『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】 作:いっかず
牧場を包む夜風には、微かに焦げたような、不吉な魔力の匂いが混じっていた。
納屋の薄暗い明かりの下で、ゴブリンスレイヤーは黙々と革紐を締め直し、火炎瓶の脂を確かめていた。その背中に、温かいスープの入ったマグカップを手に、牛飼娘が声をかける。
「……明日から、あの子を追いに行くんだね」
「……ああ」
ゴブリンスレイヤーは手を止めず、短く応えた。だが、次の言葉はいつになく切迫した響きを帯びていた。
「街の避難は始まっている。お前も叔父さんと一緒に、できるだけ遠くの南へ逃げろ。今すぐにだ」
その言葉に、牛飼娘は小さく首を振った。
「嫌だよ。あの時も言ったはずだよ。私は逃げない」
「…………」
「私がここからいなくなったら……君が帰ってくる場所が、またなくなっちゃう。……そんなの、絶対に嫌だから」
牛飼娘の瞳には、かつて小鬼王の軍勢が迫った時と同じ、揺るぎない決意が宿っていた。だが、ゴブリンスレイヤーは鉄兜を被ったまま、彼女の方を振り向かずに告げた。
「……ゴブリンロードの時とは、訳が違う」
その声は、かつてのどの戦場よりも低く、重かった。
「あの時は……ゴブリンの王が相手だった。仲間を集めて、策を巡らせ、罠を張れば……勝機があった。被害を最小限に抑える方法があった。……だが、今度は違う」
彼は自らの右掌を見つめた。
路地裏、始まりの洞窟で見た、あの理不尽な「拒絶」の残光。
「相手は軍勢ではない。……誰にも触れさせず、万物を塵に変える『衝撃』そのものだ。知恵も、数も、武器も……あの娘が『嫌だ』と思った瞬間に、すべてが無意味になる。……お前がここにいれば、五日後には……お前も、掃除の対象になるんだぞ」
「それでも、待ってる。……君が、あの子を連れて帰ってくるのを」
牛飼娘の言葉に、ゴブリンスレイヤーは顔を歪めた。それは、彼が普段決して見せることのない、剥き出しの苦悩だった。
「……司祭に言われた。……俺と、あの娘は同じだと」
「同じ……?」
「ゴブリンを殺すという妄執以外、何も残っていない、空っぽの器。……鏡合わせの亡霊だと言われた」
彼は自らの無骨な手を見つめた。数え切れないほどの返り血を浴び、小鬼を屠るためだけに鍛え上げられた拳。
「あの娘は、俺になりたかったのだと思う。感情を殺し、痛みを忘れ、ただ機械のようにゴブリンを狩り続ける……そんな存在になれば、楽になれると信じたのだろう」
それは、あの日彼が救い出したはずの少女が抱いた、あまりにも悲しい憧憬だった。彼女は救世主ではなく、無慈悲な「殺戮者」としての彼に、己の救いを見てしまった。
「だが……俺とあいつは、決定的に違っていた」
砥石を置く音が、静寂に響く。彼はゆっくりと顔を上げ、牧場の家の方へと視線を向けた。
「俺には、帰り道があった。……ここがあった。俺がどれだけ汚れて帰ってきても、何も言わずに『おかえり』と言ってくれる、お前がいた」
牛飼娘が、胸元をぎゅっと押さえる。
あの日、故郷を失った少年を、少女はただ待つことで繋ぎ止めた。彼が「人間」であることをやめないように、見えない鎖で「日常」へと繋ぎ止めていた。
「……あいつには、それがなかった。故郷に戻っても、待っていたのは蔑みと拒絶だけだった。……あいつが歩き出した先に、帰るべき場所はどこにもなかったんだ」
もし、あの村の誰かが彼女の手を取っていれば。
もし、彼女を「おかえり」と迎える場所があれば。
彼女は死神になどならず、今もどこかで笑っていたかもしれない。
「俺は、あいつだったかもしれない。あいつも、俺であったかもしれない。……出目が一つ違えば、今ここに座っているのは、あいつだった」
「……君は、君だよ。帰ってきてくれたから、今ここにいるの」
牛飼娘が、彼の背中にそっと寄り添う。
「あの子が死神になっちゃったのは、誰も手を握ってあげなかったからだよ。……だから、君が行って、あの子の手を握ってあげて。……君はもう、間に合わなかったあの日の子供じゃないでしょ?」
「……ああ。だから、終わらせてくる」
彼は再び兜を被り、赤い眼光を闇の向こうへと向けた。
「あの娘を……どこにも辿り着けないまま彷徨っているあの魂を、俺たちの仲間の元へ、帰してやるために」
あと、五日。
救われた男と、救われなかった少女。
鏡合わせの二人の運命を分かつ、最後の五日間が始まった。