まだ日も登りきらない、土曜日の早朝。
ジャージに着替えてから、物音を立てないように階段を下りる。シューズの紐をしっかりと結び直し、玄関先で軽くストレッチを行う。
うっすらと白み始めた東の空、肌を撫でる春先の冷たく澄んだ空気と鳥の鳴き声。車の音も人の気配も感じない、街全体がまだ眠っているかのようなこの時間が、俺は割と好きだった。良く知っている場所なのに、まるで見知らぬ世界に入り込んでしまったような感覚。
程よく身体が温まったところで、滑るように走り出す。最初は関節に負担をかけないよう軽めに。呼吸数が上がると共に少しずつ脚の回転を速め、ストライドを大きくしてジョギングからランニングへと切り替えていく。
見上げた先には、ひと足早く朝日を受けた雲がまばらに浮かんでいる。
今日も、良い天気になりそうだった。
◇◆◇
走り続けることしばらく。
中間地点に定めている市民公園に到着した俺は、ゆっくりと走る速度を落としていく。ポケットに入れておいた小銭でドリンクを買い、ダウンを兼ねて遊歩道を軽く流しながら呼吸を整える。
家を出る時は見えなかった太陽も半分ほど登っており、木々の隙間から爽やかな陽光を注いでいる。風に揺れる枝葉の音、植物の青臭さと土の香り。歩いているだけで凄まじいリラックス効果である。
人気のない公園で早朝の森林浴。早起きは三文の得と言うが、正にその通りだ……と、あれは……?
ふと、遠目に見覚えのある姿が視界に映った。小柄なシルエットにローズピンクの三つ編み。つい先日我がレスリング部のマネージャー(仮)に就任した甘結だった。白とピンクのジャージに身を包んでおり、おそらくは朝の散歩か何かにやってきたのだろう。
休憩中なのか、備え付けられたベンチに腰掛けて木漏れ日の中で静かに空を仰いでいた。目を閉じ、そよぐ風に髪を遊ばせる姿はそれだけで絵画のワンシーンかと思える程、穏やかな風景とよく馴染んでいた。
まさかこんな所で出会すとは思ってもみなかったが、よくよく考えてみれば甘結の家は確かこの辺りだったな。甘結のスタミナがどの程度かは分からないが、散歩のコースとしてはちょうど良いのかもしれない。
さて、声をかけるべきか否か。
人当たりの良い甘結とはいえ、休日にまで学校の先輩と顔を合わせるのは疲れるだろう。しかも態々リフレッシュに出てきた所、折角の良い気分に水を差してしまうのも忍びない。ここは気付かれないうちに退散するのが吉か。
そう考えて踵を返そうとした瞬間、目を閉じていたはずの甘結が不意に此方を向いた。スポドリ片手に突っ立っていた俺を見付けるや、慌てたように立ち上がると小走りで駆け寄ってくる。流石に無視して帰る訳にもいかないので、片手を挙げて応えつつ歩み寄る。
「おはようございます、せんぱい!」
「ああ、おはよう甘結。早朝から散歩か?」
「はい。今日はちょっと早起きできたので、折角だから出てきちゃいました。せんぱいもお散歩ですか?」
「俺はランニング中だ。この公園を回る間は休憩を兼ねて歩いているから、まあ散歩と言えなくもないが」
「お休みの日もトレーニングですか! 凄いです……!」
「……そんな大袈裟に褒められるような事でもないんだがな」
大きな瞳をきらきらと輝かせて(勿論比喩だ)感激した様子の甘結。もう習慣になっていることをそんなに褒められても、嬉しさよりも羞恥が勝ってしまう。照れ隠しのようになった返事はぶっきらぼうなものだった。
というか前々から思っていたが、甘結は少し俺の事を過大評価しているような節があるな……。
不良から助けた一件で、吊り橋効果のようなものが一時的な感情を肥大化させてしまっているのかもしれない。言い表すのなら、助けた小動物に好かれる……懐かれる? ふむ、これだな。『懐かれる』が一番しっくり来る。
見目麗しい後輩がせんぱいせんぱいと呼び慕ってくれるのは悪い気はしないが、その一方で罪悪感に近しいものも感じてしまう。甘結はそんなつもりはないのかもしれないが、色眼鏡やフィルターが俺の事を偶像化しているのなら早めに認識を正しておきたいところだ。
「甘結、少し時間はあるか?」
「はい。今日は特に予定もないので大丈夫ですよ」
「ああいや、この散歩中にでも終わる話だ。良ければ歩きながら、どうだ?」
「はいっ」
時間はあるかと聞いただけなのに、ノータイムでOKが返ってくる辺り大概である。年頃の少女なのだからもう少し異性に対する警戒心というか、自衛の意識を持って欲しいものだ。……二つしか違わない小僧が心配することではないのかもしれないが。
普通に歩いては甘結が競歩か小走りになりそうなので、歩幅を狭めてペースを落とす。ゆっくりと遊歩道を歩く道すがら、早速だが気になっていた事を訊ねてみる。
「甘結、その……こんなことを言うのは野暮かもしれないが。入学前に一度面識があったとはいえ、俺達はまだ出会って二週間程度の仲だろう? 些か、俺に対して気を許しすぎじゃないかと思ってな」
「へ……? ダメなんですか?」
ぺしょ、と眉を下げてそんなことを言われては此方の罪悪感が天井知らず。だが、ここで折れてはきっと甘結の為にならない。純真無垢な少女が傷つかない為にも、心を鬼にして───
「私、せんぱいの事をもっと知りたくて……ご迷惑、でしたか……?」
「そんな事はない。冥利に尽きる」
俺は、弱い…………ッ。
無理だ、言える訳がない。
いやそもそも、俺が間違いを犯さなければ問題はないんだ。加えて、俺が近くに居る事で甘結に害を及ぼすような輩を追い払えるのなら甘んじて虫除けになろうではないか。本人の意識に関しては……同性の友人に任せよう。いや、俺も可能な限り忠告はするが。
「しかし、俺の事を知りたいと言っても底は浅いぞ。精々がレスリング関連と趣味程度なんだが」
「あ……その、知識的な面じゃなくて……」
俺の言葉に、甘結は少しだけ逡巡するような様子を見せた。言おうか、言うまいか。口を開きかけては閉じ、もう一度開いて小さく息を吸い込む。そうして語られた内容は、およそ彼女に似つかわしくない程重く深いもので。
「私、今まで色んな習い事やスポーツをやってきました。楽しいとは思いました。面白いとも思いました。でも、どうしても心の底から夢中になることが出来なかったんです。半端に齧って、途中で辞めて……それでも何かに打ち込んでいないと、苦しくて」
それは、甘結もかという少女が抱える苦悩だった。
胸の内に渦巻く莫大な熱量。それら全てを消化し切れる何かに未だ出会えず、さりとて燻らせておけば己を灼く焦熱。小柄な体躯と穏やかな性格にはおよそ似つかわしくない程の『闘志』。出口を見つけられずにいるソレが、少女の胸中を荒らしているのだろう。
「でも……でもっ。一心に努力するせんぱいの姿を見ていれば、私に足りない『何か』が分かるかもしれないって、そう思ったんです。……根拠は、その。ないんですけど……」
「……そうか」
未だ齢十五の少女、迷うことも惑うこともあるだろう。甘結が求める答えを俺が持ち得ているのか定かではないが、俺の姿から何かを学び感じられるというのであれば否やはない。
僅かばかり先を歩く輩として、彼女がいずれ往く道の
「そういう事なら構わない。俺に出来ることなら何でも言ってくれ」
「あ、ありがとうございますっ! じゃ、じゃあ早速なんですけど……せんぱいは、どうしてレスリングを始めたんですか? やりたいって思ったきっかけとか、あるんですか?」
「そうだな……最初はどこかの大会の映像をテレビで見たんだ。小学生の時で、丁度ジュニアクラブも近くにあったから入会させてもらった。身体を鍛えて基礎を学び、ルールを知って技を磨いた。マットに上がればそこには自分と相手の二人だけ。誰の邪魔も入らない環境で、自分の持てる限りを尽くして競う。格闘技の醍醐味、ってヤツを知ってからはもう抜け出せなくなった」
懐かしい、もう十年近く前の話だ。
バスケットやサッカーのような派手さはないかもしれない。テニスや体操のように華はないかもしれない。しかし、俺はそのどこまでも泥臭く実直に鎬を削り合う姿に心を惹かれた。
その時胸に灯った憧憬の炎は、今も変わらず燃え続けている。
つまるところ───
「好きなんだよな、この競技が。『自分が強いことを証明したい』『大会で優勝したい』。理由は色々あるだろうが、根っこは皆同じだと思う。好きでなきゃ続かないし、好きでなきゃ真剣になれない。甘結にはあるか? 胸を張って『好きだ』と言える何か」
「……どうなんでしょう。今は、ないかもしれません」
「じゃあ、まずはそれを探すところからだな。趣味でも、習い事でも、スポーツでもなんでもいい。片っ端から手を出してみるのも悪くないだろう」
「そ、そう言われると悩んじゃいますね。趣味と言っても森林浴と散歩くらいですし」
「俺だってそう変わらないさ。筋トレと読書とゲームだからな」
「ゲーム、ですか?」
聞き慣れない単語を聞いた時のような顔をした甘結がこてんと小首を傾げた。ふむ、この反応は脈アリか?
「ああ。一口にゲームといっても色々な種類があるし、試しにやってみると案外ハマるかもしれんぞ?」
「はぇー……せんぱいがやってるのはどんなゲームなんですか?」
「対戦型格闘ゲーム……いわゆる『格ゲー』ってやつだな。一対一で殴り合って、相手の体力をゼロにしたら勝ち。シンプルなルールだが奥が深くて面白いぞ」
操作に慣れるのには少し時間がかかるかもしれないが、それを補ってあまりある程に面白い。対戦するのが同じキャラであっても、操作する側の癖やプレイスタイルによって試合内容は全く異なる。
毎試合違うことが起きるという楽しさ、やり込めばやり込む程に見つかる課題とトレーニングモードに籠る努力と練習。勝っても負けても100%自分の責任でしかない。競技性という点では現実の格闘競技と似通っている部分もあるかもしれないな。
「ちょっとだけ見てみたいかも、です」
「ふむ。最寄りなら駅近くのゲームセンターになるが……午後から行ってみるか?」
「えっ! 良いんですかっ!」
「ああ。ただ、甘結は大丈夫なのか?」
ゲーセンなんて治安が良いとは言い難い。貼られるラベルは『不良のたまり場』、女子高生が立ち入る場所としてはあまり推奨できないのは確かだ。俺も同行するし、真昼間っから問題を起こすような奴は居ないとは思うが……前回の件もあるし、変なトラウマが出来てなければ良いのだが。
「ちょっとだけ怖いですけど……でも、せんぱいが居るので大丈夫です!」
「……そうか」
曇りのない笑みでそう言われてしまっては返す言葉もない。無垢な信頼がむず痒いが、俺から場所を紹介した以上は虫除けの役目をしっかり果たすとしよう。
「じゃあ午後から……あっ! 折角ですからお昼もご一緒にどうですか?」
「ん? ああ。それなら……12時半に駅前集合で良いか? 」
「はいっ、大丈夫です! じゃあ、早速帰って準備してきますね!」
「……まだ7時だぞ? 幾らなんでも早すぎやしないか?」
「むっ。女の子は色々と準備に時間がかかるものなんですっ」
「そ、そうか……すまない。無神経だったな」
口に出しておいてから反省する。甘結の言う通りで、男の俺と比べるものじゃないな。髪だってあれだけ長ければシャワーを浴びて乾かすだけでも大変だろうし、手入れも含めたらかかる時間は推して知るべし、だ。
「あ、そうだ。せんぱい、LI〇E交換しませんか? お互い連絡先を知らないままだと不便ですし」
「……それもそうだな」
スマホを取りだして、長らく使っていなかった友達の追加機能を開く。差し出された甘結のスマホに表示されたQRコードを読み取れば、アカウント名『もか』が数少ない連絡先の一覧に追加された。
なんとなく覚えた違和感に従って、表示された名前を『もか』から『甘結』に書き換える。うむ、これでいい。女性を下の名前でというのは流石にな。
等と一人で納得していると、しゅぽっ、という気の抜けた音と共に甘結からスタンプが送られてきた。ピンク色の丸っこいマスコットキャラクターのようなものが『よろしくお願いします!』と言っていた。……最近の女子高生はこういうのが好きなんだろうか。分からないな、流行り廃りは……。
手元のスマホを大事そうに見詰める甘結。その表情には少しの恥じらいと喜色が滲んでいた。
「私、男の人と連絡先交換するの、初めてなんですよぅ」
「奇遇だな、俺もだ」
良くも悪くも部活と趣味一辺倒で、愛想も良くないデカい男と態々連絡先を交換しようと思う女子なんて居ないからな。クラスの奴らと仲が悪いとかそういう訳でもないが、日常会話しかしないなら直接話せば事足りるのだ。甘結の場合はこんなしょうもない理由ではないんだろうが。
「えへへっ。じゃあ、一緒ですねっ」
「……そうだな」
些細な偶然の一致で顔を綻ばせる甘結。理由はなんであれ、眼前の少女が朗らかに笑っていられるのであれば何でもいいか、と思う。つられて、俺も小さく笑ってしまった。
「と、立ち話もここまでにしようか。また後でな、甘結」
「はいっ! せんぱいもお気をつけて!」
三つ編みを揺らして去っていく甘結の後ろ姿を見送る。
余程気分が良いのか、小さくスキップ……スキップなのかあれは。手と足が同時に出ているというか、なんだ、この……なんだ? 甘結ステップ(仮称)をしながら帰路に着く彼女の後ろ姿が見えなくなってから、俺も帰宅の準備を始める。
身体は十分休まっている。精神的にも、往路より良いコンディションだ。
家に着いてから時計を確認してみれば、普段より5分近くも早いタイムだったことに気付いて呆れたのは余談である。