『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】 作:いっかず
北方軍総司令部。天幕の隙間から吹き込む風は凍てつくように冷たく、敗走する魔獣たちの地鳴りのような足音が、司令官の心臓を不吉に叩き続けていた。
「――報告いたします。南方に潜入中の第2密偵連隊より入電……司祭は、死亡。死神の手によって粉砕されました。制御術式の中核である『枷』も、奴諸共跡形もなく消失したとのことです」
第4師団長の声は、もはや感情を押し殺すことすら無意味であるかのように、乾ききっていた。司令官は、地図の上に置かれた「黒い駒」――司祭の象徴を、自らの手でゆっくりと盤外へ弾き飛ばした。
「……死神を再び支配下に置くことは、もはや不可能となったな」
司令の低く、重い独白。そこに、縋るような声を上げたのは、作戦の立案に関わってきた参謀だった。
「……閣下、まだ……まだ盤面が死んだわけではありません! 司祭の遺した計算によれば、一週間後に臨界点を迎えた死神は、当初の作戦通り、最も人口が密集した王都を『最大の巣穴』として襲うはずです。そうなれば、勇者とて北の戦線を放り出し、南に引き返さざるを得なくなる!」
参謀は、汗を拭いながら地図に身を乗り出す。
「死神と勇者が王都で激突し、共倒れになれば……我らはその隙に全軍を立て直し、再び王都を飲み込める。一週間……あと一週間だけ持ちこたえれば、この戦いを巻き返すことは可能です!」
「…………」
司令は、窓の外で黄金に輝く雷鳴――勇者が放つ、理不尽なまでの聖光を見つめていた。そして、静かに参謀へと問いかけた。
「……参謀よ。臨界点を迎えた死神が、王都ではなく、この北の戦場に現れればどうなる?」
「え……?」
「今、この北の地には、大陸中で最も濃密な『殺意』と『戦意』、そして敗北への『恐怖』が渦巻いている。……死神がそれらを不浄な不純物と見なし、この戦場こそを『最大の巣穴』だと断じれば、我らは勇者の光に焼かれる前に、あの子の一撃で丸ごと『掃除』されることになるのだぞ」
参謀の顔から、一気に血の気が引いていく。
「それ以前に……」
司令は、傍らに置かれた各師団の損害報告書を手に取った。
「……勇者の聖剣から、あと一週間も持ちこたえられると本気で思っているのか? 第1師団長は戦死し、第3師団の翼は折れた。第2師団の魔力も底を突きかけている。これまでの戦いによる各師団の損耗は、既に限界を超えているのだ」
司令は、深く軍帽を被り直した。
「一週間という時間は、我らにとって救いではない。……それは、我らがこの北の雪原で、一兵残らず塵になるのを待つための、あまりにも残酷な執行猶予だ」
司令は、軍刀の柄を強く握りしめた。
もはや、神々の遊戯盤に自分たちの居場所はない。
北には黄金の天災。南には漆黒の終末。
二つの理不尽に挟まれた軍勢に残された唯一の道は、勝利でも名誉でもなく、ただの「逃走」のみであった。
「……全軍に告げろ。現時刻を以て、総撤退を開始する。司祭の毒夢に付き合うのは、今日までだ」
北方の戦場に、撤退を告げる重苦しい角笛が響き渡った。
それは、一人の少女の絶望から始まった、北方軍の二十年にわたる「終わりの始まり」を告げる音であった。
――北方戦線、王都最終防衛線の最前線。
先ほどまで大地を震わせていた巨獣の足音と、空を埋め尽くしていた翼竜の絶叫が、潮が引くように遠ざかっていく。
黄金の聖剣を手に、返り血一つ浴びぬ姿で戦場の中央に立つ勇者は、北の地平へと消えゆく黒鉄の波を静かに見つめていた。
「……北方軍が引き上げていく」
その呟きに応えるように、背後で魔導書の残光を消した賢者が、冷静に戦況を分析する。
「妥当な判断でしょう。既に第1師団と第3師団は半壊。航空優勢も制圧能力も失った彼らにとって、これ以上の進軍はただの自殺行為でしかありませんから」
「……だが、先ほどまでは」
腰の刀に手をかけたまま、剣聖が鋭い眼光を北の霧へと向けた。
「先ほどまでの奴らは、明らかに異常だった。一歩も引かず、全滅を厭わぬ遅滞戦闘を続けていた。まるで……自分たちがここで時間を稼げば、勝利が約束されていると信じているかのような戦い方だった」
剣聖の言葉に、勇者の身体が微かに震えた。
彼女には聞こえていた。北方軍が退却を決断した瞬間に、彼らの魂から漏れ出した「絶望」と「放棄」の音を。彼らが賭けていた「南の切り札」が砕け散った残響を。
「……すぐに南へ行かなきゃ。あの子が……あの子の悲鳴が、まだ止まってないんだ」
勇者が一歩踏み出し、南の空を見据える。そこには、臨界点を迎えようとする禍々しい赤黒い光が、不気味に揺らめいていた。
「……勇者様。お気持ちは分かりますが……」
賢者が、痛ましげに声を落として彼女を制した。
「王都軍も、度重なる戦闘で崩壊寸前です。……騎士団長も重傷、近衛の半数以上が戦闘不能。……今、この場所から唯一の抑止力である私たちが北を離れれば、残存する魔獣や第2師団の伏兵が、最後の一押しで王都を灰にするでしょう」
「…………」
「……この北の勝利を確定させるまで、あと少し。……あと数刻の時間が必要なのです」
勇者は拳を握りしめ、聖剣の柄を強く噛み締めた。
いまこの瞬間も、南の辺境では一人の少女が孤独な檻の中で、世界を拒絶し続けている。
救いに行きたい。けれど、自分がいなければ、ここで流された数万の犠牲が無に帰す。
「……間に合わない。ボクがここを片付ける頃には……あの子は、もう……」
「……信じましょう。……あの街には、『小鬼殺し』がいる」
賢者の言葉に、勇者はハッとしたように顔を上げた。
「……そう、だね。……彼なら。……彼らなら」
勇者は再び、目の前に残る不浄な軍勢へと剣を向けた。
自分が北を終わらせるのが先か。
彼らが南を救い出すのが先か。
神々の遊戯は、最も残酷で、最もひたむきな「時間の奪い合い」へと突入していた。