん。あくまでその「甘さ」を捨てるつもりはないか』

 

指針は、つまらなそうに声を低めた。だが、その響きには絶対的な勝利者の余裕が宿っていた。

 

『……まあ良い。あの卑屈な飼い主が死に、枷が失われた以上……最早、奴らがどう足掻こうが、この聖戦を止められはせぬ。臨界点まであと一週間だ。時が来れば、お前は自ずと、あの光の娘さえも不浄として排除せざるを得なくなるのだからな』

 

指針の紋章が、不気味な静寂へと沈んでいく。

 

「…………が、あ……」

 

女武闘家が、自らの頭を両手で強く抱え込んだ。

臨界点への加速。内側から脳を焼き焦がすような熱。

その激痛の隙間から、消え入りそうな、けれど彼女自身の「魂の声」が溢れ出した。

 

「……神官ちゃん。……ゴブリンスレイヤーさん……」

 

涙さえも蒸発させるような熱を持った瞳が、かつての仲間を見据える。

 

「……一週間以内に、逃げて。……遠くへ……、この街から、ずっと遠くへ……」

 

彼女の掌から、黒い稲妻のような衝撃が漏れ出し傍らの大岩を砂へと変える。

 

「お願い……逃げて……。……私は……。貴方たちだけは……殺したくない……っ!」

 

「武闘家さん……!」

 

女神官が駆け寄ろうとした瞬間、死神の周囲の空気が激しく爆ぜ、透明な壁が二人を拒絶した。

 

『……さらばだ。我が同志、そして光の娘よ』

 

不浄の指針が、強制的に彼女の身体を反転させる。

死神は、背後の闇へと溶け込むように跳躍し、一瞬で視界から消え去った。

 

後に残されたのは、不気味なほど静まり返った山肌と、七日間という名の、世界が消えるまでのカウントダウン。

 

ゴブリンスレイヤーは、彼女がいた場所の焼けた土をじっと見つめ、短剣を鞘に収めた。

 

「……司祭が死んだことで、奴が持っていた彼女を止める『術』は完全に失われた」

 

鉄兜の奥から響く声は、いつになく沈んでいた。

 

「……残された道は、奴が言ったように勇者の聖剣を待つしかない。あの一振りの奇跡なら、彼女の『拒絶』という檻ごと、その魂を浄化できるだろう」

 

ゴブリンスレイヤーは北の空を見上げた。そこでは未だに黄金の雷鳴が轟いているが、それはここから遥か遠い場所にある。

 

「だが……勇者が北の戦いを片付け、この街へ辿り着く頃には……。彼女の臨界点はとうに過ぎている。この街は更地になり、彼女は名実ともに、世界を殺す死神として完成してしまう」

 

女神官は、泥にまみれた自らの白い法衣を握りしめた。

司祭は「枷」を嵌め直せと言った。

勇者は「存在」を消し去るだろう。

だが、そのどちらも、あの日笑い合っていた「彼女」を取り戻す答えではない。

 

「……ゴブリンスレイヤーさん」

 

女神官が顔を上げた。その瞳には、かつてゴブリンの巣穴で震えていた少女の面影はない。

 

「あの日……私は、彼女に背中を任せて逃げました。怖くて、自分だけが助かりたくて……。彼女が地獄に取り残されるのを、ただ見ていただけでした」

 

一歩、女神官はクレーターの縁へ歩み寄る。

 

「そのあともそうです。彼女が村で苦しんでいる時、私は『怖い』という理由で、会いに行くことすらしなかった。……私の逃避が、彼女を一人にして、司祭という悪魔を呼び寄せてしまったんです」

 

女神官は聖杖を強く、折れんばかりに握りしめた。

 

「……私は、もう二度と、彼女を見捨てて逃げたりしません」

 

それは、神々のダイスの出目を否定するほどの、強固な人間の意志。

 

「勇者様を待つんじゃありません。彼女が死神になるのを、ただ見守るんでもない。……あの子を独りぼっちの檻から連れ出すのは、他の誰でもない、私です。……一週間。その一秒が終わるまで、私は絶対に諦めません」

 

「…………」

 

ゴブリンスレイヤーは、女神官の背中を静かに見守った。

理屈ではない。戦略でもない。

ただの「情愛」という名の不純物が、いま、世界最強の拒絶を打ち破る唯一の武器として研ぎ澄まされていく。

 

「……分かった。……準備を急ごう」

 

二人は、夕闇に染まり始めた荒野を背に、戦場となった街へと歩み出した。

一人の少女が世界を拒み、一人の少女が世界を受け入れる。

その最後の七日間が、いま始まった。

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