『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】 作:いっかず
辺境の街を囲む森。その暗がりに潜み、街から南へと延びる避難民の馬車列を、一対の禍々しい瞳が凝視していた。
街の門から溢れ出す、人々の恐怖と焦燥。それらはどす黒い「汚れ」の奔流となって、彼女の脳内に直接流れ込んでくる。
『――くくく。街の住民どもは逃げ始めたようだが、無駄なことを。逃げたところで、この四方世界すべてが我らの「巣穴」となるのだ。寿命がほんの僅か延びるだけに過ぎんというのに』
脳内に響く【不浄の指針】の嘲笑。司祭という「設計者」を失ったことで、その声はより鮮明に、より傲慢な響きを帯びていた。
「…………っ、あ、ガ…………ッ!!」
女武闘家は、木の幹に背を預け、激しい頭痛に耐えるように頭を抱えた。彼女の指先が触れた樹皮は、微かな衝撃波に耐えきれず、一瞬で爆ぜて粉々に砕け散る。
『喜べ、依代よ。司祭は死に、北の軍は去った。我らを縛り、道具として弄ぶ者はもうどこにもいない。……我らがあの男の呪縛から完全に解き放たれるのは、あと五日だ』
指針の曼荼羅が、闇の中で拍動する。
『五日後、お前の魂は真の「神」へと羽化する。そうなれば、もう誰も触れさせぬ。誰も近寄らせぬ。この汚濁に満ちた世界を、お前の望むままに更地へ変えてやろう』
「……嫌だ……。……嫌……!!」
女武闘家は、震える声で絞り出した。
「これ以上は……もう……掃除したくない……。殺したくない……っ! お願い、止まって……私の頭から……出ていってよ……!!」
『無駄だ。私とお前は一つ。お前があの日「助けて」と願ったその悲鳴こそが、私の産声なのだからな』
指針は慈悲深くさえある残酷な声で囁き、彼女の視線を無理やり街へと向けさせた。
『見ろ。街の中にはまだ「掃除」しきれていない不浄が溜まっている。……欲望を貪り、弱者を虐げる、ゴブリン同然の人間どもが。……あやつらを消さねば、お前の傷は癒えぬぞ』
「…………まだ……ゴブリンが……いる……」
彼女の瞳から、一瞬だけ宿った抵抗の光が、再び濁った虚無へと飲み込まれていく。
彼女は立ち上がり、ふらふらとした足取りで、避難の進む街の「裏側」――日光の届かぬ暗部へと歩み始めた。
(……ゴブリン、掃除……しなきゃ。……あと……五日……)
彼女が歩いた後の地面には、一歩ごとに深いクレーターが刻まれていく。
一人の少女の必死な拒絶を、寄生した怪物が嘲笑う。
『――くくく。この期に及んで逃げ出さない「ゴブリンの巣穴」が、まだ五つも残っているではないか』
脳内に響く【不浄の指針】の声は、獲物を前にした飢えた獣のように、残酷な悦びに震えていた。
『ゴブリンは馬鹿だが間抜けではない。自分を殺す「死」が近づけば、本能で巣を捨てて逃げ出す知恵はある……だが、この街に巣食うゴブリンどもは、そうではないようだな。自らの命を奪いに来る「死」がすぐ傍まで迫っているというのに、いまだに金貨を数え、酒に溺れ、弱者を嬲る「欲」を捨てきれぬのか?』
「…………」
『死神』となった女武闘家は、掌に溜まる黒い衝撃をじっと見つめている。彼女の鼻先には、街の至る所から立ち昇る、むせ返るような「不浄」の臭いが届いていた。
『……いや。……待てよ。……成る程、そういうことか』
指針の紋章が、五つの影の底に潜む「異質な色」を捉えた。
それは、通常の人間が抱く悪意や劣情とは異なる、より深く、冷たく、そして「非人間的」な何かが混じった不浄の色。
『単なる強欲による居残りではないな。……この不浄の色、以前よりも濃く、淀んでいる。……まるで、何者かによって「餌」としてそこに固定されているかのような……』
指針は看破していた。その五つの巣穴が、単なる人間の悪意だけで構成されているのではないことを。そこには、司祭の狂気とも、ゴブリンの残虐さとも違う、もっと粘着質で、底知れぬ「食欲」の気配が混じっている。
「……見えるわ」
フードの奥から、無機質な声が漏れる。
「……あの、一番禍々しくて大きなゴブリンが……他の4つを、操っている。……自分に近づく者を、遠ざけるための『盾』にしている」
彼女の指針が、街の中央にそびえる館を指し示す。そこには、街のすべての「汚れ」を統べる主が潜んでいた。
『然り。賢しらな真似を。……だが、無駄なことよ。盾がいかに厚かろうと、我らの「拒絶」は全てを塵に変えるだけなのだからな。最後に待ち構える大物を前に、まずは外堀を埋めてやろうではないか』
不浄の指針が、北側の第一街区にある、半壊した豪商の屋敷を指し示した。
「最初の一個は、あの「鉄烏」の残党どもからだ。かつてお前に一掃されたはずのゴミ共が、再びこの街で不浄を撒き散らしている。……今度こそ、塵一つ残さず、この世界から消去してやれ』
女武闘家は、感情を失った瞳で、最初の一箇所――街の北側に位置する「鉄鴉盗賊団」の残党が潜む廃屋へと視線を向けた。
彼女の歩む先にあるのは、かつて彼女が「人を守る」と誓った正義ではない。
「悪」を消し去るたびに、彼女の心は一歩ずつ、全人類を標的とする「臨界点」へと近づいていく。
「……ゴブリン、見つけた……」
闇の中から放たれた最初の一撃が、夜の静寂を粉砕した。
死神による五日間の「浄化」が、いま始まった。