『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】 作:いっかず
「さあ、ラストロールだ! 貴様らの命、端数まで残さず吐き出せッ!!」
不浄の賭博師が、狂気に染まった笑みを浮かべて黒いダイスを高く放り上げた。彼の《限定的因果律操作(ロード・ダイス)》は、ダイスが空中で回転している間、周囲の「不運」をすべて敵へと押し付け、自らに「幸運」を凝縮させる。
だが、ゴブリンスレイヤーは動かない。ただ静かに、隣の女神官に短く命じた。
「――今だ」
「《いと慈悲深き地母神よ、どうかその御手で、我らの穢れをお清めください》」
女神官が放ったのは、攻撃でも防御でもない。檻の中に囚われた住民たちへと向けた、『浄化(ピュアリファイ)』の奇跡。
「なっ……浄化だと!? 貴様、こんな時に何を――」
「お前の『肩代わり』の術式……それは住民たちの魂を薄く引き延ばし、お前の肉体と『汚れ』で繋ぐことで成立している」
ゴブリンスレイヤーが、ダイスを見上げることなく一歩踏み出した。
「汚れを清めれば、その糸は切れる」
女神官の純白の光が住民たちを包み込んだ瞬間、賭博師の胸元に繋がっていた黒い魔力の糸が、音を立てて霧散した。
「バ、バカなッ! リンクが切れただと!? ……だが関係ない! ダイスの出目が確定すれば、どのみち貴様らは――」
「出目は、確定させない」
ゴブリンスレイヤーが懐から取り出したのは、一本の『粘着剤の瓶』。彼はそれを、空中で回転するダイスに向けて、迷いなく投げつけた。
パリンッ! と瓶が割れ、中から強力な粘液が飛散する。それは回転するダイスを空中で絡め取り、テーブルに落ちるよりも早く、壁際へと物理的に「固定」した。
「なっ……ダイスが……止まった!?」
「出目が出なければ、術式は完結しない。違うか?」
「――チャンスねッ!!」
妖精弓手の叫びを合図に、一党が一斉に襲いかかった。
蜥蜴僧侶の竜牙刀が深々と吸血鬼の脇腹を裂き、鉱人道士の手斧の一撃がその膝を砕く。
「……無駄だ! 無駄だッ!!」
賭博師が吐血しながらも、狂ったように叫ぶ。
「吸血鬼の肉体は不滅! 貴様ら人間が振るうなまくら刀など、一瞬で再生して――」
「あんた、勉強不足よ! 吸血鬼には銀や法儀礼武器以外にも、たくさん弱点があるのよねぇ!」
妖精弓手が冷笑と共に、火を灯した矢を床に放つ。
その瞬間、ゴブリンスレイヤーが賭博師の足元へ投げ込んだのは、数本の油の瓶だった。
「これは……油か! 愚か者が、火などこの私の魔力で一瞬に――」
賭博師は『幸運』を引き寄せようと、強引に術式を起動させた。
本来なら、ここで「偶然」風が吹いて火が消えるか、あるいは「偶然」天井から水が漏れて彼を救うはずだった。
しかし、現実は残酷だった。
これまで彼が数千、数万回と捻じ曲げ、他者に押し付けてきた「不運」。
ダイスを固定され、術式が逆流したその瞬間、踏み倒し続けてきた『借金』が、一気に彼自身へと跳ね返ってきたのだ。
「ぎ、あ……!? 足が……滑っ……!?」
火を消そうと足を踏み出した瞬間、彼はゴブリンスレイヤーの撒いた接着剤と油の混濁に足を取られ、無様に転倒した。
さらに、彼が消火のために手を伸ばした先には、偶然にも可燃性の高いウォッカが転がっていた。
――ゴォォォォォォォォッ!!!
「ぎゃああああああああああああああああッ!!!」
爆発的な炎が賭博師を包み込む。
再生能力も、因果律も、もはや彼を救うことはなかった。
彼が求めた『絶対の勝利』という出目は、自らが積み上げた悪行という重みの前に、最悪の『1(ファンブル)』へと書き換えられたのだ。
「……ギャンブルの負け分だ。命で払え」
燃え盛る炎の中、ゴブリンスレイヤーが短剣をその心臓へ突き立て、トドメを刺した。
静寂が戻る地下広間。
悪党は消え、後に残されたのは、助け出された住民たちの震える泣き声だけだった。
「……終わりましたね」
女神官が聖杖を下ろし、安堵の息を漏らす。
だが、その背後に、冷たい衝撃の風が吹き抜けた。
崩落した天井の穴から、月光と共に、一人の少女が舞い降りる。
その立ち姿は、先ほどまでの吸血鬼の眷属たちよりも遥かに濃密な「死」の気配を纏っていた。
「……武闘家さん!」
女神官が、救い出した住民たちを庇いながら声を上げた。だが、フードの奥から返ってきたのは、かつての快活な響きとは程遠い、乾いた警告だった。
「……逃げて……って、言ったのに。……ここは、もうすぐ……消える場所なのに」
女武闘家の声は、自分自身の意志を辛うじて繋ぎ止めているかのように震えている。
しかし、次の瞬間。彼女の瞳の曼荼羅が激しく明滅し、幾重にも重なった不気味な「声」が広間を支配した。
『――くくく。我らを出し抜いて、先にこの巣穴を掃除するとは。流石は「元祖」と褒めておこうか』
【不浄の指針】の冷笑。
指針は、一党が「粘着剤」や「火」という極めて原始的な手段で因果律操作を打ち破った戦い振りを、高みから見物していたのだ。
『だが……この程度の雑魚共に手こずるようでは、残り二つの巣穴には到底、太刀打ちできまい。……今の貴様らでは、掃除の邪魔になるだけだ』
「…………」
ゴブリンスレイヤーは短剣を構えたまま、死神の出方を探っていた。彼女の指針は、一党に明確な殺意を向けていない。だが、その背後に渦巻く衝撃波の気配は、いつでも自分たちを更地にできるほどに高まっていた。
『我らの掃除を手伝った礼に、一つ良いことを教えてやろう』
指針の声は、毒を滴らせるように続けた。
女武闘家がゆっくりと右手を上げ、街の中央――吸血鬼の館がある方角を指し示した。
『貴様らが今しがた屠った賭博師も、これから我らが消し去る者たちも……全ては「同じ血」に連なる不浄に過ぎん。……「主」は、中央の館で待っているぞ。……自らを「夜の支配者」などと名乗っている傲慢な不浄だ』
死神の言葉に、蜥蜴僧侶が数珠を激しく鳴らした。
「……聞いたことがあります。王国がこの百年、幾度も討伐を試みながら、そのたびに多くの英雄を返り討ちにしてきたという伝説の怪物。……まさか、あれがこの街の混乱に巣食っていたとは」
指針はその言葉を肯定するように、さらに残酷な事実を突きつけた。
『然り。奴は不浄の根源。……奴を掃除せぬ限り、この街に真の静寂は訪れぬ。……だが、その前に残る「最後から二番目の巣穴」を掃除させてもらうぞ。……あそこには、お前たちが最も忌み嫌うべき不浄が溜まっているからな』
死神の足元から、黒い火花が散る。
「……掃除、しなきゃ。……ゴブリンは、一匹も……逃さない」
「武闘家さん、待ってください!」
女神官の叫びも虚しく、女武闘家の身体は再び衝撃波の余波と共に、夜の闇へと飛び去っていった。
残り三日。
人類が百年かけても殺せなかった吸血鬼と、世界を消去しようとするかつての仲間。
神々の遊戯は、最悪の三つ巴へと突入しようとしていた。
――中央街区、廃貴族の館。
真昼の陽光さえ届かぬ広間の奥で、豪奢な長椅子に深く腰掛けた【真祖】ヴァンパイアロードは、手元で音もなく粉々に砕け散った赤黒い魔水晶の破片を見つめていた。
「まさか死神ではなく……あのような、泥にまみれた冒険者如きに負けるとはな。私の血を分け与え、運命を弄ぶ術まで授けておきながら、この無様な結末か」
ヴァンパイアロードは、砕けた破片を指先でなぞった。
彼の計算では、地下賭博場は死神――女武闘家の『拒絶』を消耗させ、彼女の人間性を完全に削り落とすための、最も残酷な罠になるはずだった。あるいは、あの賭博師が運命の出目で死神を屠ってくれれば、それはそれで面白い余興となるはずだったのだ。
だが、現実は違った。
死神が辿り着く前に、ただの「手順」と「道具」を積み上げただけの人間たちが、確率の壁を物理的に塗り潰して勝利した。
「『粘着剤』に『油』だと? ……クク、クハハハハ!! 運命の支配を気取っていたあの男が、これほどまでに原始的な、これほどまでに卑小な『知恵』に屈したというのか。神々の遊戯を、ただの『掃除』として片付けるとはな」
吸血鬼の瞳が、侮蔑を越えた不気味な光を宿して細まる。
彼は立ち上がり、窓を覆う厚いカーテンを爪で引き裂いた。
外には、臨界点まであと三日となった辺境の街の、死に絶えたような夜景が広がっている。
「……フン、よかろう。賭博師は所詮、私の食卓を整えるための前座に過ぎん」
吸血鬼の瞳が、深紅の光を放つ。
「だが、これで『最後の砦』が死神に崩されるのも時間の問題となった。あの堕ちた冒険者共がどれほど抗おうと、臨界を控えたあの娘の衝撃を耐えきれはしまい」
吸血鬼は、広間に整列したグールたちに視線を向けた。
「……収穫の時が早まるだけのことだ。死神が最後の不浄を掃除し、その心が完全に虚無に染まった瞬間……。私はその『絶望の果実』を、魂ごと吸い尽くしてやろう。千年の乾きを癒やす、最高の美酒となるに違いない」
吸血鬼は、館の地下に監禁されている数多の住民たちの悲鳴を子守唄のように聴きながら、傲慢な微笑を浮かべた。
「来い、死神。……お前が全てを拒絶し、孤独の果てに辿り着く場所は、この私の胃袋の中だ」
暗い館の奥底で、最後の捕食者が牙を研いでいた。
一党が賭博場で稼いだわずかな時間が、吸血鬼の計画を狂わせる唯一の「バグ」となっていることにも気づかずに。