『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】 作:いっかず
第71話:後悔と決意の交差点
冒険者ギルド、監視塔の最上階。
激しかった雨は小降りになり、湿った夜風が監督官の髪を揺らしていた。彼女の瞳は暗闇の向こう側――街を包囲していた「不気味な空白」が遠ざかっていく様を捉えていた。
「……第二密偵連隊が、北に引き上げていくわ」
監督官の静かな言葉に、背後で地図を握りしめていた受付嬢が、微かに肩の力を抜いた。
「司祭が、死んだのでしょうね。死神を再び支配下に置くための『枷』を嵌め直す術が……司祭と共に、この世界から完全に失われたことで」
「ええ。北方軍にとって、制御不能となった死神の側に留まる理由はもうない。……王都の危機は、これで脱したわね。北の本隊が撤退を開始するのも、もはや時間の問題でしょう」
監察官は窓を閉め、室内に戻った。だが、受付嬢の顔に安堵の色はなかった。彼女は、先ほど届いた「死神が通過した跡」の惨状を記した羊皮紙を、震える指でなぞった。
「……しかしまだ、終わっていません。北方軍がいなくなっても、死神の脅威は消えてはいないのです。……むしろ、枷を失ったあの力は……」
その時だった。
ギルドの一階から、重厚な扉が開く音が響き渡った。
静まり返った館内に、泥を跳ね上げ、鉄が擦れ合う、聞き慣れた不格好な足音が近づいてくる。
泥にまみれ、疲弊しきった姿のゴブリンスレイヤーと、泣き腫らした目で、けれどもしっかりと聖杖を握りしめた女神官。
革鎧はボロボロに裂け、盾には深い凹みが刻まれている。
鉄兜の覗き窓から漏れる赤い眼光は、極限の疲労を孕みながらも、冷徹に「次」を見据えていた。
「オルクボルグ! 無事だったのね!」
真っ先に駆け寄ったのは、妖精弓手だった。彼女は二人の無事を確認すると、安堵で肩の力を抜いた。
「……戻られたか。貴殿らの魂から漂うその悲痛な響き……洞窟で何が起きたのか、推察するに余りありますな」
蜥蜴僧侶が数珠を鳴らし、深く頭を垂れる。
「精霊たちが震えておるわい。司祭の毒々しい魔力とは違う、もっと純粋で、空虚な衝撃……。始まりの洞窟が『消えた』そうじゃな、かみきり丸」
鉱人道士が酒袋を揺らしながら、鉄兜の男を見上げた。
「……ゴブリンスレイヤーさん」
受付嬢が、痛みをこらえるような面持ちで彼に歩み寄った。
「……司祭の最期と。……あの場所で見たことを。……ギルドに、正確な報告をお願いできますか。……あの子が、いまどうなっているのかを」
「…………」
ゴブリンスレイヤーは沈黙したまま、鉄兜の覗き窓を女神官へと向けた。彼女の決意を確かめるように。そして、再び受付嬢へと向き直る。
「……わかっている。報告が必要だ。……司祭が遺した、最悪の遺言について。……そして、あの娘が死神として完成するまでの、残り時間のな」
ギルドにいた冒険者たちが、その言葉に一斉に息を呑む。
「……司祭は、彼女の手によって殺された。制御下に戻すための『枷』も失われた」
その言葉が、静まり返ったギルドの広間に冷たく響き渡る。受付嬢の顔から血の気が引いていく。
「……あと一週間だ。一週間後、彼女の瞳に宿る【不浄の指針】は臨界点を迎える。そうなれば、彼女の意志とは無関係に、術式が全人類を……全ての知的生命体を『掃除すべきゴブリン』として自動的に定義する」
「……全ての、知的生命体を?」
受付嬢が、震える指で自らの胸を抑えた。只人も、鉱人も、森人も。自分たちが何者であるかに関わらず、彼女の視界に映った瞬間に、かつて彼女を壊したあのゴブリンたちと同じ「汚れ」に変換される。
「そうなれば、この街は消える。……彼女が街の門を潜った瞬間、そこは巨大な『不浄の巣穴』と見なされ、一兵一民残らず消去されることになるだろう」
ゴブリンスレイヤーは顔を上げ、静まり返ったギルドの広間を見渡した。
「この街だけではない。……南方の全土が、あの子の放つ『拒絶』の衝撃によって、音のない死の荒野と化す。……それが、司祭が最後に算出した、世界の終焉の図式だ」
それは、数千の北方軍を相手にするよりも、遥かに救いのない「世界の終わり」の告知だった。かつては喧騒に包まれていたはずのロビーを、氷ついたような静寂が支配する。
その片隅で、戦う術を持たぬ若き冒険者たちが、震える声で言葉を漏らした。
「嘘だろ……。北の軍勢がいなくなったって喜んでたのに……。小鬼退治の依頼がなくなったのは、俺たちが平和になったからじゃなくて……全部、あいつが殺すための準備だったっていうのか……?」
新米戦士が、ガタガタと震える膝を必死に抑えながら、掠れた声を漏らした。
「至高神様……。そんな、あんまりです。あの子だって、あの日までは私たちと同じ……明日を夢見る冒険者だったのに。どうして、こんな残酷な結末にならなきゃいけないんですか……」
見習い聖女が、祈るように組んだ手を胸の前で強く握りしめ、涙を流す。
「……なあ! ゴブリンロードの時みたいにさ!」
耐えきれなくなった少年斥候が、声を荒らげて立ち上がった。
「あの時みたいに、街中の冒険者で力を合わせて、一斉にかかれば何とかなるんじゃねえのか!? 相手がどれだけ強くたって、みんなで力を合わせれば、きっと……!」
「……無理です。あの時とは、話の次元が違います」
少女巫術師が、冷たく、そして悲しげに少年を遮った。
「ゴブリンロードは、軍勢を率いた『王』に過ぎなかった。でも……今の彼女は、近づくもの全てを『拒絶』し、消し飛ばす……歩く天災そのものなんです。剣も、魔法も、数による連携も……彼女が『嫌だ』と思った瞬間に、不浄としてこの世から消し去られる。……戦うことすら、許されないんです」
広間に、再び救いようのない静寂が戻った。
カウンターの奥、受付嬢は震える指先で、かつて自分が綴った数年前の「事後報告書」の写しを握りしめていた。そこには『登録者:女武闘家。救出。負傷につき引退、帰郷』と、あまりにも簡潔な、事務的な一文だけが記されていた。
「……ギルドの、私の怠慢です」
受付嬢の声が、静まり返った広間に零れました。
「私たちは……ゴブリン退治に失敗した冒険者が命を落とし、心を病むのを『よくある話だ』と。ゴブリンの被害に遭っても、命が救われただけでも良かったのだと……。そう自分たちに言い聞かせて、彼女のその後の心について……彼女がどれほどの孤独の中にいたのかについて、考えるのをやめてしまった」
彼女は、自分たちが日常的に使っていた「よくある話」という言葉が、どれほど残酷な「見捨て」であったかを、いまさらながらに噛み締めていた。
「私たちが彼女の『その後』から目を逸らした空白が、あの司祭という怪物に付け入る隙を与えてしまった……。この街を滅ぼそうとしている死神を産み落としたのは、紛れもなく、私たちの無関心です」
絶望に打ちひしがれ、涙をこぼす受付嬢。
他の冒険者たちも、自分たちが救われなかった仲間たちをどれほど容易く忘れてきたかを突きつけられ、項垂れるしかなかった。
しかし、その重苦しい後悔の鎖を、毅然とした声が断ち切った。
「……いいえ。まだ、遅くありません」
女神官が、一歩前へ踏み出した。
彼女の法衣は泥に汚れ、手は震えていたが、その瞳だけはギルドのどの灯火よりも強く輝いていた。
「あの子を独りぼっちにしたのが、私たちの無関心だったのなら……いま、あの子に手を伸ばせるのも、私たちしかいません。司祭が死に、術者がいなくなった今だからこそ、あの子の心に届く言葉があるはずです」
女神官はゴブリンスレイヤーの横顔を見上げ、それから監察官、そして受付嬢へと視線を巡らせた。
「臨界点まであと一週間。……あの子は、まだ完全に世界を捨てたわけじゃない。洞窟で『逃げて』と言ったあの子の優しさを、私は信じたいんです。……私は、もう二度とあの子を見捨てません。一秒だって、諦めたりしません!」
「…………」
監察官は、その少女の「看破」できないほど強靭な善性を見つめ、小さく口角を上げた。
「……一週間ね。……論理的な計算では全滅が確定しているけれど。……『よくある話』を塗り替えるのは、いつだって貴方たちのような、計算のできない馬鹿正直な冒険者なのかもしれないわね」
監察官は、受付嬢の肩をそっと叩いた。
「受付嬢、泣いている暇はないわよ。死神が次にどこへ向かうか、過去の足跡と司祭の記録から予測を出しなさい。……一週間後の地獄を回避する、唯一の『冒険』の始まりよ」
「……っ、はい!」
受付嬢は涙を拭い、即座に資料の山へと向かった。
死の宣告を受けた街。
けれど、そこには「後悔」を「決意」に変えた者たちの、熱い鼓動が戻り始めていた。
ゴブリンスレイヤーは、静かに剣の脂を拭いながら、低く呟いた。
「……一週間か。十分だ」
鉄兜の奥で、赤い眼光が静かに、けれど苛烈に灯った。
絶望の目録が綴られた夜が終わり、一党は最後の一週間、死神を「人間」に戻すための、最も無謀で最も尊い冒険へと向かう準備を始めた。