『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】 作:いっかず
作戦は決まった。だが、それは勝利への確信ではなく、薄氷を踏むような、あまりにも危うい賭けであった。
ギルドから、五つの影が雨上がりの湿った闇へと溶け込んでいく。
重い鉄の音を響かせる男と、その隣で折れそうなほど細い肩を震わせながらも、真っ直ぐに前を見据える少女。それを見送る冒険者たちの顔には、かつてないほどの祈りと、拭いきれない絶望が入り混じっていた。
「……行ったわね」
窓越しに彼らの背中が見えなくなるまで見守っていた監察官が、静かに振り返った。彼女の瞳には、既に「最悪の事態」を想定した冷徹な光が宿っている。
「――残り六日間。死神が臨界点を迎える前に、街の住民は可能な限り避難させましょう」
監督官は広げられた地図に迅速に避難経路を描き込みながら、事務的な、けれど切迫した声を上げた。
「彼女の瞳が全てを『ゴブリン』と断ずるその瞬間に、標的となる生きた人間を一人でも視界から外す必要があるわ」
「ええ。ギルドの全職員で対応します。冒険者の皆さんは、住民の誘導と、街道の安全確保に当たってください」
受付嬢が、震える手で避難勧告の書状をまとめながら、居並ぶ冒険者たちを見つめた。
「一分一秒を争います。子供や老人を優先して、南の都市へと送り出しましょう」
「……ああ。分かってるよ。だがな……」
壁に背を預け、愛槍を磨いていた槍使いが、自嘲気味に鼻を鳴らした。その瞳には、戦士としての冷静な、そして酷く冷徹な先読みが宿っていた。
「……これだけは言っておくぜ。もし、ゴブリンスレイヤーたちの作戦が失敗してみろ。どこへ逃げようが、そこが次の『巣穴』として定義されるだけだ。寿命が数日ばかり伸びるだけで、結局は背中から衝撃波で粉々にされるのを待つことになる」
槍使いは槍を肩に担ぎ、騒がしくなり始めた街の様子を窓から眺めた。
「俺たちは今、神様すら匙を投げた遊戯の真っ最中なんだ。避難なんてのは、ただの時間稼ぎに過ぎねえ。……神官の娘の『抱擁』が奇跡を起こすかどうかに、俺たちの、いや、この世界の命運は丸投げされてるんだよ」
「……だが、あいつらに全てを任せて、指を加えて見ているわけにはいかん。剣を握れぬ民を守る。それが、私達冒険者の矜持だろう」
女騎士が重い鎧を軋ませて立ち上がった。
「……ああ。道理だな」
大剣を腰に据え、重戦士が静かに頷いた。
「小鬼殺したちが深淵で戦っている間……俺たちは、その背後にある『命』を一つでも多く守る。……それ以外に、俺たちが今ここに立っている意味はねえ」
銀等級たちがそれぞれの持ち場へと走り出す中、魔女だけが立ち止まり、ゆっくりと煙管をくゆらせた。
紫色の煙が、天へと昇っていく。
「……そう……ね……。……絶望を……塗り潰して……。……物語を……書き換える……。……それが……私たち……人間にできる……。……唯一の……神々への……抵抗……よ……」
その言葉は、天上の遊戯盤でダイスを振る神々への、静かなる宣戦布告でもあった。
街に、避難を告げる鐘の音が鳴り響き始めた。
ギルドの号令により、街の四方の門が開放され、住民たちの避難が開始された。家財道具を積んだ馬車、泣き叫ぶ子供、震える足で歩く老人たち。その列を護衛するように、冒険者たちが街道に配置されていく。
――辺境の街、南門。
夕闇が迫る中、延々と続く避難民の列を、白磁や黒曜の冒険者たちが必死に誘導していた。彼らの表情には、かつての「冒険」への憧れなどは微塵もなく、ただただ見えない死神の影に怯える、生々しい恐怖だけが張り付いていた。
「――持ち出す家財は最低限にしてください! 宝石や金貨に対する執着、奪われたくないという『強欲』……それらが魂の汚れとして検知されれば、真っ先に掃除の対象になります!」
少女巫術師が、荷車を引く市民たちに向けて声を枯らして叫んでいた。彼女は監察官から、あの死神の瞳――【不浄の指針】が人間の持つ微かな「欲」さえもゴブリンと同等に認識することを聞かされていた。
「怖い……お姉ちゃん、僕たちどうなるの?」
泣きじゃくる子供の手を引きながら、人々はただ南へと急ぐ。
「……皮肉なもんだな。街道にゴブリンが一匹もいないなんて。本来なら、こんな不幸中の幸いはないはずなのに」
少年斥候が、街道脇の深い森を警戒しながら苦々しく呟いた。かつては数キロ歩くたびに潜んでいた緑の怪物は、一人の少女の『拒絶』によって既に絶滅させられている。
「……ああ。だが、喜べやしないさ。ゴブリンがいなくなった代わりに、俺たちがその役を押し付けられるんだからな」
新米戦士が、震える手で剣の柄を握りしめた。
「あと六日だ。……六日後には、俺たちまで『ゴブリン』だと見なされる。今はこうして逃げられても……臨界点を迎えちまえば、この四方世界のどこにいたって、あいつの衝撃波が背中を突き破りに来るんだ」
「…………」
絶望に沈む仲間たちの中で、見習い聖女だけが、かつて自分たちに冒険の基礎を教えてくれた、あの銀等級の一党の背中を思い出していた。
「……大丈夫。ゴブリンスレイヤーさんたちが今、あの子を追っているわ」
見習い聖女は、胸元で小さく震える聖印を、祈るように両手で包み込んだ。
「あの人たちなら、きっと……。あの子を、死神になんてさせない。……自分を責めて、独りで泣いているあの子を、きっと連れ戻してくれる。だから……私たちは、今できることを精一杯やるだけよ!」
その言葉に、新米戦士も少年斥候も、わずかに瞳に生気を取り戻し、大きく頷いた。
「……そうだな。あいつらが命懸けで『出目』を変えようとしてるんだ。俺たちがここで足を止めてちゃ、笑われちまうぜ」
避難の列は、夜の帳の中へ続いていく。
若き冒険者たちが灯す小さな松明の光は、6日後の「終焉」を拒むように、暗い街道を細く、けれど力強く照らし続けていた。