『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】 作:いっかず
運河沿いの倉庫街。そこにはかつて不浄の薬物を蓄えていた巨大な石造りの建物があったはずだった。しかし今、一党の目の前に広がっているのは、不自然なほど滑らかな断面で切り取られた「空白」の土地だけだった。
「……遅かったみたいね」
妖精弓手が、震える指先でその虚空を指差した。精霊たちがその場所を避けるようにざわついている。熱も、音も、そして死体の臭いすらも残っていない。ただ「存在を許されなかった」という事実だけが、冷たい夜気に漂っていた。
「影も形もありゃせん。密輸組織ごと、不浄な薬物もろとも消し飛ばしたか……。これでは『掃除』というより、世界の『消しゴム』じゃな」
鉱人道士が髭を震わせ、更地の土を杖で叩く。そこには生命の鼓動が欠片も残っていなかった。
「……このまま彼女を追っても、後手に回り続けるだけだ」
ゴブリンスレイヤーは、更地の中心から周囲の街並みを冷徹な目で見渡した。
「彼女の『不浄の指針』は、悪意の純度が高い順に標的を定めている。俺たちが現場に着く頃には、彼女はすでに次の『掃除』へ向かっている」
「……左様にございますな。拙僧の鼻でも、彼女の放つ『拒絶』の香気は、常に一歩先へ消えてゆく」
蜥蜴僧侶が数珠を鳴らし、重苦しく頷いた。
一党が後を追う速度よりも、死神が不浄を消し去る速度の方が遥かに速い。このままでは、彼女が「吸血鬼の館」という最後の不浄を飲み込み、臨界点を迎えるのを指をくわえて見ていることになってしまう。
「……こちらから、先手を打つぞ」
ゴブリンスレイヤーの言葉に、鉱人道士がニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「ほう。言うたな、かみきり丸。……あやつが次に向かう『不浄の溜まり場』を先読みし、そこに罠を張る……あるいは、あやつが来る前に掃除を済ませてしまうというわけか」
「……ああ」
ゴブリンスレイヤーは、ギルドから持ち出してきた街の裏地図を広げた。
「……残る大きな『巣穴』は、そう多くはないはずだ。鉄烏の残党、黒蛇商会の密輸倉庫……これらが消えた今、指針が次に向けるのは……」
鉄兜の奥で、赤い眼光が一点を射抜く。
「……住民の避難が進み、街は空っぽになりつつある。だが、隠れ潜むには絶好の場所がいくつか残っている。……次は第三街区。避難を拒み、今なお他者を食い物にして笑っている連中がいる場所だ」
「非合法の地下賭博場……ですな」
蜥蜴僧侶が数珠を鳴らし、深く頷いた。
「そこには吸血鬼の眷属となった用心棒たちがひしめいているという報告があります。あの子がそこへ辿り着けば、またこの『空白』が広がるだけでしょう」
「……あの子に、これ以上殺させたくない」
女神官が、聖杖を強く握りしめた。
「彼女がここに来る前に、私たちがその『不浄』を排除して、彼女が見るはずだった景色を変えなきゃ……!」
「……行くぞ」
ゴブリンスレイヤーが短剣を鞘に納め、一党を促した。
死神が不浄の指針に従い、次の獲物を定めるまでの、わずかな空白。
追いかける側から、待ち受ける側へ。
臨界点まで、あと三日。
一党は夜の闇を裂き、街に巣食う「不浄のギャンブラー」たちの元へと走り出した。
「……地下賭博場。あそこには、吸血鬼の眷属たちが攫った住民が、今もなお捕らえられているはずです。……彼らにとっては、ここは『生きた備蓄庫』に過ぎないのでしょうな」
蜥蜴僧侶が数珠を握りしめ、不快そうに舌を鳴らした。
「……ゴブリンと同じだ」
鉄兜の奥から響く、いつも通りの淡々とした声。
「巣穴を潰し、生かされている者を救い出す。それだけだ」
「でもオルクボルグ。吸血鬼の眷属はゴブリンとは比較にならないわよ」
妖精弓手が、弓の弦を確かめながら真剣な面持ちで釘を刺す。
「人間離れした身体能力に、再生能力。おまけに上位の個体になれば、影を操ったり、心を惑わしたりする異能を使いこなす奴らまでいるわ。真っ向勝負なら、あいつらは一個小隊の正規騎士よりも手強いわよ」
「……何より、あやつら不死の類は、銀の武器か、専用の法儀礼を受けた武器でもないと、まともなダメージが入らんからのう。……じゃが、今から吸血鬼用の装備を一式揃える時間もありゃせんわい」
鉱人道士が酒袋を煽り、苦渋の色を滲ませた。道具や準備にこだわる一党にとって、「特効装備がない」という状況は致命的な弱点に他ならない。
「…………」
ゴブリンスレイヤーは、腰の短剣を一度抜き、その刃を見つめた。
そして、隣で不安げに錫杖を握る少女へと視線を向けた。
「……お前の『奇跡』が頼みだ」
「……えっ?」
女神官が顔を上げる。
「吸血鬼が不浄ならば、お前の祈りが最も有効な武器になる。……俺たちの武器が通らなければ、お前がその道を照らせ。……できるか?」
その言葉は、重圧ではなく、絶対的な信頼として女神官の胸に届いた。
彼女は震える手で聖杖を握り直し、黄金の瞳で真っ直ぐに応えた。
「……はい! 私にできることなら、何でもします。……あの子がここへ来る前に、必ず!」
「……よし。行くぞ」
鉄兜の覗き窓の中で、赤い眼光が鋭く光った。
かつての仲間が「死神」としてここを更地にする前に、一党は闇の博徒たちが支配する最悪の盤面へと突入を開始した。