『ゴブリンスレイヤー』外伝SS【拒絶の死神編】   作:いっかず

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第92話:戦場になき奇跡

北方軍総司令部、極寒の北風に揺れる巨大な作戦天幕。

魔導ランプの青白い光に照らされた司令官たちの顔には、1ヶ月間におよぶ激戦の疲労と、拭いきれぬ焦燥が刻み込まれていた。

 

「――報告いたします。勇者一党が、第四密偵連隊の仕掛けた『死の毒煙』を突破しました。……申し訳ありません、我が師団の全リソースを投じ、少なくとも一月は足止めするつもりでしたが……僅か三日で突破されました」

 

第四師団長が、悔しげに膝を突き、報告を上げた。本来、常人ならば一瞬で肺を焼かれ、高位の魔導師でも解毒に数週間を要する呪毒の霧。それを、勇者の光と賢者の演算が、強引に「無」へと書き換えて突き進んできたのだ。

 

「……いや、よく持った方だ。相手は白金等級、神々の遊戯における『盤面を壊す駒』だからな。三日稼いだだけでも、第四連隊の働きには価値があった」

 

北方軍司令は、感情を排した声で応えた。だが、その指先は卓上の地図を強く押さえつけている。

 

「閣下、事態は一刻を争います! 勇者一党は既に、この本陣近郊にまで迫りつつあります! 第四密偵連隊の残党が捨て身の遅滞戦闘を行っていますが、もはや時間の問題ですッ!!」

 

参謀の悲鳴に近い叫びに、司令は南の空を一瞥した。

 

「……案ずるな。既に深淵守護旅団がすでに出撃した。あの男の剣域がある限り、勇者とて容易くはここへ辿り着けまい」

 

北方軍司令は椅子に深く腰掛けたまま、感情を殺した声で応えた。彼の視線は地図の各所に散らばる消耗しきった駒へと向けられる。

 

「主戦線の戦況を申せ」

 

「はっ! 王都軍第一騎兵連隊が、乾坤一擲の総攻撃を仕掛けてまいりましたが、これを完全に撃退。……敵はもはや、組織的な突撃能力を喪失しております」

 

第三鋼鉄旅団長が報告を繋ぐ。だが、その声は沈んでいた。

 

「しかし……度重なる遅滞戦闘により、殿を務める第四鋼鉄旅団の弾薬、および魔力触媒は残り二日分を切りました。槍の穂先はこぼれ、弩の弦は尽きかけております。……彼らの『規律』が、物理的な限界に達しようとしています」

 

「……王都軍も同様ですな」

 

第一迅雷旅団長が、力なく付け加えた。

「あちらも兵力と術が底を突き、最早攻撃能力は残っておりません。……今、この戦場を支配しているのは、どちらが先に『全滅』という一線を踏み越えるかという、死の我慢比べにございます」

 

司令は、自らの胸に刻まれた古傷をなぞった。

 

「……問題は、南方の『死神』だ。もしあの娘がこの場所を『ゴブリンの巣穴』として掃除に来たら……。消耗しきった我が軍は、戦う前にこの世から消去される。」

 

司令の問いに、魔導波の解析を続けていた第二師団長が、深刻な面持ちで顔を上げた。

 

「……南方の観測班より緊急入電。……辺境の街で、大規模な魔力の激突を感知しました。魔力波が数千キロ離れたこの地にまで届くほどの……神話級の戦闘です」

 

「……何だと?」

 

「死神が……何かに食らいついています。現在、かつての『邪竜』にすら迫る何らかの強大な怪物と、真っ向から衝突。……街を半壊させるほどの死闘を演じているとのことです」

 

司令の口元が、皮肉な笑みに歪んだ。

 

「……化け物同士の共食いか。司祭め、つくづく予測不能な盤面を整えてくれる。……だが、それが我らにとっての最後の『猶予』となるかもしれんな」

 

「……はい。死神が臨界点を迎えるまであと二十四時間。彼女がその『掃除』を終えたその瞬間、世界はゴブリンの巣穴へと変わるでしょう」

 

第三鋼鉄旅団長が、砂時計の最後の一粒が落ちるのを見守るような声で告げた。

司祭が遺した計算式。一人の少女の心が「完全な虚無」へと反転し、全知的生命体をゴブリンと断ずるまでの刻限。それが、もう目前に迫っている。

 

「王都も南方の異変には気づいているようですな」

 

影の中から第四師団長が、情報の断片を繋ぎ合わせるように言葉を重ねる。

「大司教が、何度も勇者の南方派遣を要請していますが……。王都本部は、あの黄金の駒をこの北の戦線から離す気はないようです。我が軍がここで勇者を引き付け、あえて隙を見せることで、反転して再度王都になだれ込むための『罠』だと踏んでいるのでしょう」

 

「……南を切り捨てて王都の安全を取ったか。合理的で、実に人間らしい判断だ」

 

北方軍司令は、自嘲気味に口端を歪めた。

 

「愚かな……。仮に今、勇者が戦線を離れたとしても。再度攻勢に出る余力など、今の我が軍のどこに残されているというのだ。……巨兵も翼竜も、既に半分以上が土に還ったというのに」

 

第一迅雷旅団長が、折れた翼の痛みを堪えるように吐き捨てた。

彼ら軍人には分かっていた。この1ヶ月の消耗戦で、北方軍という組織は既に「死に体」であることを。王都が恐れている「反転攻勢」など、もはやどこにも存在しない幻影に過ぎない。

 

「仮に……仮に今この瞬間、王都が翻意して勇者を南方に派遣したとしても、もう間に合いますまい」

 

第二師団長が、魔導水晶に映る距離と時間を冷徹に弾き出す。

「北の戦場から辺境の街まで、勇者の速度を以てしても数刻はかかる。臨界点までの残り時間……もはや、神々の指先が盤面を弾く方が早い」

 

司令はゆっくりと立ち上がり、天幕の隙間から見える南の空を仰いだ。

そこには、星の光さえも吸い込むような、漆黒の巨大な渦が広がりつつあった。

 

「……奴が臨界点を迎えれば、南方がまず滅びる。……次に『掃除』されるのが王都か、それとも我らか、あるいはその全てかは分からん」

 

司令は、自らの腰に提げた軍刀を、静かに、けれど強く握りしめた。

 

「我らは、一人の少女の『嫌だ』という悲鳴に、世界を賭けてしまったのだな。……司祭よ。お前が望んだ終末は、これほどまでに寒々しいものか」

 

北方軍司令部に、最期の沈黙が訪れた。

彼らが待ち望んだ「最強の兵器」が、世界を終わらせる「真の死神」として羽化するまで、あと二十四時間。

 

「……王都に潜伏させている第三密偵連隊から最期の報告です。中枢の奇妙な動きを捉えました」

 

沈黙を破った第四師団長が、暗闇の中から報告を上げる。その声には、情報戦の達人である彼ですら測りかねる、困惑の響きが混じっていた。

 

「国王と大司教……彼らには、勇者を派遣する以外に、別の考えがあるようです」

 

「……死神を止める策が、勇者以外にあるというのか?」

 

北方軍司令が、眉間に深い皺を刻んで問い返した。それに対し、実務的な勝利のみを信じる参謀が鼻で笑う。

 

「馬鹿な。勇者の聖剣という神の理不尽以外に、あの化け物を止められる方法などこの世に存在しません。物理を拒み、理を壊す衝撃を、どうやって封じるというのですか」

 

「……司祭が、『切り札』と呼んだ、あの地母神の娘です」

 

第四師団長の言葉に、室内の温度がさらに一段階下がったような静寂が訪れた。

 

「……地母神の神官か。あの日、死神と共にあの洞窟から生還した……」

第三鋼鉄旅団長が、かつての資料を思い出しながら呟く。

「武力ではなく、心で拒絶の呪いを解こうというのか。……あまりにも、あまりにも非効率で……冒険者らしい、青臭い夢想だ」

 

「……不可能だ。断言する」

 

第二師団長が、冷酷な魔導的見地から一蹴した。

「あの死神に刻まれた混沌の術式は、既に自我と完全に融合している。……不浄の指針は、外界からのあらゆる『情動』を不浄なノイズとして処理し、衝撃波へと変換する自動迎撃システムだ。……人の心に戻すなど、割れたグラスを水に戻そうとするに等しい。……理屈が成立せんよ」

 

「同感ですな。そのような奇跡、戦場には存在しない。あるのは研ぎ澄まされた刃と、磨り潰される命だけだ。王都の連中、ついに神頼みの妄想を現実にし始めたか」

 

第一迅雷旅団長が、折れた軍刀を握りしめて付け加えた。

「我ら軍人が積み上げた二十年の執念が、あの勇者の光に焼かれて消えようとしている今……。たった一人の小娘の『情』が、神話の破壊を止められるはずがない」

 

将帥たちは、王都の決断を「追い詰められた者の狂言」として切り捨てた。

軍隊、魔術、暗殺、巨獣。

強大な「力」を信奉し、それを磨り潰してきた彼らにとって、女神官が持つ「慈悲」という力は、計算式に代入することさえ不可能な、無価値な雑音でしかなかった。

 

「……フン、よかろう。王都の連中には、精々その『奇跡』とやらに縋らせておけ」

 

司令は、再び南の空を見据えた。

 

「我らは、あの子が全てを掃除し終えるのを待つのみだ。……愛などという不純物が、司祭の最高傑作を止められるかどうか。……その答えは、間もなく『世界の崩壊』という形でもたらされるだろうよ」

 

北方軍司令部に、冷笑と諦観が入り混じった静寂が戻る。

彼らは確信していた。

世界を救うのは「力」であり、世界を滅ぼすのもまた「力」であると。

ただ一人の少女の「温もり」が、十二万の軍勢が震えた終末を溶かそうとしていることを、この時の彼らはまだ「理の外の出来事」として切り捨てていた。

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