『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】 作:いっかず
地下賭博場の崩壊から数時間後。深夜の冒険者ギルドは、かつてない絶望的な静寂に包まれていた。卓上に広げられた地図の上で、死神が指し示した「中央街区」が赤く縁取られる。
「……夜の支配者――ヴァンパイアロード。数多の真祖の中でも、間違いなく最悪の相手だわ」
監察官が、古い羊皮紙に記された「禁忌目録」の記録を閉じ、忌々しげに声を震わせた。
「半世紀前、王国が国軍を動員しても仕留めきれず、当時のギルド本部も『討伐不可能』として放置された伝説の怪物……」
「臨界点を迎える前に死神を止めなければならないのに……。そんな怪物まで立ち塞がっているなんて、神様はどこまで無慈悲なんですか……っ!」
受付嬢が机を叩き、悔しげに涙を浮かべた。死神を止める。吸血鬼の王を倒す。そのどちらか一方でも、辺境の冒険者の手に負える規模をとうに超えていた。
「あの二十年前の災厄――邪竜を一人で圧殺したあの子なら、いくら吸血鬼の王といえど、掃除すること自体は可能でしょう。……けれど」
妖精弓手が、窓の外で不気味に渦巻く赤黒い空を見上げて呟く。しかし、その言葉に鉱人道士が重々しく首を振った。
「……その瞬間に、この辺境の街は終わる」
鉱人道士が、重苦しく言葉を継いだ。
「あやつらの激突は、もはや『喧嘩』ではない。天災と天災の正面衝突じゃ。死神が全霊の拒絶を放ち、吸血鬼の王がそれを迎え撃てば……臨界点を待たずして、この街は地図から消えることになるわい」
「左様。しかし、彼奴が死神の『掃除』を逃れ、余力を残したまま立ち残れば……今度はこの街全体が、永遠に陽の差さぬ『家畜小屋』へと変えられましょう」
蜥蜴僧侶が数珠を噛み締め、最悪の二択を提示する。
全滅か、それとも永劫の家畜化か。
神々の遊戯盤は、どこまでも一党に残酷な出目を突きつけていた。
その議論を遮るように、鉄兜の男が地図の「中央街区」を指の腹でなぞった。
「……中央街区の状況は?」
ゴブリンスレイヤーは、地図を凝視したまま顔を上げない。
「は、はい! 偵察員からの報告では、邸宅の周囲には不自然なほどの深い霧が立ち込め、近づいた者は誰一人戻っていません。邸内には、まだ数百名の住民が囚われている可能性があります。……吸血鬼は彼らを『人質』兼『非常食』として囲い込んでいるようです」
「……そうか」
ゴブリンスレイヤーは立ち上がり、武器の点検を終えた。
「死神がそこを『巣穴』と見なし、全方位に衝撃を放てば、中の人間は吸血鬼もろとも蒸発する。……そうなる前に、俺たちが中に入る」
「――馬鹿な真似はやめなさい、ゴブリンスレイヤー。ヴァンパイアロードは、貴方がこれまで相手にしてきたゴブリンとは、存在の格が違うのよ!」
監督官は、机の上にヴァンパイアロードの推定スペックを記した羊皮紙を叩きつけた。
「オーガを赤子のように引き裂く膂力を持ち、目を合わせるだけで精神を支配する催眠術を操る。さらには無数の使い魔を壁とし、不利と悟れば自らの身体を『霧』へと変化させてあらゆる物理攻撃を受け流す。……まさに夜の支配者、無敵の体現者なのよ」
「そんな……。じゃあ、こちらの攻撃は一切当たらないってことですか?」
女神官が震える声で問いかける。しかし、監察官が告げた「真の絶望」はその先にあった。
「いいえ。もっと最悪なのは、奴の『命』の在り方よ。……奴はこの百年の間、王国の歴史の裏側で、数えきれないほどの人間の命を吸い取ってきた。そしてその魂を、自分の予備の命として体内に『貯蓄』しているわ。少なく見積もっても、その数は一万以上……」
「いち……一万!?」
女神官は膝から力が抜け、壁に背を預けた。
「一回倒すのすら、私たちにとっては絶望的なのに! 一万回以上殺さないと滅びないなんて……そんなの、どうやって戦えばいいんですか!?」
「……だからこそ『討伐不可能』なんです。」
受付嬢が、唇を噛み締めながら補足した。
「あの子か、あるいは北にいる勇者様以外に……その膨大な命を『削り切れる』存在は、この四方世界のどこを探しても存在しません」
その絶望的な解説を聞きながら、ゴブリンスレイヤーは鉄兜をわずかに傾けた。
「……確かに。俺たちには無理だ」
「オルクボルグ……?」
妖精弓手が驚いて隣を見る。いつも「策がある」と言う彼が、これほどはっきりと敗北を認めるのは珍しいことだった。だが、彼の言葉には続きがあった。
「吸血鬼を殺す必要はない。……奴を殺すのは、あの娘の役目だ」
ゴブリンスレイヤーは、腰のポーチからいくつかの小瓶を取り出し、点検を始める。
「……あの娘と吸血鬼がぶつかれば、周囲一帯は消失する。吸血鬼は『掃除』されるが、同時に館に囚われている住民たちも、衝撃に巻き込まれて塵になる。……それが、指針の描く『浄化』だ」
女神官は、彼の意図を汲み取り、真っ直ぐに顔を上げた。
「……はい。あの子と吸血鬼がぶつかり、街が破壊される前に……。館に捕らえられている人たちを救い出す。……それだけをやり遂げにいくんです。……あの子が、これ以上『不浄』を背負わなくて済むように」
「左様。彼奴の命を削るのが死神の『仕事』なら、魂を救い出すのは我ら『冒険者』の務めにございますな」
「救済の先回り、か。……カカッ、面白い! 死神が来る前に餌を全部さらってしまえば、吸血鬼の面面も丸潰れじゃわい」
「……あの子との決着は、その後ね」
妖精弓手が、窓の外で渦巻く不吉な黒い雲を見つめながら呟いた。
「彼女を独りで『掃除』させちゃダメ。吸血鬼を倒して、全ての『ゴブリン』が消えたとき……あの子の心に何が残るのか。それを見届けて、抱きしめてあげるのが、私たちの最後の依頼よ」
「……あの子は今、『最後から二番目の巣穴』を掃除すると言っていました。吸血鬼の館へ向かう前に、必ず立ち寄る場所があるはずです」
女神官が地下賭博場で死神と交わした言葉を反芻するように口を開いた。
「吸血鬼が用意した『最後の砦』のことね」
監察官が、地図上の北西にある旧衛兵詰所を苦々しく見つめた。そこは現在、街の治安を守る場所ではなく、最も醜悪な「汚れ」が溜まる場所へと変貌していた。
「旧衛兵詰所を根城にした、『冒険者崩れ』たちの集団よ」
「冒険者崩れ……。まさか、以前、路地裏で狼藉を働こうとした、あの一味ですか?」
女神官の脳裏に、あの夜の出来事が蘇る。圧倒的な拒絶の力が悪党を粉砕したあの光景。
「ええ。あの夜、死神の衝撃から辛うじて逃げ延びた残党が、吸血鬼の誘いに乗ったのよ。死神への恐怖から逃れるために、より強大な怪物の軍門に下り、その血を分け与えられた……。今や奴等は、人の皮を被った吸血鬼の猟犬よ」
受付嬢が、震える手で追放者名簿を開いた。そこには、かつてギルドを騒がせた鼻つまみ者たちの名前が並んでいた。
「……実力だけなら、銀等級でも上位に位置する使い手たちでした。しかし、度を越した残忍さと卑劣さゆえに、白磁等級のままギルドを永久追放され、指名手配された悪党たちです。……弱者をいたぶり、仲間を裏切ることを何とも思わない、冒険者の面汚し……」
受付嬢の言葉には、同じ組織に属していた者としての深い憤りと、悲しみが混じっていた。
「……ふん。腕が立つのに中身がゴブリンなんて、救いようがないわね」
妖精弓手が、忌々しげに弓の弦を弾いた。
「そんな連中が衛兵の詰所を陣取って、吸血鬼の犬になってるなんて……。不愉快極まりないわ」
「左様。武を、弱きを守るためではなく、己の欲を肥やすために振るうとは。……拙僧の道においては、小鬼よりも質の悪い『業』にございますな」
蜥蜴僧侶が数珠を鳴らし、その眼光に峻厳な怒りを宿らせた。
「詰所を不浄の巣窟に変えるとはな。……土の精霊も泣いておるわい。誇りを捨てて怪物に縋るなど、酒の肴にもならん愚か者共じゃ」
鉱人道士も火の粉を散らすように吐き捨てた。
「…………」
ゴブリンスレイヤーは、その「冒険者崩れ」の名を聞いても、表情一つ変えなかった。ただ、戦術的な必然として、その標的を定義した。
「……あの娘にとって、奴等は吸血鬼以上に『掃除』すべき対象だ。かつての自分と同じ職にありながら、ゴブリンと同じことを繰り返す者たちだからな」
「ゴブリンスレイヤーさん……」
「吸血鬼の館で人質を助け出す時間は、あの娘がその『最後から二番目の巣穴』を粉砕している間しかない。……行くぞ。一分一秒を無駄にするな」
「はい!」
第四街区で死神が「冒険者崩れ」を蹂躙し、その悲鳴が夜空に響き渡る。
その咆哮を合図に、一党は真祖の吸血鬼が待つ「不浄の集積地」へと、決死の突入を開始した。