『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】   作:いっかず

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第72話:絶望の王手

司祭が消滅し、北方軍の影が去った翌朝。辺境の街の冒険者ギルドには、かつてのゴブリンロード襲来時を彷彿とさせる、異様な熱気と緊張が立ち込めていた。

円卓を囲むのは、街の命運を託された銀等級の一党、そしてギルドの運営を支える女性たち。

 

「――残り六日。のんびりしている暇はないわよ」

 

妖精弓手が、卓上の地図を鋭い眼差しで見つめながら言った。彼女の指先は、一刻一秒と削られていく「猶予」を刻むように震えている。

 

「今朝、第一街区の裏路地で再び遺体が発見されました」

 

受付嬢が、青ざめた顔で報告書を差し出した。

「殺され方は以前と同じです。……内側から爆ぜ、原形を留めていません。被害者は、街でも有名な強盗致死の前科者でした」

 

「司祭が死に、北方軍が去ったことで……『掃除』を再開したのね」

 

監察官が瞳を細め、窓の外を見据えた。

「枷を嵌めようとする者がいなくなった今、彼女を縛るものは何もない。不浄の指針が指し示すまま、彼女はただ、純粋な殺戮装置として動き出したわけだわ」

 

「……街周辺のゴブリンは、すでに狩り尽くしたはずだ」

 

鉄兜の覗き窓を報告書に向けたまま、ゴブリンスレイヤーが低く、断定するように言った。

 

「彼女の指針は、次の標的を定めた。……すなわち、剥き出しの害意や劣情を抱く、人間の皮を被った『ゴブリン』だ。……彼女は今、街の中にある『巣穴』を片っ端から潰して回っている」

 

「……その掃除が終わった後が、『臨界点』ということじゃな」

 

鉱人道士が酒袋を強く握りしめた。

「街の中から『明白な悪』がいなくなった時……。研ぎ澄まされすぎたあの娘の瞳には、何が映る?」

 

「……恐ろしいことにございますな」

蜥蜴僧侶が数珠を鳴らし、低く咆哮した。

「悪を滅ぼし尽くした先にあるのは、平穏ではありませぬ。……『不浄』の定義が拡大し、無辜の民が抱く些細な疑念や嫌悪、それら全てをゴブリンと見なし、排除し始める……」

 

「…………」

 

その絶望的な予測を、一筋の強い光のような声が遮った。

 

「――そんなことは、絶対にさせません」

 

女神官が、一党の誰よりも強く、毅然とした声で言い放った。

彼女の瞳には、かつての友が辿った地獄への怒りと、それ以上に深い、救済への執念が宿っている。

 

「……武闘家さんは、誰かを傷つけるために冒険者になったんじゃない。誰かを守るために、あの拳を鍛えていたんです。完全に心が壊れてしまう前に……私が、いえ……私たちが、あの子を止めてみせます。死神としてではなく、私たちの『仲間』として!」

 

女神官は聖杖を強く握りしめ、かつての仲間が潜むであろう、街の深淵を睨み据えた。

 

「……でも……。あの……邪竜……すら……。……滅ぼした……あの子を……どうやって……止める……つもり……?」

 

紫煙をくゆらせながら、魔女が虚空を見つめたまま問いかけた。その声は低く、そしてあまりにも現実的な響きを帯びていた。

「……神話の……怪物を……。……ただの……拒絶……だけで……。……消し去った……のよ……。……私たちの……剣も……魔法も……。……不純物……として……。……弾かれる……わよ……」

 

「ああ、全くだ。辺境のギルドが、いや、一国家が手に負えるレベルじゃない」

 

重戦士が苦々しく、自慢の大剣の柄を叩いた。

「被害の規模、異能の質。……どれをとっても、伝説に語られる『白金等級』。勇者が直々に対処すべき案件だ。俺たちが首を突っ込んでいい領域を、とうに超えてる」

 

「北の戦況はどうなっている!?」

 

女騎士が、焦燥を隠しきれずに受付嬢へと詰め寄った。

 

「元凶である司祭は死んだ! 枷を嵌め直す目論見が外れた以上、北方軍は撤退を開始しているはずだろう! 今なら勇者様の一党も、こちらへ駆けつけられるはずだ!」

 

白金等級――唯一、理不尽な神の出目を覆せる「光」の到来。それが、この街に残された唯一の論理的な生存戦略だった。しかし、その希望を打ち砕いたのは、受付嬢が震える手で差し出した一通の緊急魔導通信だった。

 

「……不可能です。北方軍の主力こそ北へ引き揚げていますが、殿を務める第四鋼鉄旅団の抵抗が未だに激しく、追撃する王都軍と泥沼の遅滞戦闘を続けています」

 

受付嬢の瞳には、絶望の影が差していた。

 

「一ヶ月以上にわたる総力戦で、王都軍の損害も甚大です。物資も魔力も枯渇し、予断を許さない状況なのです。……勇者様も北の残党の掃討が完了するまで前線を離れられません。……王都軍司令部からの回答では、こちらに勇者様を派遣し、対処可能になるには最短でも『二週間』はかかる、と……」

 

「二週間だと!? 冗談ではない!」

 

女騎士が絶叫する。

「あと六日で、あの子は臨界点を迎える。……二週間後には、この街には死体の山すら残っていないぞ!」

 

「……だから、これです」

受付嬢が、ギルド本部から届いた非情な命令書を卓上に広げた。

「ギルド本部からは……『辺境の街の放棄』。全住民を速やかに、南方の要塞都市まで避難させるようにと指示が出ています」

 

「……避難だと? どこに逃げろと言うんだ!」

 

それまで壁に背を預けていた槍使いが、吐き捨てるように怒声を上げた。

 

「いいか、相手は魔物の軍勢じゃねえ。……万物を『不浄』と定義する、歩く世界の終わりだ。一度臨界点を迎えれば、この四方世界すべてが奴の瞳の中で『巨大なゴブリンの巣穴』として書き換えられるんだぞ!」

 

槍使いは、逃げ腰になっている周囲の冒険者たちを鋭い眼光で射抜いた。

 

「想像してみろ。逃げ惑う連中の『死にたくない』という執着。それが【不浄の指針】には、獲物を狙うゴブリンの劣情と同じ色に映る。背中を見せて逃げ出した連中から順番に、消し飛ばされるのがオチだ! 逃げ道なんて、この世界のどこにも残っちゃいねえんだよ!!」

 

「……詰みだな。勇者の光も届かず、軍の盾も間に合わない……。世界に見捨てられたわけか、この街は」

 

大剣を傍らに置き、重戦士が短く、そして重く言い捨てた。

ギルド内は墓場のような静寂に包まれる。

誰もが理解していた。

軍隊は間に合わず、勇者は遠く、逃げ道は絶たれた。

冒険者が束になっても届かない「絶対的な拒絶」を前にして、辺境の街にできることなど、もはや何一つ残されていないかに思えた。

 

「――いいえ」

 

絶望に支配された静寂を、一筋の清らかな風のような声が切り裂いた。

 

女神官が、泥に汚れた聖杖を握りしめ、一歩前へ出た。

その瞳には、一党の誰もが、そして監察官ですら見たことのない、峻烈な「慈愛の光」が宿っていた。

 

「私に、考えがあります」

 

彼女の言葉に、ゴブリンスレイヤーがゆっくりと顔を上げた。

 

武力では届かず、知恵でも防げない。

だが、司祭が「切り札」として目をつけ、不浄の指針が「空白」として見落とした、たった一つの奇跡。

女神官は、その小さな、けれど世界で最も温かな「武器」を手に、友の地獄へと飛び込む覚悟を決めていた。

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